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やっぱり天才!? 織田信長の生涯とは

お城野郎! 武田・上杉家

第二次川中島の戦い たった1つの山城が戦の趨勢を左右した

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まずは信玄の北信濃侵攻戦略を整理してみよう!

第1回の川中島の戦い(詳細の前回記事はコチラからどうぞ)は、信玄やや無気力&「負けてねえし!てか、川中島にカウントしてんじゃねえよ by甲斐の虎」的な展開で終了しました。

この川中島の戦いはその後2回、3回と続いていきますが、ここで信玄の状況を整理してみましょう。

 

・上杉はどうやら戦が分かるやつだ。もちろんオレ様ほどではないがな。

・北信濃の国人衆がみんな上杉寄りなのが気に入らん。

・でも北信濃ほしい。

・ん? どうやら上杉は本拠地を離れて遠征しまくっているらしい。

・え? 京都にも行くって? マジか。あいつ朝廷とか幕府とかが趣味なの? てか留守多いなアイツ。

 

そして信玄がはじき出した答えは、

「謙信の留守を狙え!!」

これはその後の川中島の戦いにおける武田信玄の大戦略となります。

 

この大戦略を実行していくために信玄は細かい戦略を立てていきます。

・上杉謙信が遠征しまくるように戦線を拡大させる。二正面以上で!

・北関東では北条さん、越後では下越方面の国人衆に暴れてもらおう。越中方面では一向一揆が有望だな。

・オレ様は北条氏康さんとトモダチ作戦で。

・どうやら上杉の家臣団は一枚岩ではなさそうだ。味方に付きそうなヤツにオファー出しとこう。

・越後ってすっげえ雪降るらしいぞ。大雪の時期はチャンス!?

・北信濃国人衆のみなさんには財力と武力(アメとムチ)を見せつけて味方に付けよう。

・おっと、自分が挟み撃ちにならないように背後(南信濃と駿河)をもっと固めておかないとな。

・塩田城じゃ遠いんだよなぁ。山城じゃあ速攻できないのよ。深志城はもっと遠いし。善光寺平の中心に橋頭堡作らないと。あるのかそんな場所?!

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春日山城。大雪の冬はさすがの謙信も進軍は不可能。

 

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頭脳戦!囲碁のような城取り合戦「第2次川中島の戦い」 旭山城

ということで、信玄は南信濃の伊那侵攻、甲相駿三国同盟で今川、北条と固い同盟を結んで自身の背後を固め、上杉の家臣にはちょっかい出して、北信濃では善光寺平の有力な国人衆「栗田寛明(栗田寛安の説もあり)」を寝返らせることに成功しました。そして川中島の中心地まで一気に北上します。

上杉謙信にとっては今回も毘沙門天に諮らずとも警戒レベルMAXです。ということで即出撃。

こうして川中島の北方、善光寺平を東西に流れる犀川を挟んで2回目の川中島の戦いが始まりました。

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善光寺平を東西に流れる犀川が今回の最前線

 

ここで第2次川中島の戦いで重要な城「旭山城(あさひやまじょう)」が登場します。善光寺の西方に位置しており、標高700mの場所に築かれた山城です。

中世の築城術では、通常、山城は高さ400m程度の山に収めるべき、あまり高過ぎると物資や人の移動が難しくなり、さらに近づいてくる敵兵の見分けも難しくなるのであまり高い山はやめておけ、とされています。

じゃあ旭山城高過ぎだろ、と思うかもしれませんが、ここに「標高」表示の罠があります。

「標高」とは海面からの高さを表しており、日本においては東京湾の平均海面が基準になります。県自体の標高がそもそも高い長野県ではこの標高の表示に特に注意が必要なのですが、長野市は平野部の一番低い場所でも標高が360mあります。つまり旭山城が標高700mでも長野市街、ふもとからの高さ(これを「比高」と言います)はせいぜい300mちょっとで、山城のセオリーの範囲内なのです。

ちなみに松本城の立つ松本市の標高は約580mで天守の高さも含めると標高は620mを越えます。松本城天守は東京スカイツリーとほぼ同じ「標高」だということが分かります。

このようにその山城の特徴を捉えるには、標高表示はほとんど意味をなさないのです。長野県や山梨県では特に注意しましょう。

 

謙信よ答えてみろ 善光寺平の支配者は誰だい?

