日本初の歴史・戦国ポータルサイト

BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)

スポンサーリンク



おんな城主直虎特集 井伊家 徳川家

謎の山伏・松下常慶(安綱)とは? 家康のボディガードも務めたれっきとした武士【おんな城主 直虎人物事典㉖】

更新日:

 

「おんな城主 直虎」に登場する謎の山伏・松下常慶(じょうけい)
ドラマ上では俳優の和田正人さんが演じておられ、山伏姿となって情報収集に努めている。その姿、なんとも怪しげ。いったい彼は史実上ではどのような人物であったのか? あるいは架空のキャラクターなのか?
シリーズ「おんな城主 直虎」人物事典の第26回は、この松下常慶にスポットを当てたい。

 

白山信仰の修験者を経て家康の家臣に

松下常慶は、松下安綱とも言い、永禄元年(1558年)、遠江国に生まれた。没年は寛永元年(1624年)で享年66。当時としてはかなりの長生きであろう。

常慶はもともと、加賀から美濃を中心に全国へ広まった「白山信仰」の修験者で、二諦坊の住職だったという。年齢を考えるといささか不思議な部分もあるが、いずれにせよ徳川家康の目に留まり、浜松城在城時代は陣中に置かれて加持祈祷をしたり、兵糧の運搬等に従事した。
慶長8年(1603年)には引佐郡(旧・井伊領)の代官に任命された。刑部郷新谷(浜松市北区細江町中川新谷)に住み、「刑部城最後の城主」として名を残している。また、浜松市の新谷にある宗安寺の遠州七不思議「三度栗」(1年に3回実る栗)は、「常慶の三度栗」として、江戸幕府に毎年献上されていたという。

が、引佐郡の代官だった期間は短い。
計算が得意なことから程なくして勘定頭(勘定奉行)に抜擢され、「算盤常慶」とも呼ばれた。こうした得意分野の租税の他に、厨房や土木関連の仕事も手がけていたそうで、派手な武功は見当たらないながら、裏方としては非常に多才だったことが窺える。さしずめ石田三成の縮小版と言ったところか。
そのために家康の信頼度も相当に高かったのであろう。貞慶は「奥勤」にも任ぜられていた。「奥勤」とは家康のボディガードのことであり、首を狙って寝所に忍び入った丹波忍者の石川某を追い払った話は有名である。この殊勲が評価された故か、子孫は火付盗賊改方勤務になっている。

 

スポンサーリンク

性格を端的に表す「漬物塩加減」のエピソード

松下常慶で最も有名なエピソードは、「駿府城の東御門(通称:浄慶御門)」と、「漬物の塩加減」である。

東御門(浄慶御門)案内板(駿府城)

常慶は、なんとこの東御門をわずか10日間で完成させ、家康から褒美として城下町の一区画を与えられた。
これが「常慶町」(現在の静岡市葵区常磐町2丁目)である。

東御門には派手な逸話もあり、徳川家康の首を狙った石川五右衛門が身を隠したとされ、松下常慶が見つけると、空を飛んで逃げたという。
おそらくコチラは、前述の「丹波忍者取り逃がすも主君を救った」という話を元にした創作であろう。

もう一つのエピソード「漬物の塩加減」は、常慶の性格を表すようで中々に興味深い。
あるとき駿府城の奥女中らが「漬物が塩辛すぎるので、塩を控えるよう台所奉行の松下常慶に言って欲しい」と家康に直訴され、このとき常慶は次のように答えた。
「今の辛さでも漬物の消費量が多い。程よい塩加減にしたらさらに消費量が増え、財政負担が大きくなる」
漬物のエピソードは『東照宮御實紀』や『駿河土產』、『岩淵夜話别集』にも掲載されていて、よほど話題にでもなったのであろうか。以下に『東照宮御實紀』からの原文を掲載させていただく。

