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日本100名城・写真館

盛岡城(日本100名城No.6)石垣に、寝そべり流れてくるは青春ソング(画像10枚)

更新日:

 

【盛岡城の基本データ】

名称:盛岡城(日本百名城6番)
別名:不来方城(こずかたじょう)
成立:1633年
城主:南部信直・利直・重直
合戦:戊辰戦争における盛岡藩の拠点
名物:じゃじゃ麺
一言:盛岡と言えば冷麺でしょ? いやいや、わんこそばでしょ? という方へ。実は、この「じゃじゃ麺」も当地では非常に人気でして、うどんの上に味噌&きゅうり&ネギが乗っていて、マイルドな味わいが最高なのであります

ナビゲーター:石垣 鉄男&櫓 優子&お城野郎!


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南部氏が三戸から盛岡に拠点を移し……

櫓 優子(以下、優子)「ごめん、食べたこと、あるわ……」
石垣 鉄男(以下、鉄男)「えっ、じゃじゃ麺を?」
優子「そうなの。仕事で盛岡に行ったとき、地元の方に薦められて。本当は冷麺が食べたかったのに……」
鉄男「あ、口に合わなかったのか」
優子「ううん、その逆! 超美味しかった~!!!」
鉄男「なんだ、それ! んじゃ、早速お城へ行くよ!」
優子「今回は盛岡城ね」
鉄男「終わったら、オレもじゃじゃ麺だ!」

国立国会図書館蔵

優子「あら。今日は縄張りからなのね」
鉄男「残念ながら盛岡城には天守も櫓も残ってなくてさ。まずは全体図を眺めてイメージを膨らませてよ」
優子「いやいや、初心者には無理ですって。でも、お城の良さは天守だけじゃないわよね」
鉄男「おっ、わかってますね! 伊達に盛岡までじゃじゃ麺を食べに行ってない」
優子「ちょっと、お腹が減るじゃない><;」
鉄男「盛岡城は、南部氏が建てたんだけど、もともとの本拠地は三戸にあったんだ。地図で見てみよっか」

優子「結構な距離だわ。南部氏って、根城(ねじょう)でも出てきたわよね」
鉄男「そうそう、南北朝時代から東北に根を張って実力者になっていった。もとは甲斐源氏だから、武田信玄さんとも超遠い親戚なのかな。ちなみに常陸の佐竹氏も甲斐源氏の出で、信玄さんが言葉巧みに先祖ネタを持ち出し、北条攻めをさせたなんて話も」
優子「脱線しすぎよ」

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不来方城をもとに作られた

鉄男「ともかく南部氏は、戦国期になると南部信直さんが秀吉さんとも上手く折り合いつけて、その後、盛岡に移転したんだ」
優子「なんで盛岡にしたのかしら」
鉄男「盛岡には、もともと不来方城という拠点があったんだ。南部氏の家臣が居城としていた」
優子「その家臣の人は怒らなかったのかしらね?」
鉄男「そこら辺は不明だけど、秀吉の重臣だった浅野長政さんによる提案だったらしいから、何も言えなかったんじゃない」
優子「まぁ、縄張りを見ると、周囲を川に囲まれてて、天然の堀って感じで強そう」
鉄男「旧北上川と中津川の合流点に建てられてる」

優子「うわぁ、迫力あるわね~」
鉄男「やっぱ盛岡城の売りは、何と言っても石垣! 東北の石垣王にオレはなるっ!」
優子「うん、この景色を見ても、あながちウソじゃない」

【東北の石垣造りの三名城】と呼ばれる

鉄男「会津若松城と小峰城と合わせて、【東北の石垣造りの三名城】と言われるほどだからね」

優子「橋があるわね」
鉄男「この橋は、復元されたもので、もともとは廊下橋が架かっていたんだって」
優子「廊下橋って?」
鉄男「橋の上に壁と屋根が設置されたもの。有名なところでは和歌山城にあるね」

優子「あっ、なんかカッコイイかも! でも、先に出しちゃって和歌山城に叱られない?」
鉄男「聞こえないフリして、別の角度からも!」

優子「橋があるってことは、当時は下にも川が流れていたのかしら」
鉄男「いや、この朱色の橋があるところは空堀だったみたいだよ。本丸と二の丸の間に架けられているんだ」

