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おんな城主直虎特集 井伊家

「おとわ」が次郎法師を経て井伊直虎そして祐圓尼になるまで【おんな城主 直虎人物事典①】

更新日:

 

2017年大河ドラマの主人公は「井伊直虎」である。
戦国ファンや同時代のゲーム好きには割とよく知られた名前だが、その一方で主役を演じるのが柴咲コウさんだと聞いて驚かれた方も少なく無いだろう。

直虎って女性なのか!?
答えは、イエス。彼女は幼名を「おとわ」、出家して「次郎法師」と言い、最終的には地元・井伊谷(いいのや)の女地頭になって「井伊直虎」を称する。
一体、直虎という「おんな城主」はどんな人物だったのか?
幼少期の「おとわ」時代から解説していこう。
※当連載は『おんな城主 直虎』の登場人物にスポットを当て、毎週一人ずつピックアップ! 来年の放送まで約27名を予定しております。

初回は主役の井伊直虎。

 

虎の目を持つ一族と呼ばれた井伊家の人々

彼女は一体、ドコでいつ生まれたのか?

井伊直虎に限らず、戦国時代の女性は、名前も年齢も分かっていないことが多い。
徳川家康の正室・築山殿ですらそうなのだから、地方の小領主に過ぎなかった井伊家の女性など、ある意味、不明で当然だ。が、それでは物語が何も進まないから、ある程度は演出を伴って物語は進んでいくのであろう。

ドラマ『おんな城主 直虎』で、直虎の幼少期は「おとわ」(柴咲コウさん)という。
おとわの生年は、許婚者の亀之丞(かめのじょう・後の井伊直親で三浦春馬さん)が1535年生まれであるため、1535±5年と推測。亀之丞にとって彼女は、年下の可愛い女の子であったとも、年上の男勝りの女の子であったとも言われている。
作家は、数ある説の中から、ストーリーに都合のいい説を選びがちだ。それがメディアを通じて広まり、いつしか「定説」となり、気がつけば「真説」として定着してしまう。さて、来年の大河ではどう描かれるか。
柴咲コウさんの気丈なイメージ、かつ三浦春馬さんの優しげな風貌からして、直虎が年上となる気がしないでもない。

いずれにせよ井伊一族には、不思議な伝承がある。
虎の目を持つ一族───というのがソレ。
「虎の目」とは、「野性的な目」と解されるが、私は「茶色の目」と解している(茶色の目の持ち主といえば、時代劇の俳優なら静岡県出身の里見浩太朗さん、アイドルなら大島優子さんや橋本環奈さん)辺りだろうか。

相手に安心感を与えて信頼される目。人を惹きつける目。魅力的な目ということであろう。

おとわの父親は、22代宗主・井伊直盛(なおもり・杉本哲太さん)である。直盛の幼名は、江戸幕府の公式文書『寛政重修諸家譜』に「虎松」とある。「虎丸」とする説もあるが、いずれにせよ、虎の目を持つ人間であったのであろう。
一方、おとわの母は、ドラマでは新野千賀(ちか・財前直見さん)となっている。新野氏は、今川氏の庶子家で、御前崎市新野の地頭(この当時の「地頭」は「領主」の意)であった。井伊家と新野氏・娘との結婚は、今川氏との結びつきを深めるための政略結婚だったとされている。
こうした両親のもと、おとわが生まれた場所は井伊谷(いいのや・静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)の井伊氏居館と伝えられている。

が、残念ながら直盛夫妻が授かった子は「おとわ」のみで、井伊家の宗主であるにも関わらず息子に恵まれなかった。
そこで20代宗主・井伊直平(なおひら・おとわの曽祖父、前田吟さん)が、
「男子が生まれなかった場合は、わしの息子の井伊直満(なおみつ・宇梶剛士さん)の子・亀之丞と、おとわを結婚させる。亀之丞に井伊家を継がせるのだ」
と決めた。

