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おんな城主直虎特集 井伊家

直虎紀行 最終巻『そして直虎は眠り、赤鬼が生まれた』 井伊直虎ゆかりの地を歩く

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故郷を徳川家康に奪われ、さらには三方ヶ原の戦いが起き、今度は武田に全てを奪われた井伊一族。
されど、人生は何が起こるか分からない。
戦国の巨人・信玄が程なくしてその一生を終えると、井伊の地は再び徳川家康のものとなった。

そして、
───井伊直親が実子、取立不叶。
(井伊直親の息子・直政を取り立てずにはいられない)
という家康の一言から後の「井伊の赤鬼」が生まれ、同家の快進撃が始まる。
遠江井伊氏は後に、井伊領25,000石の10倍以上の350,000石を有する近江井伊氏へと変貌を遂げるのであった───。

井伊直政年表

第23代宗主・井伊直親が掛川で討たれると、当時2歳であった虎松(後の井伊直政)の殺害命令が今川氏真によって発せられた。
ところが、こともあろうに今川庶子家の新野親矩が虎松を井伊谷の新野屋敷に匿ったという。庶子家が宗家の命令を聞かないとは、常識的にはあり得ない話。
井伊直親屋敷(祝田城)があった祝田では、「井伊直親の家老(今村藤七郎?松下清景?)がすぐに虎松を瀧峯不動(たきみねふどう)に隠し、夜になると、龍潭寺、さらには鳳来寺を経て信州に送った」あるいは「今村源右衞門正盛が、鳳来寺を経て市田郷の松岡城に送り届けた」と伝えられている。

その虎松は、井伊直虎が地頭になると、井伊谷に帰ってきた。ところが、井伊直虎が地頭職を解任されると、再び鳳来寺へ逃げたという。
井伊直虎・直虎の母・虎松の母の3人は、龍潭寺の松岳院へ逃げたというが、虎松の母は出家しないで、虎松と信州に逃げたとも伝えられている。また、虎松は、井伊直虎が地頭になっても、井伊谷へは帰って来ず、ずっと鳳来寺にいて、幼少期に両親の愛を受け取れなかったことが「人斬り兵部」を生んだとも伝わる。

 

井伊直親の十三回忌に虎松が井伊谷へ顔を出すと、南渓和尚などと相談の上、虎松を実母の再婚相手である松下清景の養子にしてしまった。
これにより、「松下虎松」が誕生し、井伊家は一時絶えてしまう。鳳来寺からは「虎松を返せ」と使者が何度も訪れたが、南渓和尚がその都度、跳ね返した。

「永祿四年、遠江國井伊谷に生る。五年、父・直親戦死ののち、その罪、いまだ明白ならざるにより、領地を沒収せらる。ときに直政も害せらるべきを、新野左馬助某、強て一命をこひうけ、かれが家に養育せらる。七年、左馬助、遠江國引間(のち、濱松にあらたむ)にをいて討死すといへども、その妻なを撫育するのところ、氏眞、また殺さむとす。こゝにをいて、其妻にやくはかりて、左馬助が叔父・浄土寺の僧にあたへて、出家せしむるにより、遂に死をまぬかる。十一年、氏眞、沒落のとき、直政、浄土寺の僧等とともに、三河國鳳來寺にのがれ、それより遠江國濱松にいたる。のち直政が母、松下源太郎清景に再嫁するにより、そのもとにやしなはれて松下を稱す。」(『寛政重修諸家譜』)

子育て地蔵

虎松の実母が植えた梛と「子育て地蔵」(龍潭寺)

龍潭寺の塔頭である松岳院にいた虎松の実母(ドラマでは貫地谷しほりさん)は、地蔵を祀り、梛(ナギ)を植えて虎松の無事成長を日々祈願していたという。

 

