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関東人必読!書評『本当はすごい!東京の歴史』(田中英道・著)

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東京に住んでいると古都の京都や奈良、戦国時代の史跡を数多く残す大阪や滋賀、天下取り武将を輩出した名古屋、古墳や中世の山城を数多く残す中国地方や九州、遍路道のある四国などなど、中部・西日本に対する憧れを強く抱いてしまいます。

東京なんて鎌倉幕府があった鎌倉に近いだけでしょ?東京の歴史なんて、江戸時代以降たかだか400年くらいでしょ?東京なんて、家康が江戸幕府を作るまでは葦の生い茂った荒れ地の僻地だったんでしょ?……恥ずかしながら私もそのように思っていました。

ところが、2014年5月に刊行された田中英道『本当はすごい!東京の歴史』(ビジネス社、1512円)を読んで驚きました。

そういえば、“縄文時代”は東京の大森貝塚で発見された土器から名付けられました。“弥生時代”も、東大のすぐ近くにある弥生町から出土した土器から名付けられました。

東京は、本当は歴史の宝庫だった!(実は東京都というより関東のすごさが分かる本ですが、広く東京圏ということで)

縄文時代は東国の方が人口が多かった

 

縄文時代早期(1万2,000 - 7,000年前)。
日本列島の人口は、東北2000人、関東9700人、北陸400人、中部3000人、東海2000人、近畿300人、中国400人、九州1900人だったといわれています。縄文時代は東国、特に関東が突出して人口が多かったようです。縄文時代はずっとこの東高西低の人口分布の状態が続きました。

全国に2500ヶ所ある貝塚も、その四分の一が東京湾岸一帯に分布していました。板橋区の茂呂遺跡には2~3万年前から人が住んでいたことが発掘で確認され、町田、稲城、多摩、柚木地区にも、青森の三内丸山遺跡に匹敵するような巨大な縄文遺跡が、1986年までに964地点も見つかっています。

しかし関東は弥生時代の遺跡は少ないのです。つまり関東は“高度に進んだ縄文時代から一気に古墳時代に移行した“地域と言えるそうです。

“高度な縄文時代”とは?

ところでここでいう“高度な縄文時代”についてですが、縄文時代というとどうしても原始的なイメージを思い浮かべてしまいますが、実は縄文人は、かなり高度な文明を持っていたのではないか?という説が近年急上昇しているそうです。

縄文中期の大規模集落跡、三内丸山遺跡(青森市)からは、六本の柱を持つ三層の大型掘立柱建物や780軒もの住居跡などが見つかり、縄文人が日本各地で交易を行い、栗などの栽培を行っていた、などの新事実も次々と明らかになっています。

「縄文人は稲作をしていない、文字がない、だから未開人だ」と思われていますが、実は「豊かな自然に恵まれていたので稲作をする必要がなかった」、そして「文字はなくとも火焔土器や土偶に見られるように、縄文人は高い視覚的造形センスと美術センスを持っていた」とも言えます。

また縄文時代は約1万年に及ぶと言われていますが、この間大きな戦が起きた形跡がなく、平和な時代が続いた様子が窺われるそうです。また縄文時代の出土品からは琴に似た楽器や生まれたばかりの赤ちゃんの足型をとった粘土なども見つかり、音楽を楽しみ、我が子の健やかな成長を願う縄文人の姿までもが浮かび上がってきます。

青森県八戸市で出土した縄文時代の琴?作曲家:吉松隆の21世紀音楽界諦観記のブログより

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岩手県滝沢市で出土した子供の足形(滝沢ファンHPより)

さらに縄文時代の埴輪にはダウン症の人をモデルにしたようなものが数多く見られますが、これは障害を持って生まれた人を“神に近い存在”として、皆で大切に育てたということではないか?という説まであります。本当にそうだとすると縄文時代は福祉も充実した、平和な豊かな理想的な社会だったのかもしれません。

青森県八戸市の国宝指定の土偶。ダウン症をモデルにしたという説もあります(写真は八戸市HP より)