「駿府にて若き女房達よりこぞりて、「あの常慶坊ほど情なくにくき者はなし」と口々にそしり居たりしを、つとさし覗かせたまひ、年たけし女房をめし、「若き女共は何ゆへに常慶をにくさげにそしるぞ」と仰られしかば、かの女房聞へ上るは、「されば外の事にても候はず、御厨より日々送りこし候淺漬の香物、あまりに鹽辛くて老若ども給かね候へば、「今少し鹽をか ろく漬候やういたしたし」と御厨方へ申送るといへども、常慶さらに其詞を用ひず、今に鹽からく漬候ゆへ、朝夕に給り候ものたべかね候て、常慶をそしり候」と申ければ、「そは女 共の憤るも理りなり。常慶にそのむね命ずべきなり」と仰られしが、やがて外殿に出給ひ常慶をめして、「厨所にて朝夕用ゆる味噌香物、鹽から過て女房等食し兼るよし聞ゆれば、此後は今少し鹽をかろくいたし候へ」と仰られしかば、常慶つゝしんで承り、そのまゝ御傍にすゝみより何かひそかにさゝやきしに、御笑ましましとかくの仰もなし。常慶は退き出ぬ。御側にまかりし人々、此樣を見あやしがりて、「只今は何事をひそかに申上て上にも御笑ひありしにや」と問ければ、常慶、「さればその事に候。各方も聞給ひしごとく、淺漬大根の鹽をかるく仕候へとの仰に候。今のごとく鹽辛く漬させ候てさへ朝夕の用おびたゞしきものを、女房達の好みのごとく鹽加减いたし候はゞ、何ほどの費用に及ぶべきもはかりがたし。女房達の申詞など聞しめさぬ樣にわたらせ給ふこそ然るべけれ」と申上しなりと答へしとぞ。此常慶といふ者、本氏は松下にて、藏主安綱と稱し、はじめ濵松の二諦坊の住職にてありしが、天性賦稅の事に精しければ、駿府租稅の事を司り、御厨の事をも沙汰し、年久しくつかへたる老人にて、今も松下といへる御家人は此坊が後胤なり。」(『東照宮御實紀』附錄卷十九)

 

武士として修験者として、史料も混乱している

『井伊家伝記』で、松下常慶のことは如何に記されているか?
原文と現代語訳を併記したので、ご興味おありの方は原文にもチャレンジくだされ(もちろん訳からお読みいただいてもOK)。あるいは引用・現代語訳の後に、その内容をまとめさせていただいたので、そこからお読みいただいても。

