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日本100名城・写真館

弘前城(日本100名城No.4)日本一美しい「城桜」が津軽平野に舞う(画像14枚)

更新日:

 

【弘前城の基本データ】

名称:弘前城(日本百名城4番)
別名:鷹岡城・高岡城
成立:1611年
城主:津軽為信・信枚(のぶひろ)
合戦:特にナシ
名物:じゃっぱ汁
一言:シャケやタラと言えば北海道!と思われがちですが、青森でもよく食べられております。「じゃっぱ汁」もまたシャケやタラを用いて作られる味噌汁で、特にタラの白子や肝が入ったものは味わい深いそうで地元の方にも人気とか。濃厚~♪

ナビゲーター:石垣 鉄男&櫓 優子&お城野郎!


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弘前城には日本一の桜がある!?

櫓 優子(以下、優子)「このコーナーって、空腹のときに見たらダメよね」
石垣 鉄男(以下、鉄男)「そうなんだよ~。最初の基本情報のところで、地元の料理ネタぶっこんでくるから、お腹がグーグーなっちゃってさ。じゃっぱ汁って、なんだよ! めちゃめちゃ美味そうじゃんか!」
優子「落ち着いてよ。具材のシャケと言えば、同じ東北の『鮭様・最上義光さん』を連想しちゃうけど……」
鉄男「今回は、津軽為信さんの弘前城だね。実際に完成させたのは息子の信枚さん」
優子「1611年の築城だと、割と平和な時期に建てられたのね」
鉄男「まぁ、津軽と南部のコト考えたら、一概に平和じゃなかったかもしれんけど、フッフッフ」
優子「ダメよ、地雷踏んだら……」
鉄男「地雷とか言ってる方が危ないでしょ」
優子「まぁ、実際に大きな戦いはなかったのよね。だからなのかしら。このお城は平和で、桜が本当にキレイよね」
鉄男「やっぱ弘前城は、ソッチ方面の写真からいきますか!」

優子「うわぁ~。やっぱりキレイね~。青森の方たちは、ここでデートするのかしら」
鉄男「う~ん、若者がいないからなぁ」
優子「なんてこと言うのよ!」
鉄男「いや、青森出身の知人がさ、よくボヤいてんだよ。“東京に出てきたら渋谷のスクランブル交差点が毎日お祭りで驚いた、青森はドコへ行っても誰も歩いていない”ってさ」
優子「さすがに毎日がお祭りというのも……」
鉄男「続けて見ていこう!」

優子「きゃ~! 眩しいわ~!」
鉄男「これは幻想的だよね。ジブリでも使って欲しい一枚だなぁ」

優子「凄い! ほんと凄いわね。これは青森へ行かなくっちゃ!」
鉄男「まだまだ、ありまっせ~」

優子「江戸城に勝てるのは弘前城かも」
鉄男「千鳥ヶ淵は石垣の上に桜が並んでいて、一方で上記の写真は目線の高さだから、臨場感は弘前城の方が上かもしれないね」
優子「江戸城が武道館で、弘前城はライブハウスって感じね」
鉄男「そして貴女が歌うのは、町の小さな公民館」
優子「うるさいわね!」

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日本一古いソメイヨシノもありまして

鉄男「さぁ、もう一枚」

優子「今度は、一本の桜に注目ね。ご立派だわ~」
鉄男「これは現存する日本最古のソメイヨシノなんだよ」
優子「そんな由緒ある桜もあったんだ」
鉄男「妙国寺の蘇鉄と対決させたいな」
優子「ん?ナニソレ?」
鉄男織田信長さんを震え上がらせた、恐怖の木だよ。これ」

妙国寺の大蘇鉄/Wikipediaより引用

優子「たしかに迫力あるけど……でも、信長さんとどんな関わりが?」
鉄男「ごめん、蘇鉄と信長さんの話は、アニィたかはしさんの漫画で見てちょ→(森蘭丸)」
優子「わかったわ」

「城桜と雪化粧は北の城の誉れなり――」

鉄男「さぁ、弘前城を続けていこう! 次はコレ!」

優子「来たわね、雪化粧」
鉄男「城桜と雪化粧は北の城の誉れなり――」
優子「あら、そんな言葉があるのね」
鉄男「いや、今考えたw」
優子「でも“城桜”って、いい響きね」
鉄男「江戸城の千鳥ヶ淵もそうだけど、全国的にお城の周囲には素敵な桜が多いんだよね」
優子「確かに、そうだわ。城桜は【しろざくら】と読むの?」
鉄男「そうそう。試しに検索しても、そんな言葉は出てこないよ」
優子「なんで?」
鉄男「その言葉自体、オレが考えたもんだからw」
優子「ここで流行らせようという、魂胆ね(*_*;)」
鉄男「いつか、お城ファンの皆さんが、普通に使ってて欲しいなぁ」
優子「バカなこと言ってないで、次よ、次」