関東地方の古墳群にコーフン

関東の場合、この“高度な縄文時代”から弥生時代をほぼすっ飛ばし、一気に“古墳時代”へと移行したようなのですが、関東にも関西程ではありませんが、古墳群が数多く存在しています。

長さ120m以上の巨大古墳は関東にも21基あり、群馬県太田市の天神山古墳は長さ210mの東日本最大の前方後円墳。また茨城県の船塚山古墳は長さ186m、梵天山遺跡は長さ160mというデータもあり)あります。

 

太田天神山古墳(太田市HPより)

埼玉が関東の中心だった。埼玉(さきたま)古墳群

その中でも特に貴重なのが、埼玉の県名にもなった「埼玉(さきたま)古墳群」です。
映画『のぼうの城』でも有名になった行田市の石田堤のすぐそばにあり、稲荷山古墳(120m)、丸墓山古墳(105m)、二子山古墳(138m)、鉄砲山古墳(109m)、将軍山古墳(90m)、中の山古墳(79m)、瓦塚古墳(73m)、奥の山古墳(66m)、愛宕山古墳(53m)と、巨大古墳が密集しています。そしてこの中の稲荷山古墳から、大変重要な鉄剣が発見されました。

さきたま古墳群全景(さきたま史跡の博物館HPより)

この鉄剣には、「辛亥の年七月中」に「天皇に仕えたヲワケという人物がその鉄剣を作らせた」ということ、そしてその天皇の名前は「ワカタケル」であることが記されていました。

「辛亥の年」というのは471年、雄略天皇の在位中です。これによりワカタケルは雄略天皇だということがわかり、また熊本の江田船山古墳から出土していた直刀にも「ワカタケル」と刻まれていたのですが、こちらも雄略天皇だという説が有力になりました。

このことにより確かに5世紀に雄略天皇が実在し、しかも関東と九州という広範囲に渡って権力を維持していたということ、そして埼玉にこれほど大きな重要な古墳群があることから、当時埼玉が関東の中心として中央政権と強く結びついていたことなどがわかりました。

古代史を覆した黄金の文字(さきたま史跡の博物館HPより)

埼玉だけでなく、東京にも古墳はありました。東京タワーの近くの芝丸山古墳(長さ106m)、三田の亀塚古墳(直系18m)、北区王子の飛鳥山古墳(直系31m)、多摩川にも古墳群が密集しています。上野公園一帯にも小型古墳がたくさんあり、現在もその中心だった摺鉢山古墳が残っています。

高天原は関東にあった? 

江戸時代に新井白石が著した『古史通』(1716年)では、「高天原は常陸の国(茨城県)だ」という説が唱えられているそうです。ヒタチは“常に陸”、または“日に立つ”とも書きますが、これは日が昇るところ、アマテラスが生まれたところ、という意味だということです。

平安時代に神宮と呼ばれたのは伊勢神宮以外は関東の2社だけ

確かにこの地域には鹿島神宮(茨城県鹿島市)と香取神宮(千葉県香取市)という最高に格の高い神社が2つもあります。
平安時代、神宮という呼称のつく神社は、伊勢神宮とこの鹿島神宮と香取神宮だけでした。またその鹿島神宮から2キロ離れた神宮の飛び地である境内には、高天原という地名が付いています。ここには鬼塚という全長80mの大古墳があり、太平洋に昇る朝日と筑波山が望めます。

『古事記』ではオオクニヌシの国譲りの話の中に、鹿島神宮の御祭神・タケミカヅチノミコトと香取神宮の御祭神・フツヌシが登場し、オオクニヌシに国譲りを迫ります。
江戸時代の国学者、谷川士清(ことすが)は『和訓栞』の中で、このことが「鹿島立ち」という言葉の元になり、鹿島神宮と香取神宮の神が鹿島を出て日本の国を平定したことに基づく、と記しています。その後「鹿島立ち」は、武士が戦に赴く際、鹿島神宮に武運長久を祈って旅立つという意味になり、今では旅の安全を祈る意味となっています。

また神武東征の時も、神武天皇が熊野の地でピンチに陥った時、タケミカヅチノミコトが霊剣を授けて神武天皇を助けています。

タケミカヅチノミコト(鹿島神宮HPより)

藤原氏の氏神・奈良の春日大社も奈良の鹿もみな茨城出身!