◆「松下常慶、権現様へ早追に参り候事」
原文: 松下常慶と申候ハ松下家之武士にて候得共、其節ハ、國之物見之為ニ、遠州秋葉山之札杯く者゛り濱松に住宅仕候。三州江も数度参候て、案内存候故、江間加賀、常慶を密に招き、相談申候ハ、兄常陸、「此城を信玄江可渡」と之内通ハ無思案なり。其子細ハ、信玄、只今、駿府を攻取可申支度最中也。然上ハ、駿府を差置候て、當城江人数を遣申道理なし。家康公者、近年、氏真江も不随候て、尾州信長と一味同心被成候故、氏真之領分三河をハ大方手ニ入、遠州發向之心掛承及、家康公さへ當城江御入候得者゛、三州ハ勿論、尾州信長迄も後詰ニ持申候故、駿府氏真と挑合ニ勢強し。若、氏真より今にも城請取に人数を遣申候てハ後悔無益なり。兎角に案内手引ハ加賀可致候、片時も早ク家康公より人数被遣、當城を御乗可被成旨、常慶に申含候所ニ常慶得心仕候て、三州岡﨑江早追ニ参候。右常慶ハ、夫レゟ権現様格別御内意を被仰聞、態と山伏之様ニ方々江物見ニ被遣候。依之、濱松有之秋葉権現様、常慶ニ被仰付勧請なり。扨、常慶ハ、右之御奉公故、引佐郡之御代官を被仰付、手代・松下勘左衛門、角岡仁左衛門、山内新左衛門、三人ニ一郡を割、支配を申付、其身ハ物見杯相勤、方々江参候。當國ハ勿論、駿府江権現様御引越之節罷越住宅申候故、常慶屋敷と申、今以相残有之なり。
現代語訳:松下常慶というのは、松下家の武士には違いないが、その時は、各国の物見(敵情視察)のために、遠江国の秋葉山(現在は静岡県浜松市天竜区春野町領家の秋葉山本宮秋葉神社が有名であるが、当時は、秋葉寺を指した)の札などを配り、浜松に住んでいた。三河国(愛知県東部地方。ここでは、岡崎市の徳川家康のこと)へも数度行ったことがあり、徳川家康とは顔見知りであったので、(今川氏から徳川氏に乗り換えようと思っていた引間城家老の)江馬加賀守時成は、松下常慶を密かに招き、相談した内容は、「兄の江馬安芸守泰顕は、「この引間城を武田信玄に渡すべきだ」として、武田方に内通しているが、これは思慮が足りない。その理由を詳しく言えば、武田信玄は、今は、駿府を攻め取ろうとして支度している最中であり、駿府を差し置いて、当・引間城を攻めてくることは有り得ない。(これに対して)徳川家康公は、近年は、今川氏真に従わず、尾張国(愛知県西部地方)の織田信長と同盟を組んで、今川氏真の領地であった三河国をほぼ手に入れ、遠江国(静岡県西部地方)に侵攻しようとしている。徳川家康公が当・引間城へお入り下されば、三河国は勿論、(その更に西に位置する徳川家康の同盟者である)尾張国の織田信長までもが後詰(後方支援部隊)になるので、駿府の今川氏真と挑み合い(戦い)に勢い付くというものである。もし、今川氏真が、今、引間城の受け取りに軍勢を率いてきたら、(引間城の城兵だけでは力不足で、城を今川氏に明け渡すしかないので、私にとっても、家康公にとっても)後悔ばかりで利益が無い。とにかく、案内や手引は、この江馬加賀守時成がするので、片時も早く(今すぐに)、徳川家康公におかれては、軍勢を率いて、当・引間城を乗っ取られよ」というものであった。松下常慶は、「心得た(承知した)」と、三河国の岡﨑へ早速、急いで向かった。この松下常慶は、この時から、徳川家康より格別な内意(密命)を仰せつけられて、わざと山伏姿に変装して、方々へ物見(敵情視察)に派遣された。この縁で、浜松にある秋葉権現社(現在の静岡県浜松市中区三組町の浜松秋葉神社)は、徳川家康公が松下常慶に仰せ付けられて勧請した神社である。さて、松下常慶は、このように活躍したので、引佐郡の代官を仰せ付けられた。そこで、手代(代官の下役)として、松下勘左衛門、角岡仁左衛門、山内新左衛門の三人へ引佐郡を分割して支配するよう申し付けておいて、自分は物見等を勤め、方々へ出向いて行った。(徳川家康が)当・遠江国(の浜松城)にいた時は勿論、仕えていたが、駿河国駿府(現在の静岡県静岡市の駿府城)へ徳川家康公が移られた時には、駿府に家を建てて移り住んで仕えた。その家は「常慶屋敷」(旧・静岡市常慶町、現・静岡市葵区常磐町2丁目)と呼ばれ、今もある。(現在は教覚寺となっている。教覚寺の公式サイトに「17世紀初め、第9代乗念の時に府中桶屋町(静岡市)に移った教覚寺は、元和2年(1616)第10代乗真の時、徳川家康公の死去に伴い江戸に移っていった家臣松下常慶の屋敷を譲り受けて、現在の地に移転しました。それにちなんで、昭和20年までは町名を「常慶町」と呼び、教覚寺境内地だけで一町内という珍しい町でした。」とある。)

駿府城下町・常慶丁(地図記載名)

◆「権現様、三州岡崎より遠州浜松へ御出馬の事」
原文:永禄十一年、松下常慶を早追にて三州岡崎江参、江間加賀内通之委細、逐一言上申し候所ニ、(中略)御人數二千人、松下常慶を案内として、山路を踏分、昼夜もみ立て、遠州井伊谷迄御出被成候事。
現代語訳:永禄十一年(一五六八)、松下常慶は、急いで三河国岡崎(徳川家康の居城である愛知県岡崎市の岡崎城)へ参じ、(引間城の)江馬加賀守時成の徳川方への内通の詳細を逐一報告すると、(中略)兵数二千人の軍勢が、松下常慶を案内役として山道を踏み分け、昼夜を問わず(細い道を)揉み合うように進んで、遠江国井伊谷まで達した。

◆「城内で飯尾豊前が妻、働の事」
原文:城内両人之家老、打果といへとも、降参之底ニも相見不申候故、権現様ゟ松下常慶、後藤太郎左衛門を以(後略)
現代語訳:引馬城内では、二人の家老が討ち果てたとはいえ、降参する様子が見えなかったので、徳川家康は、松下常慶と後藤太郎左衛門を使者(軍使)として送り(後略)

