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門徒側には、あの本多正信さんもいたとか

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徳川家

本多正信は謀臣にあらず?敗者に優しいスーパー平凡武将が家康の天下を作った

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本多正信は家康・秀忠に仕えた官僚的武将

本多正信(1538―1616年)は徳川家康・秀忠に側近として仕えた官僚的武将だ。通称「弥八郎」、官名「佐渡守」。
天文7年(1538)に三河国(愛知県東部)で生まれた。出生地については、三河の「西城」(西条、西尾市)と「小川村」(安城市小川町)の説のほか、駿河の久米(静岡県)との言い伝え(次男政重に始まる加賀本多家の系図)もある。
父は本多俊正、母は不明だが家康の祖父松平清康の侍女とも言われている。
幕府がまとめた『寛永諸家系図伝』によると、本多の先祖はもともと豊後国(大分県)の本多の出身で、正信の曽祖父が三河に移り住み、松平清康に仕えたとされる。

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家康への反逆

家康よりも4歳年上の正信も松平家に仕えた。ただ、家康の幼少期の松平家は三河において絶対的な存在ではなく、今川義元に家康が人質となってからは、実体的に本多氏は松平家の家臣というよりも、義元に属していたと考えるほうが自然である。1560年(永禄3年)の桶狭間の戦い後に自立した家康とは、わずか3年後にたもとをわかつ。
1563年(永禄6年)の三河一向一揆で、一向宗(浄土真宗)側に立ち、同じく一揆側になった家康家臣の上野城(愛知県豊田市)に、立て籠もったのだ。(『三河物語』)
この一揆はかつては「宗教戦争」とされていたが、実態は松平氏内の内部争いという側面が強かったことが近年の研究で明らかになっている。
一揆は平定され、正信は弟の正重とともに三河を追放されたとされている。この後の浪人生活についての記録はほとんど残っていない。
死後4半世紀経過した江戸時代中頃の1702年頃に、儒学者の新井白石が完成させた『藩翰譜(はんかんふ)』には、浪人時代に正信が都へ行き、松永久秀に会い、「強からず、柔らかならず、又卑しからず、必ずよのつねの人にあらず」と評されたとの逸話が載る。
<強すぎず、弱すぎず、卑屈でもない。平凡を越えて並の人物ではない>
平凡を極めた男が本多正信という人物となろうか。ただ、この逸話はおそらく、江戸時代の人たちが正信をそうした人物と評したことを、架空の「松永久秀」に語らせて流布したというのが実際のところだろう。
『富樫観知物語』には、正信は加賀一向一揆に参加したとする。本多作内の名で、織田信長の北陸方面軍の柴田勝家軍と戦ったという。この逸話が本当ならば、後述するように正信の次男の政重はのちに加賀藩(石川県)に入るのだから興味深い縁である。

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諸国を流浪の末、三河に戻る

諸国を流浪した末に、正信は再び家康に仕える。ただ、復帰の時期もはっきりしない。
たとえば、『寛永諸家系図伝』は元亀元年(1570年)の姉川の戦いの頃。『藩翰譜』は天正10年(1582年)の本能寺の変後として、12年もひらきがある。より古い(寛永18~20年=1641~43年)に幕府が公式にまとめた『寛永諸家系図伝』が有力であろうか。
ともかく家臣への復帰が確実にわかるのは、天正10年に家康が滅亡した武田氏の旧家臣に与えた朱印状からだ。
この頃の家康は、武田領国を一気に吸収したことで、急増した新参者たちの「徳川化」を進めることが重要な課題であった。ずっと家康を離れずにいた譜代よりも、一度、家康を裏切った「負の経歴」が逆に、敗者の武田旧臣を自然に取り込むにはうってつけの人材だったのではないか。(独断だが、本多忠勝なら上から目線で武田旧臣たちに接して統合はうまくいかなかったのではと想像してしまう)
同じように、当時は外様(三河ではなく遠江)の井伊直政が武田の赤備えを吸収することで家康第1の軍団にのし上がったこともある。
この時期(天正13年)には、三河一向一揆の際に追放された三河本願寺派の有力7寺院にも三河への復帰が認められている。
家康の「和解の力」こそが、この後の天下人レースを走る原動力となるのだが、背景には羽柴(豊臣)秀吉との小牧長久手の戦いをはじめとする、滅亡ギリギリに迫られた事情があったことも忘れてはならない。

