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肥前名護屋城の意義~秀吉の朝鮮出兵でこの地が重要拠点に選ばれた理由とは

更新日:

 

大河ドラマ真田丸の舞台にもなっていることで注目度が高まっている名護屋城。

天下を統一し、いよいよ明国攻めに挑む豊臣秀吉が大本営に指定したのが、尾張名古屋ではなく、九州は肥前松浦郡の名護屋でした。

なぜこんな辺鄙な土地に建てたの?(地元の方々すみません)
博多じゃダメだったんすか?
名護屋に巨大城郭を構えるなんてそもそも無駄じゃない?

と、次々に湧いてくる疑問を探っていくと、実は、この城が空前絶後の前線基地にして、更には加藤清正をはじめとする秀吉子飼いの武将たちの「秀吉愛」に満ち溢れた城だったことが分かります。

早速、説明してまいりましょう。

【TOP画像】復元された名護屋城・佐賀県立名護屋城博物館HPより引用

 

大量の兵力で軍事力を誇示する必要があった

まず秀吉の「唐入り」の目的ですが、誇大妄想に取り憑かれたとか、戦国大名たちのガス抜きとか色々と云われています。

残念ながら明確な理由は不明です。しかし、明国を武力で屈服させようと考え、実行に移したことだけは事実。秀吉の入明の目的は貿易ではなく武力で支配下に置くことですので、大量の兵力を動員して軍事力を誇示する必要がありました。

大量の兵力を中国大陸まで輸送するには、危険な渡海の距離はできるだけ短く、効率良く上陸させてしまうことが重要です。

そのため、朝鮮半島南部にさっさと上陸する【陸上ルート】の確保が求められました。日明貿易のルートである、堺から瀬戸内海、下関を通過して博多から東シナ海を西に進み、寧波に向かう【海上ルート】は、敢えて避けたと考えられます。

肥前名護屋城の位置

 

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釜山まで120キロ 途中に壱岐と対馬の2つの島

日本–朝鮮半島間で最も直線かつ安全な最短ルートは、北部九州から壱岐・対馬などの島を経由して釜山方面に向かうルートです。

最初の主戦場は朝鮮半島の上陸地点になりますので、対馬の出発地点までは兵力や兵糧を脱落させることなく安全に運び込まなければなりません。安全に運び込むためには海上で方角を見失ったり、悪天候で漂流するリスクの少ない海路が必須となります。

そのためには対岸の島を視認しながら航海できる場所がスタート地点に最適。このように全く合理的な理由から選ばれたのが名護屋でした。距離にして、釜山まで120キロ余りありますが、途中に壱岐、対馬という二つの大きな島があり、朝鮮半島へ確実に上陸できる最短ルートの起点だったのです。

しかし、いくら地政学的に合理的とはいえ、何もない土地に巨大城郭を造るのは現実的ではありません。

これを秀吉の官僚たちは計画し、やってのけます。石田三成をはじめとする合理性の塊のような官僚組もまた秀吉子飼いの武将たちであり、秀吉のためなら一見矛盾するプロジェクトも強引に成し遂げてしまうのです。

 

兵站管理のために「名島城(なじまじょう)」を築城

さて、日本国内の兵站を考えると物流と商業の拠点で中洲の歓楽街も備える・・・おっとこれは現代の話ですが、ともかくビジネスセンター博多に本陣が置かれてもおかしくないと思います。

文禄・慶長の役のとき、博多はあくまで後方の兵站基地として置かれます。

兵站を管理する城として、使用されたのが博多の街の東にある「名島城(なじまじょう)」。

秀吉の命令によって毛利元就の三男・小早川隆景が築城したのですが、九州で初めての総石垣を伴った織豊系城郭と云われています。

後年、黒田長政が福岡城を築城する際は、この名島城の石垣から石を剥ぎ取り、福岡城に転用しました。

名護屋城-1

福岡城・名島城の石垣が運ばれました

名護屋城-2

後に福岡城に移築された名島城の門

 

城から直接、船で出撃できる縄張りになっている

名島城は海に突き出た海城です。

小早川隆景といえば、頭が良くて親が金持ち、しかもとてもいいヤツ!