天正3年(1575)2月15日、浜松城から鷹狩りに出た徳川家康(阿部サダヲさん)は、路傍に正座する2人の少年を見つけた。

井伊直虎とその母が縫った小袖をまとい、「遠くからでも目立つように」とあつらえられた四神旗に守られるように佇んでいた少年を見て、家康は
───こやつ、虎の目をしている。
と気になり、浜松城に連れて帰る。そして素性を聞くと、井伊直親の子・虎松であるというではないか。

そこで家康の口から冒頭のセリフが出てくるのである。
───井伊直親が実子、取立不叶(そなたは、儂に内通したので討たれた井伊直親の子であるから、そなたを召し抱えないわけにはいかない)。

徳川家康は、虎松の復姓を許して「井伊万千代」と名付け、小姓にして300石を与えた。300石の所領位置は不明だが、祝田の井伊直親屋敷や大藤寺周辺ではないかと思われる。
なお、「虎の目」は「野性的な目」と解釈されているが、私の考えでは「茶色の目」だ。この辺りの原文を記事末に掲載したので、興味おありの方は後ほど確認していただきたい。

浜松東照宮(引馬城跡)の徳川家康像

浜松東照宮(引馬城跡)の徳川家康像

 

小野万福の父・小野玄蕃(井上芳雄さん)は、「桶狭間の戦い」で死んだ井伊家の忠臣であり、井伊家家老・小野政次(高橋一生さん)の弟であった。

「小野玄蕃はいい人、家老の小野親子は悪い人」
そんな風にも話は伝わっており、井伊家家老・小野政直(吹越満さん)の讒言で井伊直満・直義兄弟が命を落とし、井伊家家老・小野政次の讒言で井伊直親が命を落としたというのであるが、本当にそうで<あろうか?

井伊直平は、「井伊家が生き延びるためには、今川氏にすがる以外に道は無い」と信じていて、その信念を、家老の小野親子は支持していたのである。

小野政直が家老の時代は、井伊直平派(今川派)と井伊直満・直義派(武田派)と家が2つに割れており、考えを1つにまとめるための話し合いをもってもまとまらず、かといって、井伊直満・直義派を追放すれば戦力が減るばかりか、殺し合うことになりかねないので、小野政直は、策を講じた。
井伊直満・直義を今川義元に殺させて、お家を1つにまとめたのである。

また、小野政次が家老の時代は、井伊直平派(今川派)と井伊直親派(徳川派)とに割れており、1つにまとめるために父と同じ方法をとって、井伊直親を今川氏真に殺させたという。つまり、「讒言」ではなく、むしろ「内部告発」である。

 

井伊直親は「鹿狩りに行く」と行っては、徳川家康やその家臣と会っていた。
そのために殺されたので、徳川家康は、「そなたの父・直親は、儂に内通したので討たれた。そなたは、その直親の子であるから、召し抱えないわけにはいかない」と虎松に声を掛けたのである。

井伊直満・直義・直親の死の遠因は、

①井伊領が遠江国の西端にあって、主人を今川・武田・徳川から選べる地理的位置と、「国衆」(国人領主)という立場にあったこと
②今川氏と戦って敗れ、「今後は今川氏に頼るしか無い」と考えるゴッドファーザー直平が長生きしすぎた(完全引退して若い宗主に井伊家を任せなかった)こと
にある。

NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」で、井伊 直平(前田吟さん)は、「今は今川氏に頼るしか無いが、隙あらばリベンジを」と考える元気な老人として描かれるとのことだ。

天白公園から見た渭伊神社と妙雲寺

天白公園から見た渭伊神社と妙雲寺

 

さて、「おとわ」こと井伊直虎は、出家後に「次郎法師」となり、還俗して女城主「井伊直虎」と名乗り、再び出家して尼となって「祐圓尼(<ゆうえんに)」と称した。
晩年に過ごした自耕庵(じこうあん)は、明治に入って、当時の住職(樋口玄喝和尚)が、彼女の戒名「妙雲寺殿月舩祐圓大姉」にちなんで「妙雲寺」(みょううんじ)と改名している。※臨済宗では「法名」のことを「戒名」という。