優子「たしかに水が入り込んでくるような位置じゃないわね」
鉄男「そだね。北国定番の一枚も押さえておこうか」
優子「ん?」
鉄男「じゃーん!」

優子「ちょっと寂しい感じが……」
鉄男「盛岡の人に怒られるよ。総理大臣を多く輩出した誇り高き県なんだから」
優子「えっ、そうなの?」

こんなにいるぞ、盛岡の歴代総理大臣

鉄男「正確に言えば岩手県で、これだけの方々がいらっしゃいます!」

原敬(盛岡市)
斎藤実(奥州市)
米内光政(盛岡市)
東條英機(盛岡市)
鈴木善幸(山田町)

優子「明治時代に総理大臣が始まって、今の安倍首相が第97代だから……たしかに5人は突出してる!」
鉄男「そうそう色んな利権がらみで、あとは小沢一郎さんが……」
優子「ちょっと! 政治の話はここまでにしておきましょw」

鉄男「これは何だかわかるかい?」
優子「神社っぽい建物と大きな岩ね」
鉄男「三の丸にある櫻山神社と烏帽子岩なんだ。普請のときに見つかって、今もそのまま残されている」
優子「なんだか、あなたって岩が好きじゃない?」
鉄男「岩手だけに、祝って!なんちって」
優子「(´・ω・`)」
鉄男「懲りずにもうひとつの岩を!」

優子「今度は何かしら。石碑?」
鉄男「石川啄木の歌碑でさ。そこに彫られた歌が甘酸っぱいのなんの。聞いてみるかい?」
優子「まぁ、いいわよ」
鉄男不来方の お城の草に 寝ころびて 空に吸われし 十五の心……あると思います!」
優子「最後の一言が本気で邪魔よ、吟じてどうすんの」
鉄男「なんかさー。この歌って、RCサクセションとか尾崎豊に通じるところがない?」
優子「どういうことかしら」
鉄男「石川啄木は、よく授業を抜け出して盛岡城に来ていたらしいんだ。そのとき、空の高さを感じて、上記の歌を詠んだ。まさにRCの【トランジスタ・ラジオ】と思うんだ※歌詞はココ
優子「うん、確かに同じ匂いがするわ。そうなると尾崎豊の【15の夜】も、まさに石川啄木の【十五の心】っぽい!」
鉄男「まぁ、貴女は15のときから演歌一筋だから、本当はわかってないかもしれないけどw」
優子「ほっといて!」
鉄男「では、最後に恒例の100名城マーキング地図と、お城野郎さんのコラムを」
優子「お城野郎さんのコラム、毎回、的確で唸っちゃうわよね」
鉄男「今のところ松前城まで書いてくれてて、忙しい中、取り組んでくれてるみたい、忙しい中……( ・ิω・ิ)」
優子「そう言って、さりげなくプレッシャーかけないの!w」

日本100名城ALLマーキング!

コラム「お城野郎の百名城バンザイ!」

盛岡城には2つのナゾがあります。
1つは、なぜ南部藩の本拠地が盛岡城なのか?
もう1つは、盛岡城はなぜ東北では珍しい総石垣の城なのか?

まず1つ目のナゾについて、ここでも背景にあるのが津軽vs南部の根深い因縁です。
南部家は代々、青森の三戸城を拠点として、現在の青森県全部と岩手県の大部分、そして秋田県の一部という広大な北奥羽の領土を持っていました。
しかし主家を裏切った津軽為信が、秀吉の小田原の陣に南部信直より3日早く到着して秀吉に謁見し「これが我が領地です!」と津軽4郡を申請したところ、東北地方の事情など全く知らない秀吉が、気前よく所領を安堵してしまいます。
遅れてやってきた(といっても伊達政宗より十分早い参陣でしたが)南部信直は、相談役の前田利家にゴネて問題を大きくするなと諭されて泣く泣く津軽地方を放棄し、ヤケクソ気味に自領化していない7郡を加えて申請します。秀吉はこれも安堵してしまいます。