というイメージ(個人の感想です)で、毛利家の瀬戸内方面を水軍で管轄、同家躍進の決定的な戦となった「厳島の戦い」や、織田信長の水軍を手玉にとって大坂の石山本願寺に兵糧を運び入れた「木津川河口」で数々の武功を挙げた海の戦いのプロです。最終的には信長の鉄船(実在したかどうかは不明)に敗れてしまいますが……。

この海の戦いのプロが築城した名島城は、城から直接、船で出撃できる縄張りになっており、名護屋城や朝鮮半島方面の兵站を担う城として活躍しました。

ちなみに「縄張り」とは、お城の堀や門、曲輪などを配置するための設計図です。「縄打(なわうち)」とも言います。城を建てるときは、この「縄張」を考えるのが一番ワクワクする瞬間だったでしょうし、現代の我々にとっても当時を考えるのに最も重要なアイテムの一つです。

名護屋城-3

名島城の縄張り

話を名島城と名護屋城に戻しましょう。

輸送の最前線にあった名護屋城。

その後方支援のための名島城は、九州各地から物資が集まる博多に近いだけでなく、大坂から瀬戸内海を通り、博多までの海上輸送ルートが既に確立されていた――ということが重要です。

航海の大部分を占める瀬戸内から下関への海上輸送を考えると、同地方の海を誰よりもよく知る小早川隆景が名島城主になっていたというのも、非常に理に適った選択。

秀吉含め、当時の豊臣政権の本気さが伝わってきますね。

 

韓国に築いた「倭城」……蔚山城や西生浦城など

以下の地図をご覧ください。

名護屋城-4

名護屋城を拠点に、壱岐に渡ると島の北部に「勝本城(別名「風本城」)」があります。秀吉が、この地の領主・松浦鎮信に命じて築城させた織豊系の石垣城です。

さらに対馬には、壱岐方面にある厳原(いづはら)港を見渡せる山に「清水山城」があり、対馬の北部、ココからはいよいよ朝鮮半島へ出撃!という港に「撃方山城(うつかたやまじょう)」という最前線の城があります。これら対馬の城もすべて秀吉の命令で、最新の石垣技術により改修された織豊系の城郭です。

撃方山城の麓にある大浦湾を出発して、朝鮮半島南部に上陸した日本の諸将は、半島に橋頭堡を築くため朝鮮各地にも最新技術で城を築きます。

韓国では「倭城」と呼ばれ、加藤清正の「蔚山城(うるさんじょう)」や「西生浦城(せいせいほじょう)」が有名。

石を垂直に積む明や朝鮮式の石垣とは違い、傾斜をつけて積み上げる日本独特の石垣建設には強度があり、朝鮮半島には無い日本独自の築城術(なので韓国ではあえて「倭城」と呼びます)として、朝鮮半島の城とは明確に分類されています。

名護屋城-4.5

石垣の傾斜は日本の城の特徴だったのです

このように、秀吉の城郭戦略は、名護屋城を大本営として朝鮮半島までの最短コースを確保。

後方の補給基地に名島城、前線のつなぎの城として壱岐に「勝本城」、対馬に「清水山城」と「撃方山城」を配し、さらには上陸先の朝鮮半島南部・各地に最前線の城を築きました。

名護屋城の周辺には、全国の大名が名護屋城を取り囲むように陣所を構え、城下町もできるほどの賑わいを見せました。

城内では茶会や、大河ドラマでも放映された仮装大会(父の昌幸と秀吉の演目「瓜売」が被ったお話)が行われたり、遊興の場としても盛り上がりを見せました。

しかし、忘れてならないのは、名護屋城はあくまで明国攻めの軍事基地であるということです。西国一の商業地・博多とは一線を画す「戦いのための城」だったことを今一度念頭に入れ、次へ進みましょう。