話を川中島に戻しましょう。

この頃の善光寺の本堂がある付近(犀川の北部)は上杉の勢力がまだ強い地域です。そんな地域にあって善光寺平全体が見渡せる旭山城に、信玄は先の寝返らせた国人、栗田寛明を武田方の援軍、鉄砲や武器などの援助物資と共に籠城させます。

敵地に張り出した地域にあってしかも山城。最前線の「攻めの城」の位置にありながら「詰めの城(=援軍も来るよ)」でもあるという矛盾した位置付けの旭山城の役割にはどのような意味があるのでしょうか。

ひとつは善光寺平の「占領アピール」。

善光寺平のどこからでも見渡せる山頂に武田の旗が翻っている様子を想像してみてください。善光寺平の主が誰であるかを知らしめるにはこれ以上の場所はないでしょう。

そしてもう一つの役割は上杉謙信と上杉方の北信濃国人衆に向かって「どこからでもかかってこいや!」と言わんばかりの「挑発」です。第1次とは違い、信玄はかなり大胆な一手に出てきましたね。

旭山城はその山城としての特徴から防御主体の詰めの城です。しかしここは上杉方を引きつけて二正面作戦を促す目的、つまり「おとり」の役割りもありますので、防御主体の城でいいのです。

山城を力で攻め落とすのは容易ではないので、これに謙信がかかっている間に信玄が正面から攻撃できますし、謙信が旭山城を無視して信玄に正面から向かってきても、旭山城がある限り、常に自陣の横っ面を突かれないように旭山城方面に一定数の兵力を割かなければいけません。つまり少数でも籠城しているだけで旭山城は上杉謙信にとっては脅威なのです。

では先手を打たれてしてしまった謙信は何をしたのでしょう。

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善光寺本堂。善光寺平の政治経済の中心地で、古くから善光寺の支配権を巡って多くの争いがありました

 

「旭山城、おまえはもう死んでいる」戦術 横山城 葛山城 大峰城

旭山城が武田方に落ちたとき、謙信はすかさず「横山城(よこやまじょう)」という城に入ります。

この横山城は、善光寺の東側、本堂のすぐ真横に築かれた平山城です。神仏への嫌がらせではありません。善光寺は川中島を含む善光寺平の総元締めのような立ち場で、古くからこの地域の支配を目論む武将たちの権力争いに巻き込まれてきました。といっても善光寺自体が権力そのものだったのですが。

そんなアウトレイジな時代では宗教施設と言えども安穏としてはいられません。一向宗の尾山御坊や石山御坊のように宗教施設もこの時代は城郭並みに守りを固めていました。特に善光寺のようにこの地域一帯に利権を持つ立ち場ではお寺でも要塞化せざるをえません。その善光寺の守りを固める外郭が横山城であり、その横山城の詰めの城として築城されたのが旭山城なのです。

さて、謙信は横山城に布陣してみたものの、そもそもその横山城の詰めの城でもある旭山城には、何の脅威にもなりません。

そこで謙信は、旭山城への対策として、戦のセオリーである「付け城戦術」で対抗します。

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謙信は旭山城の北方、旭山よりさらに高くて、旭山城を一望できる場所にある「葛山城(かつらやまじょう)」を改修し、ここに陣を移動します。次いで葛山城の後方に「大峰城(おおみねじょう)」も築きます。

この大峰城は、昭和のお城建築ブームの時に場違いでフェイクでやっちまった感満載の「近代的な」天守が建てられました。もちろん大峰城には戦国時代にも江戸時代にも天守なんてありません。フェイクでも全力で釣られてこその城マニアがこの大峰城天守をハイパーポジティブに評価するなら、旭山城址に建てなかった判断がグッジョブ!です。←全然誉めてない。

話を戦国時代に戻しましょう。

 

