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武田軍制を取り入れた甲州流軍学が築城術に変わった理由

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「甲州流軍学」や「甲州流築城術」

戦国ファンの皆様であれば、一度は聞いたことがあるかと思います。この言葉が普及するすべてのきっかけは、実は一人の武将がキッカケだったとされます。

それは、現在の松本城天守を造ったと伝えられる「石川数正」です。

 

家康が「武田流」の軍制を取り入れた

徳川家康に付き従っていた三河以来の譜代家臣・石川数正は、小牧長久手の戦い直後に家康のもとを出奔して秀吉の家臣になってしまいました。

当然ながら困ったのは家康です。

これで最高機密の徳川軍制は、すべて秀吉側へ筒抜け。いざ合戦が始まったとき圧倒的不利な状況に追い込まれるリスクは高まり、仕方なく軍制を変更せざるを得なくなってしまいました。

この時、家康が新たに採用したのが武田信玄の流れを汲む「武田流」です。信玄には、恐怖のあまりウンコを漏らしてしまうほど何度も際どい戦いをしてきた家康が、「この俺様が危うく滅亡しかけた軍制なら、きっといいものだ」と石川数正出奔を機会に採用したのです。

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「井伊の赤備え」も武田流です。武田家では山県昌景が有名ですね。武勇に秀でた者しか着用が許されなかったと伝えられます。ちなみにこの写真は彦根のお土産で、ひこにゃん付きで売っています

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小幡景憲が立ち上げ、後に北条流や謙信流も 

そして関ヶ原の戦い後、ほぼ徳川の世の中になりつつある頃、武田の旧臣、小幡景憲が「甲州流軍学」なるものを立ち上げます。

「家康公は如何にして成功したのか」
「絶対に勝てる!家康公の戦略」
「もしも女子マネージャーが甲州流軍学を読んだら」
「秒速で稼ぐ!」
的なハウツーで一儲け・・・否!

徳川が天下を取れた理由が「甲州流軍学」であり、「ワシは武田家に仕えていたから知っている。諸大名から一介の武士までワシに学べ」とまで言ったかどうかは分かりませんが、この甲州流軍学がちょっとしたブームを巻き起こします。平和な江戸時代になっても武士の学問の一つとして隆盛を極めたのです。

その後に北条流などの分派も誕生。謙信流というおそらく上杉謙信とは全く関係のない流派まで出てきました。

しかし、です。合戦の戦略や戦術、武器の運用などを武士が学ぶというのは幕府にとっては非常に警戒すべきことだったので、そういったオフェンシブなものは徐々に消極的なものになっていき、築城術などディフェンシブな軍学が主流となっていきます。

そうです。いつの時代もミリタリーマニアは危険視され、城マニアは時代に許容されるのです(笑)

 

キャッスル of ザ・マニア by ザ・マニア for ザ・マニア

そんな徳川幕藩体制下でしたので、甲州流軍学=築城術のような学問になっていきます。

ということでこの甲州流軍学が絶頂に達したのは江戸時代なので、戦国時代の城郭を甲州流軍学の理論であてはめて考えるのは後付けでしかないため、その城の持つ本来の意義や実力を見誤ってしまいます。

唯一の例外が赤穂城で、江戸時代に甲州流軍学者を招いて縄張りを設計したので、まさにマニアのマニアによるマニアのための縄張りとなっています。甲州流軍学の真髄が拝めるでしょう。

赤穂城はJR赤穂駅から近いので、姫路城とセットで行くのがオススメですよ。

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赤穂城

机上の学問に成り果てた甲州流軍学

では、この甲州流軍学がどのような変遷を辿っていったか少し見て行きましょう。

すっかり平和な時代になって一国一城でしかも城を建て直すことも容易でない時代に入ると、甲州流軍学はますます机上の空論と化していきます。

学問化しているので、受講者には試験が課せられ、どんなにクリエイティブでキャッチーな縄張り図を描けても、師匠の流派を逸脱するような縄張りは決して認められませんでした。