優子「急に本格的なのが来たわね~! でも、なんで同じ門の写真を2枚も掲載するの?」
鉄男「いやいや、同じじゃないんだ。上が追手門で、下が東内門なんだよ」
優子「なるほど、似ていても違うのね。シロートの私は、この辺の勉強からしなきゃ」
鉄男「追手門は、正面玄関って感じだね。一方、東内門は城内にあって、スグ近くには、さっきの日本最古のソメイヨシノがあったりする」
優子「そもそも弘前城ってドコにあるのかしら?」
鉄男んじゃ北東北にある4つの100名城と一緒に確認してみよっかー」

優子「同じ青森県にある根城もなんだか個性的。読み方は【ねじょう】でいいのかしら?」
鉄男「そうそう。【ねじろ】って読みそうになるけどね」
優子「多賀城とかは入ってないんだっけ?」
鉄男「それは宮城県だから、もう少し南で、また後日取り上げるよ。この地図じゃ物足りない!という方はグーグルマップでもご確認くださーい。こちらは100の城すべてがマーキングされてます」

優子「南へ行くと、一気に増えるわね」
鉄男「弘前城は、100名城の中では本州最北端だからね」
優子「この地図だと、津軽平野がよく見えてわかりやすい」

青森原産の玉鹿石にもご注目

鉄男「んでは次は……」

国立国会図書館蔵

優子「今度はなに? 急に古い写真を持ち出してきたわね」
鉄男「明治36年に撮影されたものだから、西暦1903年かね。江戸時代の雰囲気が、まだ少しは感じられるかと思ってさ」
優子「なんだか物悲しいわ……」
鉄男「んじゃ、これ」

優子「また、急に場面が変わるのね。一体何かしら?」
鉄男「玉鹿石だよ」
優子「た……たま、しか、いし?」
鉄男「ぎょっかせき、と読むんだよ。青森原産で、岩石の中に直径0.5~1.5ミリの丸い粒が入っているんだって」
優子「石は、石で、マニアさんがいらっしゃるのよね~」
鉄男「最後に縄張りマニアさんの要望にも応えておこうか」

弘前城縄張り図/国立国会図書館蔵

優子「本丸のすぐそばに川が通っているのね」
鉄男「図には【川跡】とあるから、お堀みたいなもんだったのかも。今も残ってるよね」
優子「四方八方が、色んなカタチの堀で囲まれているのね」
鉄男「前回の松前城も、前々回の五稜郭も、お堀は比較的単純だったから、弘前城の方が味があるよね」
優子「私はこっちの方が好きだわ。桜もいっぱいあるし」
鉄男「弘前公園の公式サイトによると、2600本もあるみたいだよ」
優子「天守が霞んじゃうw」
鉄男「んじゃ、天守と桜がセットで写っているのをもう一枚」

優子「うん、やっぱり、いい! 絶対にデートスポットね」
鉄男「さっきから、それ押してくるけど、素敵なお相手でもできたの?」
優子「そんなもん、いつだって何人もいるわよ!」
鉄男「後援会のオジサンでしょw」
優子「うっさい!」
鉄男「まぁ、あまり突っ込むと変な空気になっちゃうんで、今日はここまで」
優子「後は、お城野郎さん(第1回城郭検定で最高位の2級に合格)のコラムね。根室半島チャシ跡群五稜郭までは読んだわ。やっぱり私達とは見識のレベルが違いすぎて、とても勉強になった」
鉄男「仕事で、北海道に7年間住んでいたということも判明したw」
優子「もう、注目はそこじゃないでしょ。じゃあ、皆さんまたね♪ 次は月曜日かな」

コラム「お城野郎の百名城バンザイ!」

春の桜と、現存十二天守の一つが鎮座する弘前城。実は見所は桜と天守だけではありません。
弘前城ほど古地図の縄張りと現在の弘前城公園のカタチがぴったり符合する城は全国でも珍しく、ぜひ古地図を片手に散策してほしい城でもあります。また現在、天守は石垣の修理のために曳屋工事という天守を建物ごと引っ張る珍工事が行われているのも見所です。