善光寺の利権問題に食い込んだ信玄 それを察して輸送路を塞いだ謙信

「上杉謙信は付け城戦術で葛山城と大峰城を築いた」と書けば教科書の模範解答としては正解ですが、では何故、有効な付け城が葛山城と大峰城なのか?と問われれば、全く答えにはなりません。

この先を考えることで歴史がぐんと面白くなるのですが、学校教育ではそこまで踏み込みません。おっと教育批判はそこまでだ!というかそもそも学校でお城の意義なんて教えませんが。

城に戻ります。葛山城は旭山城より高く、間近で圧力をかけるには最適の位置なのはわかります。しかし大峰城については葛山城の背後にあり、存在意義が分かりません。最初は補給の城かと考えましたがそれは葛山城で十分ですし、善光寺一帯は上杉の支配地域ですので補給ルートの確保や補給地点に難はありません。

すべての城にはそこに立つ理由があると考える私には大峰城の位置に特に言及する資料もなくモヤモヤが残ります。

そこで私見ですが、この付け城の配置には旭山城に篭った栗田氏の出自が関係しているのではないかと考えます。

この栗田氏は善光寺平の国人衆の一人で、代々善光寺の別当職を務めてきた一族でもあります。お寺の別当というのはざっくりいうと宮司兼管理者のような立場です。要するに善光寺の既得権益者です。

既得権益あるところに権力闘争あり。これが戦国時代になって善光寺大御堂派と小御堂派で親族対立を起こし、小御堂別当の栗田氏が武田信玄側に付きました。まあ、信玄がこの親族争いに付けこんだのでしょう。

その栗田氏の歴史をもう少し遡りますと、栗田氏は善光寺の別当職に就く前から戸隠神社の別当職を代々務めていました。

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左上、北西が戸隠。古くから修験者の修行の地であり忍者伝説も

 

この栗田氏の先祖の地である戸隠と善光寺、そして旭山城をつなぐルートを見てみますと、葛山城の南方を通るルートと葛山城と大峰城の山間を抜ける2通りのルートがあることが分かります。

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葛山城と大峰城で戸隠方面を遮断

 

つまり大峰城は戸隠方面から旭山城の栗田氏への援軍(戸隠流の忍者軍団がいたかどうかは分かりません)や援助物資の道を完全に遮断するために築かれたと考えるのが自然ではないでしょうか。旭山城の孤立=栗田氏の孤立=戸隠方面を遮断、と考えると葛山城と大峰城の位置は旭山城を孤立に追い込む絶妙な付け城戦術、さすが謙信さん!となります。

あくまでお城野郎の私見ですので妄想の域を出ませんけどね。

 

信玄を誘い出すため謙信が罠をはっていた!?

さて、謙信に付け城戦術を取られてしまった旭山城はもう丸裸かつ袋のネズミです。この地域の主導権は完全に上杉謙信側に移りました。

旭山城の兵力はそれほど多くないばかりか、そもそも城の防御力があって初めて上杉方に脅威を与えられるのです。葛山城へ打って出ても間違いなく上杉謙信にやられます。

かといって上杉謙信も信玄の到着前に莫大な物資と兵力を消耗する攻城戦に挑むような愚はおかしません。

このように付け城戦術は、より優位な場所に自軍の城を構えることによって相手側の援軍と補給を遮断して孤立させ、一兵も損なうことなく城を「死に城」にすることができるのです。

しかし旭山城には補給ルートがもう一つ残されています。それは旭山城の南側、犀川渡河からのルートです。

後詰めの武田信玄が南からやってきたと当たり前のように書かれますが、実は今回の信玄の行軍とこの地への陣地構築は旭山城への補給ルートを南側に限定された結果とも言えます。信玄を誘い込むために、上杉謙信があえてこのルートを残したと考えるとかっこいいですがそれは分かりません。

 

 

いよいよ両軍激突か!? 犀川の戦い

信玄の次の一手を見ていきましょう。

信玄も戦のセオリーに則って、旭山城の援軍「後詰め」として犀川の南側まで出陣し、川中島のど真ん中「大堀館(おおぼりやかた)」に本陣を構えます。ついに信玄は本陣を山城ではなく川中島の平野部に構えました。これはもう積極侵攻を表明したようなものです。

