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史実は天皇「私実」?遠藤慶太『六国史』(中公新書)書評

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奈良時代と平安時代、いわゆる日本の古代とよばれる時代はなにによって語られているのか。
それが国の公式の歴史書グループ「六国史」だ。通り名の通り、六つの史書からなる。
720年に完成した日本書紀をはじめ、続日本紀、日本後紀、続日本後紀、日本文徳天皇実録、日本三代実録である。
はじまりは日本書紀の世界の創生神話、おわりは平安中期の887年8月。
これらに載る事象が史実となってきた。もっとも、今も昔も政府が手を入れたものは、その時々のバイアスがかかっているのは言うまでもないが、日本の成り立ちを考える上で、これらの史書は日本人の教養として常に振り返るべき「情報」といえる。
たとえば、徳川家康は、豊臣家を滅亡させようとした1614年の大坂冬の陣の直前に、京都で、六国史(当時はそうした形でまとまってはいなかった)などの編纂を命じている。これからはじまる徳川の世の仕組み作りに、家康が古代において全国を統一した仕組みを取り入れようとしたことは間違いない。

古代史だけでなく、近世以降の歴史にも影響を与えてきた六国史を、1974年生まれの気鋭の古代史学者である遠藤慶太・皇學館大学准教授がまとめたのが、本書『六国史―日本書紀に始まる古代の「正史」』(中公新書、2016年2月刊)だ。

20160522042241六国史

六国史をまとめた本は、古代史のレジェンド坂本太郎の「六国史」があるが、半世紀も前である(1994年に吉川弘文館から新装版として刊行)。

第1章の日本書紀についての本は多数出されていることから、「第2章 天皇の歴史への執着」の一部を紹介していく。

六国史第二の続日本紀は710~784年まで、つまりほぼ奈良時代を網羅している。
その特徴は、編纂を命じた当時は存命の桓武天皇の項目があることだ。つまり、桓武天皇にとって「都合のいい歴史」であるというのが前提となっている。
そこでは、桓武天皇が息子を皇位につけるための謀略との説が根強い、実弟で皇太子だった早良親王についての情報は、当然ながら削除の対象だ。
一方で、続日本紀が対象とする期間のうち、奈良時代の前半については、比較的感心が薄かったのだろう。
たとえば、藤原氏との政争に敗れて自殺した長屋王(676?~729)の変について、当時の聖武天皇が下した勅で、長屋王は謀反を起こそうとしていたとの痛烈な批判を載せながら、のちの時代の項目では、長屋王は無実だったことも載せるという、天皇に誤りはないという立場からは矛盾となる記載を許している。

『続日本紀』の後半であれば、こうはいかない。たとえ政治事件を記すにしても、ずっと慎重で、朝廷の見解に矛盾がないように仕上げられた。(93頁)

続日本紀は、桓武天皇による桓武天皇のための桓武天皇の歴史書である。それが欠陥でもあり、魅力でもあるといえよう。
桓武天皇は、母親が渡来系という天皇後継レースには本来出馬すらできない人物ながら、天皇にのぼりつめ、さらに日本史上、平安京遷都など数々の偉業を成し遂げた。この「英雄」の光と影をあますところなく見ることができるのが続日本紀であると、本書を読んであらためて感じた。

さて、第2章は、続日本紀に続く、日本後紀もとりあげる。無味乾燥と呼ばれる六国史の中でも、日本書紀に並ぶ「おもしろさ」で知られている。

それは痛烈な人物評を載せているからだ。

たとえば、右大臣という政権トップクラスの要職についた藤原継縄(つぐただ)。

継縄は文武の職を歴任し、朝臣では首座の重職にいた。時には曹司に詰め、時には朝座に就いて政務を執り、へりくだってうやうやしく自制をしていた。政治上の実績は聞こえず、才能も識見もなかったけれども、批判は免れることができた。

政治上の実績は聞こえず、才能も識見もなかったけれども、批判は免れることができた。
政治上の実績は聞こえず、才能も識見もなかったけれども、批判は免れることができた。
政治上の実績は聞こえず、才能も識見もなかったけれども、批判は免れることができた。(^_^;)

政治家として、批判がなければまあいいのではないかと、昨今の政治家に比べれば思ってしまうが、痛快ではある。

藤原かずら麻呂という人物はもっとひどい。

人となりは愚鈍で、事務能力がなく、大臣の子孫というだけで内外の職務を歴任したけれども、名声をあげることはなかった。ただ酒と女性を好んで、ほかには考えがなかった。

皇族へも容赦はない。

佐味親王という桓武天皇の息子については

容貌や振る舞いがすぐれ、たいへんに女色を好んだ。淳和天皇が践祚された日、朝堂に行列して立っていたところ、突然に病で倒れこんだ。そのときの呼び声はロバに似ていた。輿によって運び出され、幾日も経ずに亡くなった。