弘前城縄張り図/国立国会図書館蔵

しかしここではさらにマニアックな弘前城の楽しみ方を紹介しましょう。

弘前城は天守と共に5つの門が現存します。
特に南側の「追手門」は城の表玄関として弘前城の代表的な門として紹介されますね。
しかし弘前城で最も大きく最古の門は北側の「亀甲門(かめのこもん)」です。城の裏門(搦め手門)であるこの北門は、元々は南津軽にあった「大光寺城」の城門でした。津軽藩の初代藩主、津軽為信が攻め落とした城で、弘前城築城の際に移築されました。
弘前城では一度も戦闘がありませんでしたが、この北門だけは津軽為信が大光寺城を攻めた時の矢傷など戦闘の跡が今でも残っています。

また弘前城の築城当初は北門が表門、つまり大手門として使われていました。しかしある時から南側にある現在の「追手門」に表門が変更されます。この変更の理由を探っていくと、青森県内でくすぶる津軽vs南部の「混ぜるな危険!東西で仲悪い問題」が潜んでいることが分かります。

江戸時代の大名は江戸へ参勤する義務がありました。津軽から江戸へ向かうにはどこかで奥州街道に出なくてはなりません。
津軽領内では、北部で八戸方面へ向かう奥州街道にぶつかります。これはわざわざ北に一度出なくてはならないばかりか、盛岡まで延々と宿敵の南部藩領を通過しなくてはなりません。南部氏を出し抜いて津軽の大名になった津軽氏は絶対に南部領は通過したくありません。
その結果、弘前城から北西の鯵ヶ沢(あじがさわ)という湊町まで出て、そこから日本海沿岸を南下し、深浦湊、大間越から秋田に入る「西浜街道」という遠回りのルートを使用していました。

しかし江戸時代に入ると「羽州街道」という脇街道が整備されます。
羽州街道は奥州街道を現在の福島県、桑折で西へ分岐し、山形県から秋田県に北上する街道です。津軽藩はこの羽州街道に目を付けます。
秋田県と青森県の県境には「矢立峠」という難所が立ちはだかりますが、津軽藩は力技で道を通し、羽州街道を弘前城まで繋げました。
南部藩領は絶対に通るまいという執念から始まった大プロジェクトです。

矢立峠を越え弘前藩領に入ると碇ヶ関(いかりがせき)という津軽藩最大の関所があります。この関所は戦国期の天正年間に出来たと云われています。というのも碇ヶ関は元々矢立峠方面ではなく南東に向かう街道とつながっていました。
南東といえば、そう、宿敵、南部氏の盛岡城に繋がる街道です。碇ヶ関が津軽藩最大の関所である理由がお分かりいただけるでしょうか。その碇ヶ関から南の矢立峠に向けて新たに碇ヶ関街道を通すことで、津軽藩は南部藩領を1ミリも通過することなく秋田から羽州街道に入り、会津藩領の桑折から奥州街道に出ることに成功します。
まさに執念、というかそれほど南部藩を避けたいのか!というプロジェクトXです。

さて、弘前城に戻りましょう。
北門が大手門だった理由は、初期の参勤交代のルートが弘前城の北西、鯵ヶ沢に向かっていたからでした。しかし弘前城が南の峠越えで羽州街道と繋がったことにより、これまで裏門だった南門が城の大手門、すなわち現在の「追手門」になったのです。
そもそも南部家との関係に問題がなければ北の鯵ヶ沢に向かうこともなく、また矢立峠という難所に道を通す必要もなく、盛岡に向かう最短ルートで奥州街道に入れたのです。
また弘前城最大かつ最古の格式ある北門は最初から南側に設置されていたと思いますし、城の景色もまた違ったものになっていたことでしょう。

このように弘前城は現代にも禍根を残す津軽vs南部の青森の東西冷戦の歴史を体現した城でもあるのがお分かりいただけたでしょうか。
津軽と八戸は言葉も通じないと言われますが、我々にしてみればどっちもどっ……おっと、青森県の皆さん、仲良くしてねっ!

参勤交代をスッキリ解説! 豊臣秀吉の時代に原型が始まり、江戸時代に制度化された

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【参考】
弘前公園
公益財団法人日本城郭協会
日本100名城/wikipedia
日本100名城に行こう 公式スタンプ帳つき

 




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