妙雲寺は、天白公園の西隣、渭伊神社(いいじんじゃ)の一の鳥居付近にある。

妙雲寺

妙雲寺

妙雲寺は、井伊直虎の菩提寺で、彼女と南渓和尚の位牌、墓、南渓和尚頂相がある。無住の寺であるので普段は閉まっているが、観光客が訪れるようになったので、土・日・祝日は中へ入られるようになった。

妙雲院内部

妙雲院内部

妙雲院内部は、フラッシュを使って撮影する観光客が多いので、「紫外線で傷む」と撮影禁止になっている。※以前は撮影可能であり、その頃に撮影させていただいた

中央に祀られているのが、井伊直虎の位牌(左)と、南渓和尚の位牌(右)である。
幕紋・須弥壇の紋は、右の「丸に橘」が妙雲寺の寺紋で、左の「三つ橘」が檀家である兵藤家の家紋である。

琉璃殿

瑠璃殿

妙雲寺の境内には、「瑠璃殿」が東向きに建てられている。
薬師如来が、遥か東方の瑠璃光浄土を眺めておられるのであろうか。

井伊直虎の墓

井伊直虎の墓

1582年8月26日 祐圓尼(井伊直虎)、遷化。
享年は不明であるが、母の死から4年後の死ということから、若くして亡くなられたと想像される。病死とされるので、苦しんでの最期であったのだろうか。それとも直政の活躍を聞きながら、「自分の役目は終わった」と、安らかな大往生であったのだろうか。
井伊直虎の墓は、竹藪の中にあり、参道が整備されておらず、現時点で公式発表はされていない。

 

さて、祐圓尼(井伊直虎)が遷化(僧や尼が他界すること)して約3ヶ月後、22歳という異例の遅さで、井伊直政が元服した。この遅い理由については、寵童説が有名である。また、

・直政は、元服の時、「この姿をおば上(直虎)に見せたかった」と言って泣いた。
・直政は、元服し、結婚すると、報告に龍潭寺に来た。その時、初めて、直虎が死んでいることを知って泣いた。

と矛盾する2つの伝承があるが、私は、どちらも正しくないと思っている。
私の説は拙著『直虎の十大秘密』(2016年3月刊)でも記させていただいたように「直政は、直虎こそ井伊家宗主であると考え、宗主の直虎が死ぬまで元服しない、井伊家の宗主にならないと考えていたから、直虎が死ぬとすぐに元服した」というものである。
妙雲寺には、通説とは異なる伝承があるが、そちらは同書をご参照いただきたい。

おとわの出家の理由

おとわの出家の理由

おとわの出家の理由については、

①婚約者が消えた(信州へ逃亡した)から
②縁談が次々と舞い込んで、断るのが面倒になったから

と言われているが、実は、

③父の生首を間近に見て、母と共に出家した。

というのである。
なお、上記のように看板が青色をしているのには理由がある。

観光協会の調査によると、井伊直虎(次郎法師)の地元民のイメージカラーは1位が法衣(紺)、2位が浜名湖の水(青)である。浜松市では目立つように赤を用いているが、井伊家のイメージカラーが赤になったのは、直虎の死後(「小牧・長久手の戦い」で「井伊の赤鬼」が登場して以降)。

NHKでは、「真田丸」のイメージカラーが赤であることもあり、「おんな城主 直虎」のイメージカラーは、虎の黄色にするようである。

 

『直虎紀行』 最後の訪問地は渭伊神社へ

渭伊神社一の鳥居と「八幡宮」の標柱

渭伊神社一の鳥居と「八幡宮」の標柱

妙雲寺裏の東西方向の道は、渭伊神社の参道である。
東から西へ進み、突き当りの森の中に同神社はある。かつては「正八幡宮」と呼ばれていた神社であり、ご祭神は「八幡三神」だ。