おとわが、まだ2~3歳の時だったという。

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亀之丞は信州へと亡命 出家して「次郎法師」を名乗る

「おとわ」と呼ばれていた時代、彼女は宗家の娘として、何不自由なく過ごしていた。

が、間もなく悲劇が起きる。井伊直満(亀之丞の父)が今川義元に誅殺されてしまった上に、当時のならいで息子の亀之丞(当時9歳)にも殺害命令が出されたのだ。直虎の許婚者であり、井伊家宗主候補だった亀之丞は、かくして信州へと亡命し、消息不明となってしまう。
若かりしおとわが絶望の底へ突き落とされたのは想像に難くない。
当時の女性の結婚適齢期は13歳前後と言われている。その年頃になったおとわは、なぜか自分で自分の髪を切り、大叔父の南渓瑞聞(龍潭寺二世住職の南渓和尚・小林薫さん)の元へ出向いた。
「出家したい。尼の名前を付けて欲しい」
それを聞いたおとわの両親(直盛・千賀)は驚いて、「尼の名だけは付けるな」と南渓和尚に迫ったという。両者の板挟みにあった和尚は、親の意を汲んだ「次郎」という俗名と、娘の意を汲んだ「法師」という僧名を合わせ、「次郎法師」と名付けた。
※このあたりのヤリトリは、江戸中期に祖山和尚(龍潭寺九世住職)によって書かれた『井伊家伝記』に、まるでその場にいたような描写で書かれている(末尾に原文・現代訳を掲載)

おとわが「出家したい」と考えた理由は
「(亀之丞はいつか帰ってくると信じて)愛を貫くため」
すなわち、次々と舞い込む縁談を断るためとも
「(亀之丞が死んだと信じて)いいなずけの菩提を弔うため」
とも言われている。

ドラマ風にアレンジするならば、おとわは亀之丞だけを永遠(とわ)に愛したのであった。

 

桶狭間で直盛が死んだけど、直政が生まれた

南渓和尚が付けた「次郎法師」の「次郎」という俗名は、井伊家当主が使う通称である。

つまり、「次郎法師」とは女性(尼)の名ではなく、男(僧)の名であった。この「次郎法師」と名乗っていた時期を「男として生きる準備期間であった」と位置づけている方もおられる。
亀之丞(9歳)が信州に亡命して10年後の弘治元年(1555)2月、ハタチになった亀之丞が井伊谷に帰ってきた。
ここで「次郎法師」という名が活きる。尼であれば還俗できないが、僧であれば還俗して結婚できるのである。
───次郎法師は、還俗し、亀之丞と結婚して、幸せに暮らした。
と書きたいのであるが、現実はさにあらず。彼女は、還俗をしなかった。むろん結婚もしていない。なぜか。

理由として考えられるのは、彼女の結婚適齢期を超えていたからということもあろうが、亀之丞がすでに信州で子(高瀬姫・後の彦根藩家老の川手氏の妻など)をもうけていたことにショックを受けたのであろう。
「立場が上である嫡流の彼女は愛を貫いたのに、傍流の男に裏切られた」
つまり宗家が舐められたとしてプライドを傷つけられ、還俗も結婚もしなかったのではなかろうか?と私は思う。

結局、亀之丞は直盛の養子となり、元服して直親(なおちか)を名乗った。そして、奥山氏(井伊家の庶子家)の娘・しの(奥山家文書によると実名は「おひよ」・貫地谷しほりさん)と結婚したのである。
直虎にとっては不運な運命としか言いようないが、井伊家にとっては、ひとまず跡取りが現れ、安泰。と、そんなところで歴史を揺るがす大事件が起きる。

桶狭間の戦いである。
永禄3年(1560)5月19日、直虎の父・直盛が「桶狭間の戦い」で殉死すると、母・千賀は出家して「祐椿尼」(ゆうちんに)と称し、直親が23代宗主となった。そして、翌永禄4年(1561)2月9日、新しく虎の目を持つ男の子が生まれた。
名は直盛と同じ「虎松」。後の徳川四天王・井伊直政である。歴史を知る我々からすれば、なるほどこれで井伊家の家運は上昇したのであろうか、と考えがちかもしれないが、そうは簡単には進まない。
翌永禄5年(1562)、今度は井伊直親(三浦春馬さん)が「徳川家康に内通している」として、今川忠臣の朝比奈泰朝に誅殺されてしまったのだ。
───そして井伊家には成人男性がいなくなった。

 