 

大坂城に次ぐ日本で二番目の大城郭・名護屋城

名護屋城は築城当時、大坂城に次ぐ日本で二番目の大城郭でした。

小高い山の上に築城されていて、ここから玄界灘を見渡すこともでき、さらには波の音が聞こえるリゾートホテルばりのオーシャンビュー♪

名護屋城天守台

名護屋城天守台

しかし不思議なことがあります。

実際に、名護屋城を訪れたことがある人は分かると思いますが、現代でも陸地を通って同城跡に向かうルートは、狭く起伏の多い道になります(唐津から先)。

城には必ずそこに築かれた理由がありますが、何故こんな辺境の地(地元の方々、ほんとにすみません)なのか。半島への渡海最短ルートとはいえ、この地に秀吉が豪華な城を築城したのが不思議でならないのです。

というのも日本において大城郭と呼ばれる城は、街道筋や大きな商業地や港に築城されるもので、古来から人の往来が盛んな場所に築城されてきました。

しかし名護屋は明らかにメインの街道筋から外れており、港も小さな漁村で大商業地でもありません。

これが名護屋城に対して我々が何となく感じる違和感の正体ではないでしょうか?

名護屋城築城時にはわざわざ唐津から「太閤道」と呼ばれる街道を通すなど、何もかも人工的なのです。

 

とはいえ、名護屋周辺は、実は陸上より海上からのルートの方が発展しており、名護屋城も海上から向かうと非常にスムーズです。

実際、名護屋城の築城された地には、この海域一帯を縄張りとする松浦党の城「垣添城」があり、水軍城として玄界灘を通過する船を監視していました。名護屋は単なるオーシャンビューの地ではなかったのです。

ちなみに秀吉も名護屋城には筑前の深江という場所から船で向かっています。

現代の我々は、つい陸地の道で考えてしまいますが、戦国の城や街を考える際、海上からの視点を考えると、合点が行くことが多々あります。特に水軍が発展した地域や古い港町はその典型です。

小田原征伐が明国攻めの予行演習とされるのも、小田原までの膨大な物量を海上の輸送ルートでまかなったこと、そしてそれが大坂から瀬戸内海を通り博多を経由して名護屋に至る海上ルートでいかされていることも理由の1つでしょう。

以上を踏まえると名護屋城の全貌も見えてきます。

 

天守の建築には黒田官兵衛の得意技が用いられた!?

名護屋城で特筆すべきはその巨大さです。

五層七階の天守に、曲輪は二の丸と三の丸にプラスして「遊撃丸」や「弾正丸」といった独自の名のものがあります。そして大坂城同様に山里丸(曲輪)を外側に配しています。

城下には全国各地の大名が陣所を築き、名護屋の地を建築物で埋め尽くしました。城郭の普請奉行には黒田長政(豊後・中津城)、加藤清正(肥後・熊本城)、小西行長(肥後・宇土城)、という九州に本拠地を置く秀吉子飼いの武将たちを任命しています。

名護屋城の大天守は北西の隅櫓(すみやぐら・城の隅に建てられた櫓)の位置にあり、これは玄界灘に最も近いところに配されています。

ここで注目すべきは、本丸の隅櫓の1つを大天守にする建築術が黒田官兵衛の得意技だったということでしょう。豊臣時代の大坂城も同様に設計されております(徳川期の大坂城天守は、天守をど真ん中に配置する独立式)。

おそらく長政の相談役として黒田官兵衛が助言したのでしょうね。妄想は膨らみます。

 

最新技術が投入されたのは石垣も同様です。

名護屋城-6

徳川の時代になって破城され、残念ながら現代の名護屋城石垣は多くがこのような姿になっています

これまでの石垣は、自然石をうまく組み合わせて築き上げた野面積みでした。

が、名護屋城の石垣は、表面に自然石の凹凸が出ないように、石を割って作られていて、最終的にきれいな平面に仕上がるように築かれております。同城では、特に海側に向かって積み上げられています。