この「八幡三神」とは、
・八幡大神:応神天皇(誉田別命)
・ 応神天皇の母:神功皇后(息長帯比売命)
・比売神:宇佐の地主神説、宗像三女神説、卑弥呼説、台与説、玉依姫説
のことで、渭伊神社では、品陀和氣命・息長足姫命・玉依姫命として祀っている。
「八幡大神」は、「弓矢八幡」とも呼ばれ、「弓と歌の家」と呼ばれた遠江井伊家にはピッタリの神であろう。

そもそも、井伊家では、井伊谷八幡宮の御手洗の井戸から生まれた井伊共保(八幡神の化身)を「井伊八幡」と呼んで、崇拝している。
井伊家が戦場で使う吹き流しにも「八幡大菩薩」と書かれている。
※渭伊神社の鎮座地の地名は「天白」であるので、神宮寺川の畔という位置的にも「天白神」(河神)を祀る天白神社があった場所に、天白神社をどかして建てたのであろう。現在、駐車場の隅に、地名の由来となった天白社の祠がある。

 

遠江国引佐郡渭伊郷の郷レベルの一宮制については、地元の研究者によれば、
・一宮:式内・三宅神社(ご祭神:三宅大神)、現在の一宮神社
・二宮:不明
・三宮:不明(ご祭神:大山祇命)、現在の三宮神社
・四宮以下無し
・渭伊神社(ご祭神は水神(井戸神))は、井伊共保出生の井戸の近くにあり、八幡神が合祀されて「渭伊八幡宮」となり、現在地(天白)に遷座した。

これに対し、私の研究結果では、
・一宮:式内・渭伊神社(ご祭神:大己貴命)、現在の一宮神社
・二宮:式内(?)・三宅神社(ご祭神:田道間守命)、現在の二宮神社
・三宮:式内・大せち神社(ご祭神:大山祇命)の里宮、現在の三宮神社
・四宮以下無し
である。

渭伊神社

渭伊神社

渭伊神社は、郷名を社号にした神社であり、ご祭神は、井伊谷の前方後円墳に眠る首長たちの霊と考えるのが普通であろう。

本来の鎮座地は当時の中心地であった市場村で、現在、「当社は、式内・渭伊神社である」と自称する正八幡宮があった場所には、天白神社があったと思われる。

この現在の渭伊神社の裏山は、天白山でも、八幡山でもなく、「薬師山」という。ここには薬師堂があったので、そう呼ばれているが、明治の神仏分離令により、今はない。その薬師堂とは、現在、妙雲寺の境内にある「琉璃殿」のことである。

天白磐座遺跡>

天白磐座遺跡

この薬師山には、「天白磐座遺跡」がある。
井伊谷の観光案内本的要素が強い木谷恭介『遠州姫街道殺人事件』(祥伝社)という推理小説で、タレントの未来が殺された現場である。

 

磐座

磐座

「磐座(いわくら)」とは、祭りの際に神が降臨する巨岩(依り代)である。
そもそも「神」という象形文字は、「示」が祭壇で、「申」が巨岩に雷(神鳴り)が落ちた瞬間(祭りの時に神が巨岩に宿った瞬間)を描いたものだという。

遺跡名には、地名を使うのが普通であるから、本来なら「天白遺跡」とするべきであろう。「渭伊神社境内遺跡」でもいい。「~磐座遺跡」という名前のパターンは、考古学者でもこの遺跡以外に聞いたことがないと言うし、そもそも学者が付ける遺跡名ではないと言う。

しかし、現地へ実際に行ってみると、どうしても「磐座」という文字を入れたい衝動にかられる。それほど、一見の価値がある巨石であり、お時間があれば、ぜひ、足を運んでいただきたい。

井伊氏が生まれる1010年以前からここにある巨石。
井伊谷の歴史を見つめてきた、そして、これからも見つめていくであろう巨岩なのである。

 

直虎仕様の自動販売機

直虎仕様の自動販売機

以上をもちまして、戦国未来『直虎紀行』(全10回)は終了。今までお付き合い下さり、本当にありがとうございました。

次は井伊谷でお会いしたいですね。撮影会もやっていますので

2016年7月 「ポケモンGO」をニュースで見ていて、妙雲寺等でスマホをかざしたら、井伊直虎等が現れて現地案内をしてくれるといいなって思った日に。

(直虎紀行全10回了)

 

おんな城主直虎 登場人物の史実解説&キャスト!