対する上杉謙信はこの最後の後詰めルートも遮断するために犀川付近まで出陣します。

しかし信玄は犀川を前に一歩も動きません。犀川を南北に挟んで武田、上杉の両軍がにらみ合う状況が続きます。

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この間、上杉方は何度か犀川の渡河を試みて、武田方に小競り合いを挑んでいます。よく謙信は我慢ができなかったとか、焦っていたとかいろいろ言われていますが、我慢ができない総大将がこの後200日もこの場に滞陣するなんて、ちょっと考えられません。

謙信が凡庸な武将ではない、戦のセオリーを知っている、ここまでの完璧な付け城戦術、とポジティブに考えれば、謙信は単純にルート限定した後詰めを叩く、もしくは犀川の南部、信玄の背後にまさに旭山城のような橋頭堡を築いて包囲を目論んだと考えるのが妥当ではないでしょうか。

しかしこの上杉方の犀川渡河作戦も、結局は小競り合い程度で、武田方に撃退されて謙信も兵を出すのをすぐに止めます。武田信玄が犀川渡河をしないどころか一切動かないという意志を謙信は確信したのでしょうね。

ここでも戦の天才同士の心の交流が垣間見られます。そして、第2次川中島の戦いは200日にも及ぶ長期のにらみ合いに入るのでした。

 

 

戦は主導権の取り合いです。

先に動くことによって主導権を得ることもありますが、逆に先に動くことで主導権を相手に奪われてしまう「後の先」もあります。このような状況ではどちらも動くことができません。
結局、今川義元を通じた仲介で両軍撤退となります。これは補給路が延びきってしまった武田信玄が遠征先での長期滞陣が難しくなって今川義元にお願いしたと言われています。

この両軍撤退の提案に対し、謙信が示した撤退の条件が旭山城の破却でした。これだけでもこの膠着状態の原因が、旭山城にあったというのがよく分かるでしょう。一つの城の占領がその後の戦局を大きく左右させるのです。

第2回川中島の戦いは、激しい攻城戦こそないものの頭脳と頭脳の城取り合戦。そして城の役割は、両雄の戦略を達成させるための駒。これこそが最前線の城のカタチです。

 

兵を一点集中させられるが条件は敵も同じこと

第2次川中島の戦いは両軍撤退で幕を閉じました。武田信玄の放った旭山城という挑発。それに乗らなかった上杉謙信の戦のセンス。武田信玄は「上杉ハンパねえ。マジハンパねえ」と思ったのは間違いないでしょう。

そして信玄にとって今回は反省点が2つ出てきました。

一つは「補給」。上杉の戦のセンスを考えると短期決戦は難しい。実行したところで確実に勝つ保証はありません。そうなるとこの川中島に長期滞在できる拠点、城の確保が必要になってきます。もう言っておきますが、のちの「海津城」築城フラグです。

そしてもう一つは善光寺平においては戦線が犀川越えという一点しかないこと。これは兵力を一点に集中できるため、兵の運用を容易にしますが、それは敵も同じです。Bプランのない、一択しかない戦略など古今東西、必ず失敗します。

しかし積極侵攻策が国是のような武田方にはBプランがないからといってその地に踏みとどまることなど許されません。かといって力攻めの突破を試みても上杉のセンスと戦闘力に、これまた勝つ保証はどこにもありません。

ということで信玄は最初の大戦略に戻ります。

すなわち「謙信の留守を狙え」。

次回、第3回川中島の戦いは、調略戦を仕掛ける武田信玄と、ついにブチ切れる上杉謙信の泥沼の戦闘です。攻城戦多数!城マニアにっこり、な激しい城取り合戦に発展していきます。

 

 

筆者:R.Fujise(お城野郎)

武将ジャパンお城野郎FUJISEさんイラスト300-4

日本城郭保全協会 研究ユニットリーダー(メンバー1人)。
現存十二天守からフェイクな城までハイパーポジティブシンキングで日本各地のお城を紹介。
特技は妄想力を発動することにより現代に城郭を再現できること(ただし脳内に限る)。

 

※編集部より

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