ちなみにこの技術は、見た目がとてもきれいな為、この後、全国へ伝播。一般的な石垣工法となって参りますが、実は、自然石同士の隙間がなくなり、遊び(バッファ)が減るため、地震に弱いとされています。

このように細かいところを見ていくとキリがないのですが、名護屋城の最も大きな特徴は、大天守や表面を加工した最新の石垣など「見せる」要素が【すべて海側を向いている】ということです。

海上から名護屋城を見たときの壮麗さや、威厳を出す演出になっていたのですね。

明や朝鮮からやってくる使者には、日本の軍事力や財力を、出撃していく兵士には安心感を、参陣した全国の大名には豊臣家の威信を見せつける造りなのです。

こうした【見せるための城】というのも、秀吉の城の特徴です。古くは信長の安土城に始まりますが、秀吉がさらに発展させました。

 

通路が6回も折れ曲がる防御用の道を併設

秀吉の城の特徴の一つに【山里丸】という曲輪の存在があります。

大坂城や伏見城にもありましたが、名護屋城にもわざわざ城から離れた、防御にはやや不向きな場所に造られています。同城の山里丸は広大で、小高い山を含む上山里丸と、低い位置の下山里丸に分けられます。

この二つの山里丸は庭園の要素を持っており、城の中では防衛というよりも遊びの場として活用。秀吉在陣時には、ここで茶会が開かれたり、瓜畑では大名の仮装大会も開かれました(瓜畑の場所は諸説あります)。

もちろん曲輪ですので、城外から本丸までの縦深を広げるという意味では防御能力があるのですが、しかし山里丸を城山の低い場所にまで拡げてしまったばかりに城外との高低差がなくなり、このままでは軍事的には全く無意味な曲輪となってしまいます。

そこで普請奉行たちは、山里丸の外側を掘り下げて巨大な水堀を構えて防御能力を高めました。この形がしゃちほこに似ていることから「鯱鉾池」と呼ばれています。

この山里丸は、よほど心もとなかったのでしょう。実はもう一つ防御の工夫があります。

下山里丸から山上の上山里丸に向かう道(山里口)は、なんと通路が6回も折れ曲がる防御に特化した道になっているのです。

6回も折れがあれば上山里丸に到着する頃に敵は全滅です。この「そこまでやるか感」は熊本城に通じるものがありますね。加藤清正の発案なのかどうかは分かりませんが、妄想は膨らみます。

熊本城に「そこまでやるか感」は受け継げれています

熊本城にもある堅い防御の「そこまでやるか感」・確実に受け継がれているようです

名護屋城では、低い位置に山里丸を造ってしまったばかりに水堀を構え、さらに複雑な折れを持つ通路を作ることになってしまいました。

単なる遊びの場として片付けられない。天下人が遊ぶのもまた命がけ、戦いの一環なのです。

と、まとめると響きは良いですが、城の普請を命じられた部下はたまったものではありません。秀吉の望み通り【山里丸】を構えたとはいえ、城の防御力を落としては本末転倒です。

秀吉の望みを叶えつつ防御力も高めるという一見矛盾するコンセプトを解決してこそ秀吉子飼いの面目躍如なのです。

朝鮮半島では反目しつつも共に苦労した黒田長政、加藤清正、小西行長。名護屋城の築城では、これまでの他の城とは大きく異なる苦労も伴いました。

太閤の夢の跡「名護屋城」には、彼らの汗が多く染みこんでいます。

「秀吉子飼いの武将とは如何なるものか?」

名護屋城跡を訪れると、その一端を感じることができるかもしれません。

 

筆者:R.Fujise(お城野郎)

武将ジャパンお城野郎FUJISEさんイラスト300-4

日本城郭保全協会 研究ユニットリーダー(メンバー1人)。
現存十二天守からフェイクな城までハイパーポジティブシンキングで日本各地のお城を紹介。
特技は妄想力を発動することにより現代に城郭を再現できること(ただし脳内に限る)。

※編集部より

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