井伊直虎(柴咲コウさん)
井伊直盛(杉本哲太さん)
新野千賀(財前直見さん)
井伊直平(前田吟さん)
南渓和尚(小林薫さん)
井伊直親(三浦春馬さん)
小野政次(高橋一生さん)
しの(貫地谷しほりさん)
瀬戸方久(ムロツヨシさん)
井伊直満(宇梶剛士さん)
小野政直(吹越満さん)
新野左馬助(苅谷俊介さん)
奥山朝利(でんでんさん)
中野直由(筧利夫さん)
龍宮小僧(ナレ・中村梅雀さん)
今川義元(春風亭昇太さん)
今川氏真(尾上松也さん)
織田信長(市川海老蔵さん)
寿桂尼(浅丘ルリ子さん)
竹千代(徳川家康・阿部サダヲさん)
築山殿(瀬名姫)(菜々緒さん)
井伊直政(菅田将暉さん)
傑山宗俊(市原隼人さん)
番外編 井伊直虎男性説
昊天宗建(小松和重さん)
佐名と関口親永(花總まりさん)
高瀬姫(高橋ひかるさん)
松下常慶(和田正人さん)
松下清景
今村藤七郎(芹澤興人さん)
㉙僧・守源

 

著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派。今後、全31回予定で「おんな城主 直虎 人物事典」を連載する。

自らも電子書籍を発行しており、代表作は『遠江井伊氏』『井伊直虎入門』『井伊直虎の十大秘密』の“直虎三部作”など。
公式サイトは「Sengoku Mirai’s 直虎の城」
https://naotora.amebaownd.com/
Sengoku Mirai s 直虎の城

 

「二月頃、御鷹がりの道にて、姿貌いやしからず、只者ならざる面ざしの小童を御覽ぜらる。これは遠州井伊谷の城主・肥後守直親とて今川が旗本なりしが、氏眞、奸臣の讒を信じ、直親非命に死しければ、この兒、三州に漂泊し、松下源太郞といふものゝ子となりてあるよし聞召、直にめしてあつくはごくませられける。後、次第に寵任ありしが、井伊兵部少輔直政とて、『國初佐命の功臣第一』とよばれしはこの人なりき。」(『東照宮御實紀』卷二)

※佐命之臣、佐命之功、佐命之勲、佐命立功:(中国の)天子に仕えて、建国の手助けをして、功績をあげること。ここでは、天下人・徳川家康を助けて、日本統一に貢献した家臣の意。

 

「天正三年二月十五日、東照宮、濱松の城下に放鷹したまふのとき、路邊にして直政を御覽あり。すなはち、めされて、つかへたてまつる。(時に十五歳) これより御かたはらをはなれず。勤労他にことなり、かくて父祖の由來をとはせたまふにより、くはしく言上にをよぶのところ、いまより井伊に復すべきむね鈞命をかうぶり、先祖歴代の舊知・井伊谷をたまはる。」(『寛政重修諸家譜』)

※井伊領は25000石である。拝領したのは300石であるので、「旧知・井伊谷」は、「旧領知である井伊領の一部」という意であろう。(「領地」とも書くが、正しくは、「領知」(領地と領民)である。)

 