井伊谷では「静の直虎・動の直政」と対比される

井伊家が消滅する。
そう思われたが、1つの望みはあった。虎松である。次郎法師は、還俗して「井伊次郎直虎」と名を変え、虎松の後見人となった。
「女城主・井伊直虎」の誕生である。
その名に恥じない武将として、『彼女はさぞかし勇ましい男として生きたのだろう』と考えられがちだが、地元・井伊谷では「女地頭・次郎法師」と呼ばれ、物静かで優しい女性だったと伝わっている。
「静の直虎・動の直政」と対比されるほどで、ドラマではどう描かれるか楽しみの一つだ。

井伊谷宮の絵馬の直虎

井伊谷宮の絵馬の直虎

実際、彼女が「女城主」だった頃には、幸いなことに大きな戦いもなく、「女武将」としての勇ましい手腕は未知数だ。
むしろ「女地頭」「女領主」としての内政能力のほうが高く評価され、土地訴訟の解決や新田開発に力を入れた。
地味な話ではあるが、直虎最大の功績は、今川氏真が永禄9年(1566)に出した「井伊谷徳政令」を2年間凍結したことであるとされる。

ただし、永禄11年(1568)11月9日に徳政令を施行すると、地頭職を解かれてしまい、さらに命まで狙われるようになった。そこで直虎は尼となって「祐圓尼」(ゆうえんに・「圓」は「円」の旧字体)と名乗り、実母の祐椿尼(ゆうちんに)と共に龍潭寺に入った。
後の井伊直政である虎松は鳳来寺へ。また、時をおいて虎松の実母・しのは、徳川家臣・松下源太郎清景(きよかげ)と再婚した。

 

「日本最強の赤備え」山県隊が井伊谷に襲いかかる

直虎の地頭解任後、家老であった小野政次(高橋一生さん)が地頭に任命された。
が、その期間は短く、わずか1ヶ月。永禄11年(1568)12月に徳川家康(阿部サダヲさん)が三河国から侵攻してきたのだ。旧井伊領は徳川氏に寝返った「井伊谷三人衆」のものとなり、小野政次は家康によって処刑された。

おんな城主直虎人物伝1-2

龍潭寺へ奉納された井伊直虎座像

その後、家康の遠江侵攻を阻む戦いが、堀川城(気賀)や、堀江城(舘山寺)で行われ、井伊谷衆は、徳川方として戦った。
祐圓尼は、これらの戦いには参加していない。合戦によって多くの死者が出て、各地で葬儀が重なったにも関わらず、僧侶自身も戦いで多くが亡くなってしまい、南渓和尚と祐圓尼が葬式のために回ったことが『南渓過去帳』から窺い知れる。

そして元亀3年(1572)、武田軍が遠江国に侵攻すると、12月22日、徳川軍と衝突。三方ヶ原の戦いと呼ばれる激戦で武田軍が勝利をおさめ、旧井伊領はそのまま武田領となった。
武田軍は、旧井伊領刑部で越年すると、翌年1月3日には「日本最強の赤備え」と恐れられた山県隊が井伊谷に襲いかかった。この時、龍潭寺は全焼。後日、武田信玄が死ぬと、旧井伊領は家康が奪い返し、再び井伊谷三人衆の領地となる。

天正2年(1574)12月14日、井伊直親の13回忌法要に、後の井伊直政・虎松が鳳来寺から龍潭寺へやって来た。実母・しの、南渓和尚、祐圓尼(直虎)、祐椿尼(直虎の実母)の話し合いにより、虎松は鳳来寺へ帰さず、しのの再婚相手・松下清景の養子とした。
「松下虎松」の誕生は、すなわち約600年続いた名門・井伊家が途絶えたかのように見えた。が、彼等の狙いはそうではなかった。

松下虎松の将来について、しの、南渓和尚、祐圓尼、祐椿尼たちは、
───徳川家康に引き合わせ、仕官させよう。
ということになったのだった。祐圓尼は、家康と対面させるために着物を縫い、遠くからでも目立つように四神旗を作ったという。