◆マトメ箇条書き
①松下常慶は、松下家の武士である。
②山伏姿で、秋葉山の札配りをしながら諸国の情報を集めていた。
③引間城の状況を岡崎の徳川家康に伝えた。
④引間城の家老・江馬時成は、松下常慶を通して徳川家康と繋がっていた。
⑤徳川家康の遠江侵攻時、松下常慶が道案内をした。
⑥引間城の無血開城の使者を後藤と共に勤めた。
⑦徳川家康は、浜松で松下常慶に秋葉神社を建てさせた。
⑧徳川家康は、松下常慶を引佐郡の代官にした。
⑨徳川家康が駿府(静岡県静岡市)へ移ると、松下常慶も駿府に移り住んだ。

結論から先に申し上げると、上記文の内容は、数名の業績が混乱していると思われる。
その対象は以下の3名+1グループであり、
・松下安綱(蔵主、浄慶、常慶、笑安)
・松下源太郎(清景、不全、不善、不染)
・叶坊浄全(加納坊、茂林光幡)
・井伊谷三人衆(近藤康用・菅沼忠久・鈴木重時)
なぜ、こんなことになってしまったのか?
おそらくや常慶には、武士(代官、台所奉行、作事奉行、勘定奉行、奥勤)としての顔と、修験者(二諦坊の住職、白山先達職)としての顔があり、混乱をきたしたのであろう。

そのうち①⑧⑨は松下常慶(武士)としての顔で、記述の通り。ほかは正しくは、②⑦が叶坊浄全のこと、③④⑥は松下與右衛門、⑤は井伊谷三人衆の業績である。

 

浜松の二諦坊は本称寺の隣にあった

ここで前述の『東照宮御實紀』に注目していただきたい。該当箇所は
「常慶といふ者、本氏は松下にて、藏主安綱と稱し、はじめ濵松の二諦坊の住職にてありしが、天性賦稅の事に精しければ、駿府租稅の事を司り、御厨の事をも沙汰し、年久しくつかへたる老人にて、今も松下といへる御家人は此坊が後胤なり。」
の「濵松の二諦坊(にたいぼう)」である。
二諦坊(白山宮、甚教院)は、本称寺(浜松市中区元魚町)の西隣にあった。

本称寺の西隣にあった二諦坊(白山社)

慶長11年(1606)の白山宮の鰐口の銘に「遠江国敷知郡浜松庄鴨江寺白山之宮別当二諦坊法印一笑」とあることから、二諦坊は、鴨江寺の鎮守神・白山宮の別当寺であると考えられている。
はじめ松下常慶は「加賀白山の大先達」と称し、二諦坊の住職を勤めていたという。
二諦坊の住職は、修験道の聖地・鳳閣寺(宇多天皇の勅願寺・奈良県吉野郡黒滝村)の住職が兼務したので、松下常慶(藏主)は代僧であろう。
松下常慶(笑安)の跡を継いだのが一笑か?

 

家康の遠江侵攻を助けたのは誰?

徳川家康の遠江侵攻時に活躍したのも松下常慶だという。
上記⑥について『濱松御在城記』に次のようにある。

「一説、濱松ヲハ豊前守後室抱之付、権現様より後藤太郎左衛門、松下與右衛門ヲ御使ニ被成、城を開渡スヘシ(後略)」
現代語訳:引間城は、城主も家老も死んで、まとめ役がいなかったと思われるが、一説に城主の妻(お田鶴の方)が城主となっていて、徳川家康は、後藤と松下與右衛門を使者として送り、無血開城をするよう伝えたが、拒否されたので戦いとなった。

松下與右衛門は『今村家伝記』にも出てくる人物で松下常慶のこととされるが、どうにも『今村家伝記』と『井伊家伝記』の著者である祖山和尚の思い込みのように思えてならない。
というのも、徳川家康が遠江国に侵攻したのは、永禄11年(1568)12月のことであり、このとき永禄元年(1558)生まれの松下常慶は元服前の10歳だった。まだ若年の身で、岡崎の徳川家康との連絡役や道案内役、引間城の家老との連絡役が出来たとは到底思えない。

おそらくや岡崎の徳川家康との連絡役は叶坊浄全で、道案内役は井伊谷三人衆であろう。
そして、引間城の家老との連絡役は松下與右衛門である。松下與右衛門の正体は、常慶より年上の人物であり、『今村家伝記』には以下のような記述が見られる。
「松下與右衛門は井伊直平に仕え、松下清景は若輩者なので井伊直盛の近習となり」
ここから察するに常慶の兄・松下清景(天文14年・1545年生まれ)より年上の人物と考えられる。
たとえば、頭陀寺の寺侍と考えられている親戚の松下加兵衛之綱(天文6年(1537)生まれ)であれば、引間城主・飯尾連龍の家臣であったので引間城の情勢には詳しいが、『今村家伝記』がいうように井伊直平の家臣になったとは思えない。
『井伊家伝記』では、飯尾連龍を井伊直平の家老としているので、飯尾連龍の家臣は井伊直平の家臣とも言えるのであるが。「謎の山伏・松下常慶」の謎はまだ残されたままである。