「直政公権現様江御出勤之事 一 直政公 権現様江御出勤之為ニ濱松松下源太郎ノ宅江御越被成候。御小袖弐ツ、祐椿、次郎法師より御仕立被遣候也。天正三年二月、初鷹野にて御目見被為遊候、早速可被召抱之御上意ニテ御伴、御城江御入被遊候。則、於御前、御尋之上、父祖之由来、具ニ令言上の所ニ、複驚、台聴被仰出候ハ、實父・直親ハ家康カ遠州発向之隠謀露見故、氏真傷害為致、家康之為ニ命を失ひ、直親カ實子、取立不叶之旨、則、松下を相改、直親之家名、井伊氏可成旨、又、権現様御童名・竹千代様之千代を被下、『千代、万代』と御祝、『虎松』を改て『万千代』と御名被下、直政公御伴仕候小野亥之肋ニ『万福』と申名被下、『万千代、万福』と御祝被為遊被下、千秋万歳目出度御祝ひ御上下御拝領、即座三百石被下候事ハ、天正三年、直政公、拾五歳之節也。 評日 権現様、直政公御取立被為遊候思召ハ、直親公、命を失ひ御忠節ニより、格別ニ御取立被為遊候所ニ、後世ニ至リ其訳不考候事、又、万千代と之童名ハ、直親壮年にて戦死故、直政公を御祝ひ、万千代・万福と被下候事ニ御座候得共、後世ニ至リ是又不相考候故、其訳相立不申候。是等皆松岩先住徹叟江之ロ傳也。」(『井伊家伝記』 )

※徳川家康は、その年の初めての鷹狩で、松下虎松とその伴の小野亥之助に会い、井伊万千代・小野万福という名、300石、上下(裃)を与えたという。以上の話は、岩松という86歳まで生きた老僧が、先の住職・徹叟和尚(『井伊家伝記』の著者・祖山和尚は龍潭寺九世住職で、龍潭寺の境内に開山堂を建立した徹叟和尚は龍潭寺八世住職)に語った口伝である。

 

「七十。井伊虎松 (直政) 実母と共に久敷信州に為忍給ふ。扨今川家も追々に衰徴候故、旧縁あれば匹馬駅浄土寺へ内々引越候而何卒権現様へ御奉公之心懸にて罷在候処、幸御城下の松下源太郎方へ後妻に被嫁候故、養子には無之候共、自然と被養居候得共源太郎之養子に申立、今般御奉公相勤申候。此時万千代と云ふ名を権現様御直に被下候事。其後御尋御座候は、『何方にて生れ候哉』と被仰侯時、『私儀は、井伊谷之城主・井伊肥後守直親之嫡子に御座候。落城後は信濃国に久敷罷居候処、実母儀、源太郎方へ縁付申候間、私も付従ひ参り、自然と預養育申候』と申上候得者忽被驚台聴、『井伊直親儀は、予が為に於掛川て致生害候と承る。不便千萬也。然者、其方に井伊家相続申付、旧領なれば井伊谷筋にて三千石差出す者也。』(或は三百石、次に三千石歟。)仰出候間、誠に家之面目難有頂戴仕候。且又、松下源太郎方相続之儀は、小野万福へ被仰付候。 浄土寺住持・守源儀は、新野氏之伯父成由申候得者、守源は岡部氏歟、上田氏之子可成也。引馬在富塚西来院寺中浄土寺住持は、新野左馬介之伯父なり。右寺を母子共に鳳来寺へ被隠候節は、左馬介其弟、又、浄土寺弟子僧は珍源と申候。又は、守源とも在之候也。」(『礎石伝』)

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※虎松が逃げたという西来院の塔頭の浄土寺の住職は、新野親矩の伯父である。ただ、新野親矩は、新野氏が宗家の上田氏から迎えた養子であるので、その伯父とは、新野氏ではなく、上田氏であると考えられる。(岡部氏は、加茂神社・井伊谷宮の宮司家である。)浄土寺の住職は、寺僧の守源(珍源)を虎松に付けて、鳳来寺へ送ったという。

 




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