これなぞは、脳溢血かなにかで倒れたときの様子をわざわざロバの声と言っている。もはや中傷レベルである。
さらには、天皇にまで痛切な評をしている。

桓武天皇の次の天皇の平城天皇について、

天皇の人となりは猜疑心が強く、人の上に立ちながら寛容ではなかった。位を継承した始めの頃、弟である伊予親王とその子や母を殺し、この事件に連座した者は多かった。当時の人々は「淫刑」(*度を越した刑罰)だと論じた。その後、天皇は心を内寵に傾け、政治を婦人(*薬子のこと)に委ねた。「メンドリが時を告げるようになれば家は滅びる」という。ああ惜しいことである。

どうやら、この人物評を書いている人は、「もてる男」と「酒」が嫌いだったらしい。

『日本後紀』は女性と酒について一言いわねば済まないようである。(107頁)

この手厳しい人物評は、藤原緒嗣(おつぐ)とみられている。緒嗣は、桓武天皇を皇太子に押し上げた功臣の息子で、桓武天皇の側近となった貴族だ。

天皇までずばり批判する緒嗣。当然、第2次世界大戦後に高く評価される。

坂本太郎は、藤原緒嗣の人柄に深く共感し、人物批評で独自の見識を発揮する『日本後紀』の史書としての価値は、藤原緒嗣に由来すると説いた。1955年発表の論文「六国史とその撰者」のなかで、「日本後紀における、かの批判的精神はこのような緒嗣の公正剛毅の精神と無関係ではない」と称賛している。(112頁)

だが、筆者は日本後紀の「価値」を撰者の個性にゆだねることについては疑問をなげかける。(122頁)
平城天皇への「批難」も、日本後紀を編纂を命じたのは、「薬子の変」というクーデターに勝利した平城天皇の弟の嵯峨天皇である。
薬子の変は、国史大辞典から引用すると

 平安時代の初期に起った、嵯峨天皇の朝廷と平城上皇およびその側近勢力との争い。平城上皇は大同四年(八〇九)四月一日、「風病」のため皇太弟(嵯峨天皇)に譲位し、十二月四日平城旧京に遷居した。上皇はこの時寵愛の尚侍藤原薬子とその兄右兵衛督仲成をはじめ、公卿・外記局官人の一部を含む多数の人員を供奉せしめ、造宮料稲や雇役の工夫を畿内近国より徴発し、またかつてみずから設置した観察使を廃止する詔を発するなどしたので、「二所朝廷」の険悪な対立を引き起した。これに対して嵯峨朝廷は上皇の尊貴を憚り、また天皇の病気もあって受動的立場をとらざるを得ず、左近衛中将巨勢野足・左衛士督藤原冬嗣を蔵人頭に補し、内侍司女官の代りに近侍して機密に預らしめるなど、対策に苦慮した。
しかし弘仁元年(八一〇)九月六日、上皇が平城旧京への遷都を命ずると、人心の動揺は激発し、同月十日、朝廷はついに上皇側との対決に踏み切った。使を遣わして三関を固め、在京の仲成を拘禁し、薬子の官位を解き、広範な人事異動を行なった。情勢の激変を知った上皇は、側近の中納言藤原葛野麻呂・左馬頭同真雄らの諫言をも聴かず、諸司の官人と宿衛の兵を率いて平城宮を発し、川口道を取って伊勢に入ることを計画した。しかし官人は狼狽して去就に迷い、参議藤原真夏・従四位下文室綿麻呂・大外記上毛野頴人ら多くは、朝廷の召に応じて平安京へ走った。十一日、朝廷は大納言坂上田村麻呂に命じ、軽鋭の卒を率いて美濃道より迎え撃たしめることとし、田村麻呂は武芸にすぐれた歴戦の士綿麻呂の赦免を請うて同行した。また宇治・山崎両橋と与渡市津に兵を派遣し、仲成を禁所で射殺した。十二日、上皇は大和国添上郡越田村に至ったが、朝廷の兵に前途を遮断されて為すところを知らず、平城宮に引き返した。上皇は出家し、薬子は自殺したので、変は三日間で終結した。

嵯峨天皇の意向に基づいているからこそ、平城天皇への批判が許されたと考えるのはもっともであろう。
実際、さきほどあげた
人となりは愚鈍で、事務能力がなく、大臣の子孫というだけで内外の職務を歴任したけれども、名声をあげることはなかった。ただ酒と女性を好んで、ほかには考えがなかった。

と評された人物は、実は薬子の兄弟だったのである。

痛烈な批判には、撰者のジャーナリスティックな正義感(も多少はあっただろうが)がメインでなく、むしろ政権の正当性を補完するための政府の情報戦の一環だったとすら思える。
本書は、「史実」を載せる六国史の概略が簡潔丁寧にまとめられているだけでなく、編まれた歴史をほどいて、本当の「史実」を探り出そうというきっかけを読者に与えてくれる力作である。

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恵美嘉樹・文




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