裏切りものの汚名を注ぐため徳川幕府の創造に尽力

こうして裏切り者のレッテルを少しずつはがし、実績を積んだ正信は、天正14年に従五位下佐渡守に叙任され、名実ともに家康の側近となった。
天正18年には、小田原攻め後に家康が江戸に入った後、相模国の玉縄(神奈川県鎌倉市)に1万石を与えられ「大名」となる。、関東総奉行として、家康の新しい拠点江戸を整備していく。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、その前哨戦となる、真田昌幸と信繁が立て籠もる上田城攻めの徳川秀忠の参謀となる。
上田城攻めは失敗に終わり、関ヶ原に秀忠は遅参するが、家康の正信への信頼は変わらなかった。むしろ、正信は「2度目の失敗」にさらに奮起したのではないか。
1603年(慶長8年)、家康が征夷大将軍になり江戸幕府を開いた。2年後に家康は将軍を秀忠に譲り、自身は豊臣家との因縁の決着をつけるべく西の駿府城へ移った。正信は江戸に残り、幕府の運営を息子の本多正純とともに一手に担った。

敗者に優しく、敗者をつくらず裏方に徹する

正信は自身のキャリアからか「敗者」に優しかった。
上杉家の重臣直江兼続から乞われて、正信の次男、政重を養子にやった。上杉家は言わずもがなだが、関ヶ原での敗者である。
また、徳川家と豊臣家の2大閥の間にいた第3勢力の加賀藩も豊臣家に見切りをつけて徳川家に近づいてきた。それを取り持って、直江となっていた政重を、本多姓に戻し、加賀藩に仕えさせることに成功した。
こうした裏での駆け引きにかけていたため、正信は「謀臣」などといわれるが、苦杯をなめた人生だけに、敗者復活と敗者をできるだけ作らないことに汗を流したと評価することもできるだろう。
1616年(元和2年)に大坂の陣で、豊臣家は滅亡する。この戦いで豊臣家はもちろん滅んだが、多くの豊臣方の武将はもともと浪人であった。もしも、この戦いを前に、幕府が上杉や前田を追い込みすぎていたら、彼らが豊臣家についてより大きな犠牲が生まれた「IFシナリオ」も考えられるだろう。
正信は晩年、家康第1の側近となったとされている。だが、石高は2万2000石止まりであった。本人が固辞したからともいわれるが、やはり武功面よりも行政面で優れていたから、戦国末においてはさすがの家康も高い石高で報いることはできなかったのだろう。
家康は1616年になくなると、それを追うように49日後の6月7日に正信もこの世を去った。79歳だった。京都の本願寺に墓がある。

徳川内部の嫉妬からか2代で没落

本多氏は長男の正純が跡を継いだ。正純は、父が江戸にいる間も駿府(静岡市)の家康の側近として仕え、家康と父の死後は江戸に移り秀忠に仕えた。
秀忠政権では事実上の筆頭家老となり、1619年(元和5年)には一気に15万5000石に加増され、宇都宮城(栃木県宇都宮市)を与えられた。ところがその3年後に改易となり、秋田県の横手に配流され、1638年(寛永14年)に亡くなる。

徳川家の本多氏は2代で隆盛し、すぐに没落するが、正信の次男の加賀藩本多政重の家は最後まで加賀藩筆頭家老として、役目を全うした。
余談となるが、正信が残したとされる教訓書が『本佐録(ほんさろく)』だ。主君に仕えることの大切さをとく儒教的な内容と、家臣との関係に「情け」を重視することなど、正信らしさから、正信の著とされてきたが、実際の著者は不明である。
同書は「百姓は、財の余らぬやうに、不足になきやうに治る事、道也」とも書いている。たしかに「ほどほどがよい」というスーパー平凡人の正信なら言いそうなことではある。

恵美嘉樹・文
霜月けい・絵

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参考・国史大辞典




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