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家康の城作り秘訣は埋め立て「江戸の都市力:地形と経済で読みとく」(鈴木浩三著・ちくま新書)書評

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ブラタモリが火付け役となった「地形」ブームは、身近な歴史の探索方法としての楽しみを歴史ファンに見出した。
なかでも人口的にもっとも多い探索可能な地は東京、つまり江戸だ。
江戸という都市がどのようにして生まれたのか。
徳川家康が新天地として開拓をしていった様を、家康の経営者視線と地形をベースに描き出したのが2016年11月に刊行された鈴木浩三「江戸の都市力:地形と経済で読みとく」(ちくま新書)である。

<ハードとソフトのインフラが有機的に結びつきながら整っていく様子、まち造りがもたらした経済の急拡大、出来上がった都市を管理する仕組みなど「江戸の都市力」と、その源について話を進めていく。>(はじめにより)

と筆者が語るように、日本最大の都市として江戸時代から現代まで存在し、変化しつづける東京。江戸のはじまりとその急拡大を探ることは、豊洲移転や五輪施設などを考えるうえでも、必須の知識といえる。

まずは地名と地形から江戸を俯瞰する。

 「江戸」という地名だが、家康が「厭離穢土(おんりえど)」という旗印を使ったことから「穢土」(けがれた地)と同じ発音の地名をなぜ変えなかったかとよく言われる。それは地形から考えれば明らかである。
「江戸」の「江」には、”水が陸地に入り込んだところ”、「戸」には”モノの出入口”といった意味がある。
「江戸」は、旧利根川水系の大河が流れ込む江戸湾最奥部の「江」に隣接するのと同時に、中小河川の河口部を東西の付け根部分に持った場所であった。(はじめにより)

戦国末の豊臣系大名が、たとえば黒田長政が「福岡」と名付けたり、響きのよい地名に変えていく中で、家康にとって、「江」という豊かな象徴である海と、豊かさを迎えいれる「戸」は、まさによい地名だったのだろう。

16ページにある江戸の原型の地図が面白い。
知らない人が見たら驚くだろう、その地図は、東京駅と皇居の間は海だったことを示す。今は存在しない入り江は「日比谷入江」と呼ばれていて、現在の大手町、丸の内、日比谷といった、日本で最も地価の高いエリアが実は埋め立て地だったのだ。
東京駅、有楽町、新橋(銀座)までの南北に長い「江戸前島」という半島が江戸湾にむかって突き出ていて、新橋はその南端の岬であった。

徳川家康入府前の江戸(鈴木浩三「江戸の都市力」より)

徳川家康入府前の江戸(鈴木浩三「江戸の都市力」より)

家康の江戸の都市造りは、まずこの日比谷入り江を埋めたてることだった。
江戸は中世の港としては立地条件からかなり繁栄した町だったが、家康は関東6か国の大大名として入ってきたのだ。武田の旧臣を含め、約30万人というすさまじい数の軍団を抱ええていた。
経済的にはすぐれた当時の江戸だが、城下町をつくる広い平地がないことと城のある武蔵野台地には十分な水が確保できないという、二つのデメリットを抱えていた。

 同じく沖積地の上に築かれた大坂城や名古屋城に比べると、城下町の建設が可能な天然の平地が少なかったわけである。そうした地理的条件の江戸で、大坂クラスの城と市街地をつくるには、海面の埋め立てによって市街地用地を確保するほか方法はなかった。(第二章)

江戸城は武蔵野台地の東端にあり、すぐ東は入り江=海だった。そのため家臣団は台地の北西側に屋敷をつくり、井戸をほって水を確保することになった。地続きの西側を旗本で固めて防御するのと、水の確保するためだったと鈴木氏は指摘する。

入り江を埋めたてするのは簡単ではない。そこで採用したのが、入り江に注ぎ込む平川をつけかえて、江戸前島の東側に直接、江戸湾に流し込むことだった。
また、同じく入り江に流れ込む川をせき止めて作ったのが「千鳥ヶ淵」だ。淵はダムを意味する。江戸城の北西側に位置するこの水堀は、武士たちの上水道となったことは言うまでもない。
いわゆる「上水」である。
都民にとって、神田上水や玉川上水という名前はなじみがあるだろう。江戸の都市化は、水を確保する奮闘の歴史でもあった。「水源を江戸の遠方に求める構造は、利根川上流が主な水源地となっている現在の東京水道にもつながっている」(第2章)という。

江戸の町づくりで、よく言われる話に風水に基づく「四神相応説」や無限に発展するために渦巻き状に街づくりをしたという説がある。鈴木氏はこれを明確に地形から否定する。例えば、右まわりの渦巻き状の都市の例としてあげられる、江戸のメインストリートは現在の「中央通り」(銀座、日本橋、秋葉原を抜ける)。ここが日本橋を境に屈曲している。だが、これは地形にあわせて下水処理をスムーズに行うためのものに過ぎなかった。
日本橋から銀座の通りが南北の正方向ではなく、東西に傾いているのも、下の地図にあるように「江戸前島」の地形に合わせただけであった。

江戸前島の地形に合わせて中央通りが屈曲したことは地理からみて明らかだ(鈴木浩三「江戸の都市力」66頁より)

江戸前島の地形に合わせて中央通りが屈曲したことは地理からみて明らかだ(鈴木浩三「江戸の都市力」66頁より)

四神相応説の文献上の根拠とされる「昌平坂学問所」(東大にあたる)の旧蔵本で内閣文庫所蔵の『柳営秘鑑』だが、「その土地は四神相応に相叶えり」と引用されてきたが、実は「その土地は四神相応に相叶えり」と「にも」とあるのが原文であり、「結果的に「四神相応」になりましたと言っていたにすぎなかったのだ。
「も」を省くか、原文通り引用するだけで、これほど歴史観がかわるのだから、歴史研究というのは面白いものである。

徳川家康が江戸というレガシーを残したのは間違いない。そのレガシーを現代の日本人がどのように使い、発展させるのか。それとも停滞させるのか。都民はトップの知事を含めて家康がもった都市への思想を振り返ってみる時期が来ているのかもしれない。

恵美嘉樹・文

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