また奈良時代に奈良の都を守るために創建された春日大社をみても、創建したのは鹿島神宮出身でタケミカヅチノミコトの子孫といわれる藤原氏で、春日大社の由来には「鹿島の地から神が鹿の背に乗ってやってきた」と伝えられています。

このように鹿島神宮と香取神宮には、一般にはまだされていませんが、なにか凄い意味が隠されているようです。

 

東京にある古い寺社と寺院

 

次に東京の古い寺院についてです。東京の最古の寺は、推古天皇36年(628年)に創建された浅草寺だと言われています。また天平5年(733年)に創建された深大寺(調布市)には、天智天皇時代の白凰仏・銅造釈迦如来倚像があります。奈良の法隆寺が推古15年(607年)、薬師寺が天武天皇9年(680年)、唐招提寺が天平宝字3年(759年)だということと比較しても、浅草寺、深大寺の古さがわかると思います。

浅草寺の雷門(浅草寺HPより)

また聖武天皇の時代、天平13年(741年)に国家鎮護のために全国60数カ所に国分寺が建立されましたが、武蔵に置かれた国分寺が、東大寺に継いで大きかったと言われています。現在も東京都国分寺市に後継寺院の武蔵国分寺がありますが、平安時代末から鎌倉時代初期に造られた、170cmもある重要文化財の薬師如来像が残されています。

さらに神社になるともっと古い、景行天皇41年(111年)の創建と言われている大國魂神社(府中市)があります。司馬遼太郎の『燃えよ剣』の冒頭シーンにも出てくる「くらやみ祭り」が行われる神社です。新選組の土方歳三や近藤勇も大変ご縁があります。奈良時代は大國魂神社と武蔵国分寺が、武蔵野国の神社と仏閣の双璧だったと考えられています。

しかし大宮にはもっと凄い、大宮の地名ともなった武蔵野国一宮・氷川神社があります。ここは特に古い由来を持つ神社で、考昭天皇3年(紀元前473年)に創建されたと伝えられています。全国の氷川神社の総本山で、源頼朝、足利氏、北条氏、徳川氏からも崇敬を集め、明治天皇も東京遷都の時、氷川神社を武蔵野国の鎮守と定めました。

う~ん、やっぱり埼玉はスゴイ。“ださいたま”なんて、口が裂けても言えないかも。“さいたま”ではなくて、“さきたま”に変えればいいのかも……?

平将門の乱と藤原三代・奥州平泉

 

“東国は実は凄かった”という話はまだまだ続きます。関東地方の大事件と言えば、平安時代中期に起きた平将門の乱(935年)ははずせません。その後その平将門の乱を鎮めた藤原秀郷の子孫達が、「前九年・後三年の役」(1052年)を経て、平安時代の末期、奥州平泉に藤原三代と呼ばれる独自の政権と文化を築きました。この約100年続いた奥州平泉、当時人口が十数万人あったという説もあり、平安京に次ぐ大都市だったと言われています。

 

鎌倉と源氏を結んだ、源頼朝の祖先が既にいた

その後、1192年頃に源頼朝が鎌倉に幕府を開きましたが、頼朝が鎌倉に幕府を築いた理由として「公家に変わって武士が政権をとったため、中央から距離を置こうとした」という説明がよく聞かれます。でも実は頼朝の祖先に、鎌倉と源氏を結ぶ基礎を作った武士が既にいたのです。

頼朝の祖先・源頼信は、武勇に優れた藤原道長の側近で、道長四天王と呼ばれた人物でした。河内源氏の祖とされ、房総三カ国で起きた「平忠常の乱」(1031年)を平定し、源氏が東国に進出するきっかけを作りました。