そして天正3年(1575)2月15日、鷹狩に出た家康は、首尾よく虎松を見つけると……
───こやつ虎の目を持っておる。はて、どこかで見たような?
と、浜松城へ連れて帰り、身元を聞いて納得した。徳川に寝返ろうとして討たれた直親の子であり、桶狭間の戦いでは共に先鋒を務めた直盛の孫(直親は直盛の養子)であると知り、
───取り立てずんば叶わじ(召し抱えないわけにはいかない)
として、虎松を小姓にし、「井伊」の復姓を許して「井伊万千代」と名付けたのだ。所領は300石。後の井伊家大躍進から見ればまだまだ小さな石高であったが、ともかく井伊家は、家康のおかげで絶えずに済んだのである。祐圓尼は喜んだ。

 

時には男として生き、生涯未婚 早すぎる死を……

万千代の仕官後、祐圓尼は、愛した人の子の出世を祈り続けた。

彼女の祈りは届いたのであろう。天正10年(1582)6月2日の本能寺の変に続く「神君伊賀越え」では、万千代も功績をあげ、家康から「孔雀の陣羽織」を賜るなど順調に出世していった。それに安心したのか、同天正10年(1582)8月26日、祐圓尼は、龍潭寺の松岳院で南渓和尚に看取られながら、静かに息を引き取った。
病魔に侵され早すぎる最期ではあったが、死に顔は穏やかであったという。

井伊家を虎松(万千代→井伊直政)に引き継いだ女性は、時には男として生き、生涯未婚であった。享年は不明だが、母・祐椿尼の死から4年後であることから早逝であることは明らかであり、当時の平均寿命50歳には程遠かったとと考えられている。

位牌と墓は、彼女の戒名「妙雲院殿月舩祐圓大姉」にちなんで「妙雲寺」と改名された菩提寺の自耕庵にある。

「徳川四天王 井伊直政公出世之地」碑

「徳川四天王 井伊直政公出世之地」碑

平成19年(2007)、彦根城築城四百年記念祭に合わせて、龍潭寺の境内に「徳川四天王 井伊直政公出世之地」碑が建てられた。まるで、龍潭寺での祐圓尼の祈りのおかげで、直政が出世できたと言わんばかりのその佇まい。

徳川家康は、約17年間、遠江国(浜松)で過ごし、その間、遠州(遠江国のこと)の多くの武将が家康の軍門に下ったが、「徳川二十八神将」に選ばれた遠州人は、井伊直政、只一人である。

直政の出世はさほどに異例であり、神がかっていたとしか言いようが無く、彼自身の努力の賜物であることは間違いないが、「井伊」という名門の血、人を魅了する虎の目、そして、祐圓尼の祈りが、出世に無関係だったとは言い切れない。

なお、井伊直虎や同家の歴史についてより詳細を知りたい方は以下の記事をご参照あれ。

 

おんな城主直虎 登場人物の史実解説&キャスト!

井伊直虎(柴咲コウさん)
井伊直盛(杉本哲太さん)
新野千賀(財前直見さん)
井伊直平(前田吟さん)
南渓和尚(小林薫さん)
井伊直親(三浦春馬さん)
小野政次(高橋一生さん)
しの(貫地谷しほりさん)
瀬戸方久(ムロツヨシさん)
井伊直満(宇梶剛士さん)
小野政直(吹越満さん)
新野左馬助(苅谷俊介さん)
奥山朝利(でんでんさん)
中野直由(筧利夫さん)
龍宮小僧(ナレ・中村梅雀さん)
今川義元(春風亭昇太さん)
今川氏真(尾上松也さん)
織田信長(市川海老蔵さん)
寿桂尼(浅丘ルリ子さん)
竹千代(徳川家康・阿部サダヲさん)
築山殿(瀬名姫)(菜々緒さん)
井伊直政(菅田将暉さん)
傑山宗俊(市原隼人さん)
番外編 井伊直虎男性説
昊天宗建(小松和重さん)
佐名と関口親永(花總まりさん)
高瀬姫(高橋ひかるさん)
松下常慶(和田正人さん)
松下清景
今村藤七郎(芹澤興人さん)
㉙僧・守源

 

著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派。今後、全31回予定で「おんな城主 直虎 人物事典」を連載する。

自らも電子書籍を発行しており、代表作は『遠江井伊氏』『井伊直虎入門』『井伊直虎の十大秘密』の“直虎三部作”など。
公式サイトは「Sengoku Mirai’s 直虎の城」
https://naotora.amebaownd.com/
Sengoku Mirai s 直虎の城