 

松下氏の起源について

最後に、松下家の起源について見てみよう。
松下氏の遠祖は宇多天皇で、氏祖を敦実親王(宇多天皇の御子)とする宇多源氏流だという。
佐々木氏綱の子・高長が元応元年(1319年)頃、三河国碧海郡西条庄佐々木郷松下村(現・愛知県豊田市上郷町松下)に移って「松下」を称した。その後、遠江国城飼郡笠原庄平川村(現・静岡県菊川市上平川・下平川)に住み、還俗して「遠州松下氏の祖」となったが、後に三河国松下村に戻る。

松下村の昌福寺(正福寺)跡

宇多天皇─敦実親王・・・佐々木氏綱─松下高長(遠州松下氏の祖)
「高長、始、山門之衆徒ニ御座候所、明徳三年壬申十月二日 南朝、北朝御和睦之時、高長、南朝方ニ属シ、遠州笠原之内ニテ還俗。ソノ後、三州碧海郡松下ノ所ニ退居仕、松下ヲ以家名仕候。」(『松下系図』)

しかし、一族の中には三河国に戻らず、遠江国に留まっている者もいて、
①山名郡浅羽郷松下村(現・袋井市浅名。「松下屋敷」があった場所なので、村名を「松下」としたという。小笠原氏の馬伏塚城の西。「松下屋敷」は西ヶ崎にあったとも)
②敷智郡市場村(現・浜松市南区頭陀寺町)
などに分かれて土着したという。
静岡県菊川市西方字堀田にある「堀田城」の別名が「松下城」であり、そこにも松下氏が住んでいたという話がある。
なお、平川村には永正10年(1513)、今川氏親の命で松井宗能が「提城」(菊川市下平川)に入ったが、翌年、今川氏親の命で、二俣氏に変わって二俣城(浜松市天竜区二俣町二俣)に入ったという。

おんな城主直虎 登場人物の史実解説&キャスト!

井伊直虎(柴咲コウさん)
井伊直盛(杉本哲太さん)
新野千賀(財前直見さん)
井伊直平(前田吟さん)
南渓和尚(小林薫さん)
井伊直親(三浦春馬さん)
小野政次(高橋一生さん)
しの(貫地谷しほりさん)
瀬戸方久(ムロツヨシさん)
井伊直満(宇梶剛士さん)
小野政直(吹越満さん)
新野左馬助(苅谷俊介さん)
奥山朝利(でんでんさん)
中野直由(筧利夫さん)
龍宮小僧(ナレ・中村梅雀さん)
今川義元(春風亭昇太さん)
今川氏真(尾上松也さん)
織田信長(市川海老蔵さん)
寿桂尼(浅丘ルリ子さん)
竹千代(徳川家康・阿部サダヲさん)
築山殿(瀬名姫)(菜々緒さん)
井伊直政(菅田将暉さん)
傑山宗俊(市原隼人さん)
番外編 井伊直虎男性説
昊天宗建(小松和重さん)
佐名と関口親永(花總まりさん)
高瀬姫(高橋ひかるさん)
松下常慶(和田正人さん)
松下清景
今村藤七郎(芹澤興人さん)
㉙僧・守源

 



スポンサーリンク

スポンサーリンク

著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派。今後、全31回予定で「おんな城主 直虎 人物事典」を連載する。

自らも電子書籍を発行しており、代表作は『遠江井伊氏』『井伊直虎入門』『井伊直虎の十大秘密』の“直虎三部作”など。
公式サイトは「Sengoku Mirai’s 直虎の城」
https://naotora.amebaownd.com/
Sengoku Mirai s 直虎の城

意外と優しい!? 織田信長さん



生誕450周年!伊達政宗さんの生涯



毛利元就はナゼ一代で中国地方の覇者となれた?


井伊直虎の生涯46年をスッキリ解説!



武将ジャパン・TOPページへ戻る



スポンサーリンク

-おんな城主直虎特集, 井伊家, 徳川家

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2017 AllRights Reserved.