この後、小田原北条家は滅亡し、東北では南部家家臣の九戸政実が反乱を起こします。
南部信直にとっては津軽為信と同格の重臣に反乱を起こされたので、兵力で負ける可能性がありました。南部領は広大な領地にも関わらず、人口は少なく、石高も10万石程度しかありません。広大な領土を効率的に守るため、南部家は一部の重臣に多くの石高を割り当てて、方面軍のような制度を取っていました。
そのため津軽為信のように一人の重臣に裏切られると、兵力をごっそりと持って行かれ鎮圧は容易ではありません。

このような状況下で南部信直は、よく時勢を理解した行動をとります。
豊臣政権に援軍を頼み、連合軍で九戸政実の乱を鎮圧します。

一見すると部下に裏切られて切腹ものの反乱ではありますが、南部信直はこれを豊臣政権が禁止する私闘であり、天下に対する反乱だと読み替えて、豊臣政権軍の一武将として処理しました。この振る舞いで南部信直は、伊達政宗とは違い(ここ重要!)、豊臣政権から「己の立場をよく分かってるじゃないか」と信用されます。元々、津軽の一件は豊臣政権側のミスで申し訳ないと思われていたので、岩手県南部5郡の加増が新たに認められました。

これにより南部家の所領は津軽を失ったまま、岩手県南部に領土が増えたので、青森県の三戸城では国内統治の中心地としてバランスが悪くなってきました。
さらに新たに加増された岩手南部5郡は、斯波氏や葛西氏の一部地域で、未だに治安が不安定な地域です。ここを新たに治めるにも本城が三戸では遠過ぎるので、浅野長政が本拠地の移動を勧め、現在の盛岡城の場所に移動することになったのです。このように津軽為信に津軽地方を奪われ、九戸政実にも反乱を起こされなかったら南部家の盛岡城移転はおそらくなかったでしょう。

そして2つ目のナゾ。
盛岡城はなぜ総石垣なのか?

実は東北地方に総石垣の城は3つしかありません。会津の若松城と白川の小峰城、そしてこの盛岡城です。若松城も小峰城も代々の城主は東北にゆかりのある武将ではなく、豊臣、徳川時代ともに中央政権の武将による築城でした。

鎌倉時代以来の北奥羽の領主で、東北地方を代表する南部家が総石垣の城の築城を許されたのは、これも伊達政宗とは違い(ここ重要!)、豊臣政権や徳川政権からの厚い信頼があったからだと考えられます。
東北地方では、九戸政実の他に葛西氏や斯波氏、大崎氏などの一揆を潰したばかりで、不穏分子が闊歩していました。伊達政宗もイマイチ信用が置けません。

そのような中で、南部信直の盛岡城は会津の若松城と連携して北奥羽における豊臣、徳川政権の重要な拠点となったのです。
南部信直は自身の領地で36の城を破却し、13個の城を残しています。その中の5城が盛岡城を取り囲むようにして残されており、破却した城に配置していた兵力をすべて盛岡に置きました。盛岡城周辺がいかに不安定な地で、治めるのに苦労したか。このことからご理解いただけるでしょう。

また信頼の裏には南部家の財力があったことも見逃せません。
総石垣の城はたいへんお金がかかります。たかだか十万石程度の南部藩で、これだけの城ができた背景には南部家が誇る3つの財産がありました。

それは金とタカと馬です。

南部領での金の産出量は日本で4番目だったことが分かっています。また、鷹狩りが武士の嗜みであった時代、奥羽の鷹は贈答品として重用されました。さらに南部領は日本最大の馬の産地で、多くの名馬を輩出していました。

南部家は金融から高級ブランド、軍事までカネになる産業を持っていましたので、石高は低くても財力はあったのです。

このように豊臣政権による天下統一の時代をいち早く読み切った南部信直は、豊臣政権下でいかに振る舞うかを理解し、豊臣政権から信用され、総石垣の盛岡城を築城することができたのです。津軽為信の裏切りに始まる怪我の功名といってもいい盛岡城誕生秘話ですが、それでも「津軽為信、許すまじ!」という姿勢は変わらず、津軽地方への敵意は現代に続くのです。

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【参考】
盛岡市
公益財団法人日本城郭協会
日本100名城/wikipedia
日本100名城に行こう 公式スタンプ帳つき

 




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