『井伊家伝記』「井伊信濃守直盛公息女次郎法師遁世の事、並びに、次郎法師と申す名の事」

【書き下し文】一 井伊信濃守直盛公息女壱人之。両親御心入には、時節を以て亀之丞を養子に成され、次郎法師と夫婦に成さる可く、御約束し候所に、亀之丞、信州え落ち行き候故、御菩提の心深く思し召し、南渓和尚の弟子に御成り成され、剃髪成され候。両親、御なけきにて、「一度は亀之丞と夫婦に成さる可くに、様を替え候とて、尼の名をば付け申すまじき」旨、南渓和尚え仰せ渡され候故、次郎法師は、「最早出家に成り申し候上は、是非に尼の名、付け申し度」と、親子の間、黙止難く、備中、次郎と申す名は、井伊家惣領の名、次郎法師は女にこそあれ、井伊家惣領に生まれ候間、僧侶の名を兼ねて次郎法師とは是非無く、南渓和尚御付け成され候名なり。右次郎法師は、井伊肥後守直親傷害の後、直政公未だ幼年故、井伊家領地地頭職御勤め成され候。(井伊近所瀬戸村保久に下され候権現様御判物に次郎法師、並びに、主水之助一筆明鏡の上と申す御文言之あり。)永禄八年乙丑、直政五歳の節、寄進状御認め、南渓和尚え御渡し成され候。その節、地頭御勤め故、寄進状に次郎法師名、判、之あり。次郎法師は、直政公の実の叔母にて養母故、直政公御幼年の中より御世話成され候。殊更、天正三年、権現様え御出勤の節、御衣裳等迄御仕立遣わされ候。龍潭寺中松岳院と申す庵に御老母祐椿尼公一所御座成され候。天正十年午の八月廿六日に御遠行。法名 妙雲院殿月船祐円大姉。



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【現代語訳】井伊信濃守直盛公には一人の娘がいた。両親の「心入り」(計らい)は、その時が来たら、亀之丞を養子に迎えて、次郎法師と夫婦にしようというもので、その約束もしていたが、亀之丞が信濃国へ落ち延びたので、「菩提心」(仏に入る心、発心)が深まり、南渓和尚の弟子におなりになられ、髪を切られたので、両親は嘆いて、「一度は亀之丞と夫婦にしようとしたのに、このような姿になってしまったが、尼の名は付けないように」と南渓和尚に仰せつけられた。次郎法師は、「もう出家したのだから、ぜひとも尼の名を付けて下さい」と申し出た。この親子の対立を「黙止」(黙ったままでいる事)することが出来なかったので、(困った南渓和尚は、両者の言い分の折衷案として、)「次郎法師」と名付けた。「備中」や「次郎」という名は、井伊家の惣領(宗主)の通称であり、次郎法師は女ではあったが、井伊家の惣領家に生まれたので、僧侶としての名を兼ねて、「次郎法師」とやむを得ず(親子共の双方が納得する苦肉の策として)南渓和尚付けた名である。この次郎法師は、亀之丞、後の井肥後守直親が殺された後、井伊直政公がまだ幼かったので、井伊領の地頭となられた。(井伊領の近くの瀬戸村(現在の静岡県浜松市北区細江町瀬戸)の瀬戸方久に下された徳川家康公の判物に「地頭の次郎法師、並びに、井伊主水佑の一筆で明瞭である」という文言がある。)永禄8年(1565)9月15日、井伊直政が五歳の時、(次郎法師は)龍潭寺に寄進状を発給し、南渓和尚に渡している。その時は(次郎法師が)地頭職にあったので、寄進状には(井伊直政ではなく)次郎法師の署名と判がある。この次郎法師は、井伊直政公の(父親が、次郎法師の父親の養子になったので)実の叔母であり、養母でもあったので、井伊直政公が幼い頃から世話をされてきた。特に、天正3年(1582)、徳川家康公とご対面する時には、その時の物などをお仕立てになられた。龍潭寺の境内にある(祐椿尼の戒名「松岳院殿寿窓祐椿大姉」による)松岳院という塔頭に老母である祐椿尼公と一緒に住んでおられたが、天正10年(1582)8月26日に亡くなられた。戒名は「妙雲院殿月舩祐円大姉」である。

 

 

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