これでは独創的な縄張りも生まれませんし、進歩もしません。甲州流軍学は完全に机上の学問に成り果ててしまいました。

 

自分の城は自分で築け それが戦国の常識です

では戦国時代は誰が城の縄張りを考えたのか?という疑問は残ります。

藤堂高虎や加藤清正、黒田如水などは築城の名人としてよく名前が挙げられますが、彼らはもちろん築城を生業としていたわけではありません。

「じゃあ軍師だ! 軍師が考えたに違いない!」

といっても、そもそも軍師という職種はありませんし、百歩譲って軍師が築城したと考えても、日本軍師界ではナンバーワンの実力と名声を誇る竹中半兵衛が築城したと確実に分かる城は美濃の岩手城くらいです。

その岩手城も半兵衛自身の居城ですので、自分の城を自分で築城するのは当たり前です。

実は、中世から戦国期を通じて職業的な縄張りの技術者というのは存在せず、縄張りをしていたのはその城を居城とする城主、すなわち地元を愛するその土地の領主と家臣たちが考えていた、という夢も希望もないのが結論です。

 

築城名人は例外中の例外だった

もちろん石垣造りや建築技術については専門の集団を雇い入れますが、基本的な城郭設計にはその土地の領主が一所懸命に縄を張っていたのです。

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北陸の名城「七尾城」も能登国の守護、畠山氏による縄張り。地元の地形を知り尽くしているからこそ難攻不落の城が築けるのでしょう

あいつの縄張りがすごいらしいからちょっとやらせて見ようと思って他人にやらせた例は天下普請の城だけです。これは築城の歴史からすると例外中の例外。諸大名を従えることができた豊臣家や徳川家にしかできません。

我々は例外中の例外で、ご指名のあった武将を指して築城名人と呼んでいたんですね。

築城の基本はあくまでその土地の領主、もしくはその領主に仕える家臣たちによる縄張りなのです。

 

高田城の縄張りは伊達政宗? こりゃやべぇ!

では、ここからもう少し実際の城を見ながら進めていきましょう。

まずは松平忠輝の高田城です。

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松平忠輝の高田城

家康の六男、松平忠輝の高田城も天下普請。縄張りは舅の伊達政宗に任せました。

「高田城って政宗の縄張りだってよ」とささやかれただけでこの城への警戒度は上がります。「制作総指揮 S.スピルバーグ」と書かれただけで、内容は知らなくても面白いかもと思わせるくらいのインパクトなのであります。

お次は北陸は金沢城。

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金沢城大手門

こちらの縄張りは高山右近に任せました。

もともと右近は大名クラスの武将ですが、このときは改易されて前田家の食客。金沢城は元々、一向宗の拠点「尾山御坊」で一般民衆が御坊内を行き来していたので、城内の造りが金沢の住民に丸裸でした。そこで前田家は金沢城を縄張りするにあたり、大手門を北に移したりして城内を大改修したのです。

前田利家は「どうだ!一向門徒が絶対に分からないように、切支丹(高山右近)に縄張りさせたったわ!ガハハ」(「花の慶次」の前田利家っぽく)とか考えていたのでしょうか。

 

全国各地の壮麗な天下普請の城や、豊臣徳川時代に異動してきた上方の武将が築城した総石垣の城も確かに素晴らしいですが、地方の戦国武将が地元でせっせと縄張りして築いた城にも名城はきっとあるはずです。

お城の入り口にある縄張りの案内図を小一時間ニヤニヤ。そんな楽しみ方もあると思うのです。

 

筆者:R.Fujise(お城野郎)

武将ジャパンお城野郎FUJISEさんイラスト300-4

日本城郭保全協会 研究ユニットリーダー(メンバー1人)。
現存十二天守からフェイクな城までハイパーポジティブシンキングで日本各地のお城を紹介。
特技は妄想力を発動することにより現代に城郭を再現できること(ただし脳内に限る)。

 

※編集部より

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