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佐久間信盛追放の理由は人脈形成の怠慢?『織田信長の家臣団―派閥と人間関係』 (和田 裕弘・中公新書)

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残虐なのか、優しいのか。織田信長という人物にはよくわからない一面がある。
優しさについてはともかく、甘い面があるというのは、ドラマではなく史実の信長を追ったことがある人は誰も思うことだろう。

ところが、突然厳しくなる違和感のある行動を起こすことがあり、それがますます現代人を悩ませる。
天正8年(1580年)、大坂本願寺降伏後のことだ――。

本願寺攻めの総大将で、譜代中の譜代の家臣である佐久間信盛や当時の筆頭家老の林秀貞らを、いきなりたいした理由もなく追放した。

当時、最大の軍団を任されていたNo2の佐久間信盛にいたっては、19箇条にのぼる叱責状をしたためたあげく、高野山へ追いやっている。

佐久間信盛にとっては5年ごしで大きな成果(本願寺降伏)をあげて褒められると思ったら、真逆の対応を取られたわけで、そのショックが大きかったのだろう。
翌年、山深い十津川(奈良県)で死亡した。

そのナゾに迫るのが本書である。

佐久間氏追放の動機がなんだったのか?
今もって謎多き出来事であるが、本書で和田氏は、「佐久間信盛が信長の家族と婚姻関係を結ぶなどの“人脈づくり”を怠ったからだ」との説をあげている。

本書は、信長の家臣団(佐久間や柴田勝家、羽柴秀吉、明智光秀など重臣)のさらにその下の層(与力)たちの名前や経歴などを網羅。本書の登場人物は約1000人にのぼる。

想像するだけで「よく集めたなぁ」と感動してしまうほどで、それぞれの家臣団が地縁や血縁でネットワークを作り上げていったことが明らかにされているが、どういうわけか佐久間信盛にはそうしたネットワーク構築を進めていない実態が浮かび上がったという。

「呆気なく追放されてしまったが、要因の一つは、七カ国にもまたがる与力を信長から付与されていたにもかかわらず、有機的に家臣団を組織することができなかったからだろう。与力に対して積極的に婚姻関係などを結んでおけば、追放に対する抑止力にもなったはず」(はじめにより)

人脈つくりの成功例としては、柴田勝家が嫡男の嫁に、信長の娘をもらったことなどを挙げている。

また、本能寺の変後に、明智光秀に味方をした多賀貞能が助命されたのは、秀吉と仲の良い堀秀政の実弟(多賀秀種)が多賀貞能の養子となっていたからと主張。
一方の佐久間信盛は

「信盛は、信長と直接縁戚になることもなく、有力武将とつながりも薄く、追放処分の抑止力になる人的ネットワークを持たなかったため、簡単に追放されてしまった。勝家や秀吉とは異なるところである」(201ページ)

と結論づける。

「なるほど、佐久間は人脈作りを怠ったから没落したのか」と膝をうちたくなる新説だ。

ところが、本書を読み進めていくと、「あれ? 本当に人脈なかったのだろうか」と疑問に思う点がいくつか出てきた。

人脈作りの成功例として、さきほども紹介した「はじめに」で

「柴田勝家の場合であれば、どうなっていただろうか。信盛と同一には論じられないが、勝家の軍団は同郷出身者を与力に持ち、また血縁(婚姻や養子縁組を含む)で結ばれた家臣も擁していた。さらに、もう一人の軍団長である滝川一益とも縁戚関係を持ち、加えて信長の娘を嫡子の嫁に貰い受けて信長の一門衆に列していた。たとえ信長が娘を実家に戻してから勝家を追放しようとしても、与力を含めた信長家臣団の反発が予想され、信長といえどもそう容易には実行できなかったのではないかと想像される」

とある。
勝家の場合は、信長との婚姻以外にも、有力な重臣の滝川一益ともつながっていたところが信盛とは違うということになろう。

しかし、実際は本書にあるように

「柴田勝家の姉婿(妹婿とも)となった佐久間盛次も御器所の佐久間氏であるが、家勝との関係は不明である。盛次の次男保田安政は信盛の与力となっていたが、信盛追放後は叔父の勝家を頼った」(198ページ)

と、柴田勝家とは佐久間一族の婚姻関係によるネットワークが見られる。

「信盛の妻は、前田利家の本家筋と思われる下之一色城主前田与十郎の姉妹である。信盛の弟信直の妻は熱田加藤家13代順盛の娘である。前田家や熱田の加藤家と婚姻関係を結んでいた」(198ページ)

熱田の加藤家とは、徳川家康が幼少のころに信長の父(信秀)によって人質となった際に、家康を預けた家だ。
熱田の豪商で、織田家の財政的なバックボーンである。

加藤家とも人脈でつながっていたことは、少なくとも信長の金庫番と深い人脈があったことを意味する。

ほかにも、柴田勝家の場合は、<最初の妻の兄弟の妻が信長の姉妹>であることが「正室を介しても信長とつながりを持っていたことになる。しかし、この正室は天正四年冬に没した」(179ページ)と、勝家の血縁つくりのうまさを言及する。

しかし、佐久間信盛と同じ年に追放された、丹羽氏勝という人物については、信長の妹と結婚していたが「氏勝の後室には信長の妹(側室生駒氏の妹とも)を娶らせていたほどである。しかし、同女は永禄11年(1568)8月4日に没し、信長との関係は断ち切られたままだった」(209ページ)とする。
結婚した信長につながる女性が死んでも、かたや人脈はつながっていた、かたや人脈は切れたと、人によって評価を変えるのは、歴史を知る現代人の視点ではないだろうか。

なにより、人脈が信長政権下で生き延びる要因となるなら、実子がおらず、一族にまともな武士もいない秀吉はどうなるのか。
実際、秀吉は信長の5男を養子にしたことはあっても、ほかの重臣と婚姻関係は結べていない。
なにしろ、子供がいないのだから婚姻させようがない。
黒田官兵衛や中川清秀との関係を「義兄弟の契りを結んでいる」としているが、義兄弟の契りがあった証拠が残っているのは、秀吉が天下人になったからに過ぎない。おそらくどの武将もそれくらいのことはしていただろう。

さらに「あとがき」にあるように、

「方面軍の司令官に任命された武将を中核に軍団の構成にふれたが、姻戚関係などはいわゆる一次資料にはほとんど出てこないため、家譜や系図類を中心とした記述に終始することになった。系譜関係などは複数の系図類に記載されていても互いに矛盾した姻戚関係を記していることもあり、また世代が合わないのではないかと思われる系図類も少なくない。比較的信用できそうな史料を採用したが、心許ないことはいうまでもない」

とすると、そもそも佐久間信盛の姻戚関係がはっきりしないのは、信盛が追放されたからだけであって、当時は積極的な婚姻などを通じた人脈つくりをしていたかもしれない。
しかし、歴史の敗者とのネットワークなどは、家譜や系図類がつくられる江戸時代にはまったく不要の情報となることは言うまでもない。

信長の家臣団に、著名な武将以外に、どんな人達がいたかを探った労作ではある。
だが、資料集にとどまればよかったものの、信長の歴史の謎を解明するという大命題を、根拠のはっきりしない史料(家譜や系図類)で解き明かそうとしたことにムリがあったのかもしれない。

期待度が高かっただけに厳しい書評になってしまった。
しかし、佐久間信盛だけが人脈つくりに失敗したとする本書の説を前提とせずに読めば、たくさんの名も知らない武士たちが信長を全力で支え、ときにはそれでも捨てられる――そんな現代社会でもみられる現実を知ることができる貴重な1冊だ。



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