その嫡男・頼義は平直方の娘を娶り、直方から鎌倉の屋敷を譲られます。以降源氏は鎌倉を東国支配の拠点にします。

さらに頼義は一族の氏神の京都の石清水八幡宮を鎌倉に勧請し、鶴岡若宮(後に頼朝が場所を移して鶴岡八幡宮に発展)を、そして武蔵野国に大宮八幡宮(東京都杉並区)を建立しました。

鶴岡八幡宮(Wikipediaより)

そして頼義の長男・義家も、頼義が「前九年の役」で活躍したように「後三年の役」で活躍し、武家の棟梁としての信望を集めます。後の時代に頼朝や義経や室町幕府の足利尊氏の祖先として英雄視されるようになり、源氏ゆかりの八幡神社が各地に作られました。世田谷八幡宮(世田谷区)、太子堂八幡神社(世田谷区)、旗岡八幡神社(品川区旗の台)、千束八幡神社(大田区)、銀杏岡八幡神社(台東区浅草橋)、六郷神社(大田区)などがそうです。

そしてこの義家の孫が、平家を滅ぼし鎌倉に初の武家政権、鎌倉幕府を開いた源頼朝でした。しかし実は頼朝の父の義朝も、鎌倉の亀ケ谷(現在の扇ガ谷)に館を構えていたと言われています。つまり頼朝にとって鎌倉は、先祖代々縁のある土地だったのです。

 

実は”江戸氏”という人物がいた 江戸氏の繁栄と衰退

 

江戸という地名は、平安時代後期の記録に、既に「武蔵野国豊島郡江戸郷」として記されていました。平安後期、この地に桓武平氏の流れをくむ平重継が進出し、開発を始めました。重継は江戸四郎と名乗り、現在の皇居付近の桜田門の高台に屋敷を構えたと言われています。

江戸四郎から七代目の重長(彦太郎)には7人の子どもがおり、長男から順に江戸、木田見(世田谷区喜多見)、丸子(大田区丸子)、六郷、柴崎(大手町)、飯倉、渋谷を治めたと言われています。しかし室町時代に太田道灌に追われ、15代重広が江戸から喜多見に江戸氏の本拠地を移しました。

江戸時代に入ると江戸氏は、将軍の住む場所と同じ名を名乗るのは憚られるということで、名を江戸から喜多見へと改め2万石の大名になります。しかし5代将軍綱吉の時代に改易、平安時代から続く江戸家の家系が途絶えてしまいました。

しかし江戸四郎重継が勧請した赤坂日枝神社、また神田明神には江戸氏の氏神の江戸神社が今も残っています。また喜多見にも江戸氏の菩提寺の慶元寺があります。

それからの江戸は、よく御存知の通りで…

 

太田道灌(Wikipediaより)

室町時代に江戸氏が江戸から喜多見に去ったあとは、よく知られているように太田道灌が江戸に入って江戸城を築き、沢山の寺社を建て、江戸を城下町として発展させました。その後上杉氏、北条氏、そして徳川家康が江戸に入り、江戸の街を大きく発展させました。

このように江戸時代に徳川家康が江戸に入る以前から、江戸や関東、そして東国には色々な歴史があったのです。

私は旗岡八幡神社(品川区)と千束八幡神社(大田区)」の近くに住んでいますが、旗岡八幡神社は東急・旗の台駅のすぐ側にあり、源氏が戦勝祈願のために旗を沢山立てたことから、ここを旗岡と呼ぶようになった、と聞いたことがあります。近くには源氏前小学校という学校もあり、ここには源氏の屋敷があったと伝えられています。また千束八幡神社は東急・洗足池駅のすぐそばにありますが、洗足池は勝海舟がとても愛した土地で、屋敷を建てて晩年を過ごしました。海舟が建立した西郷隆盛を祀る小さな神社も必見ですよ。

 



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