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【艦これブログ】第121隻 資源備蓄中で暇だったので、「まるゆ」ん家、行ってきたった!

更新日:

 

イベントに備え、完全に備蓄モードに入った我が司令部ですが、皆様はいかがお過ごしでしょうか。最近はデイリー、ウィークリーの任務をこなすだけの日々。このままではお尻にカビが生えてしまうので、心機一転、バイクを引っ張り出して愛媛県・松山市(俺提督の司令部の所在地)から伊予三島まででかけてみました。

この伊予三島には"決戦兵器"「まるゆ」さまの部隊がいたのだそうですよ?

 

伊予三島ってどこよ?

地元のイメージダウンにしかなっていないのではないかと囁かれているゆるキャラ「しこちゅ~」。“しこ”だけにティッシュペーパーを常備している……たぶんブランドは「エリエール」でしょう

地元のイメージダウンにしかなっていないのではないかと囁かれているゆるキャラ「しこちゅ~」。“しこ”だけにティッシュペーパーを常備している……たぶんブランドは「エリエール」でしょう

 

伊予三島は、カジノで大損した御曹司で有名な製紙会社のある「紙の街」です。平成の大合併で「四国中央市」なんていう無味乾燥な名前になってしまっていますが、古代、このあたりは「宇摩(宇麻)」と呼ばれていました。

場所は……四国になじみのないヒトにはわからないと思うので、地図を貼ってみました。

艦これブログオレの娘は不沈艦20150715-2

愛媛県の最東端にして四国のほぼ中央に位置し、徳島県、香川県、高知県と境を接しています。四国の高速道路が交差する、兵法でいうところの「衢地(くち)」ですね。もっとも、これはトンネルを掘りまくって作った新しい道で、古い道や鉄道はもう少し東側の三好市(あの三好氏発祥の地です!)で交差しているのですが。

さて、宇摩郡は709年(和銅2年)の「河内国古市郡西林寺事」という古文書に「伊予国宇麻郡常里」とあるのが初見で、奈良時代には伊予の有力豪族・越智氏(ちなみに愛媛には「越智さん」がやたら多かったりします)の越智玉澄がここに大山祇神社(主祭神・オオヤマヅミ)から勧請して三島神社を建てました。

オオヤマヅミは海と山の神さまで、伊豆の三嶋大社とも繋がりがあります。越智玉澄という人は、白村江の戦いの折り、伊予水軍を率いて出陣した(とされる)越智守興の子。オオヤマヅミは日本を守る水軍の神さまでもあり(軽巡「天龍」の艦内神社も大山祇神社から勧請したそうです)、越智氏は代々オオヤマヅミの神を大事にしてきました。

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ちなみに、なぜ越智玉澄さんがわざわざこんなところに立派な神社を建てたからと言うと、ジジイになって足腰が立たなくなったので、大山祇神社まで詣でるのがメンドくさくなったからです(ぉ

この越智玉澄さんは、伊予国風早郡河野郷(今の松山市)に居を構えたことから河野玉澄とも呼ばれました。伊予河野氏の始まりです(宇麻郡は彼の隠居地だったのでしょうかね?)。

河野玉澄の後裔には、治承・寿永の乱(源平合戦)で源氏に味方をし(四国はそれまで平家一色でした!)、壇ノ浦の戦いにも参加した河野通信、元寇で活躍し、日本版「背水の陣」である「河野の後築地(うしろついじ)」で知られる勇将河野通有などがいます。また、その子孫は室町幕府で伊予の守護も務めました。のちの村上水軍も越智氏・河野氏の流れをくんでいると言われています。

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――とはいえ、宇摩郡三島自体は小さな村で、三島神社がある以外はとくに取り柄のある土地でもなかったようです。終戦間際、そんなさびれた漁村に突如大挙してやってきたのが、「まるゆ」の部隊でした。

 

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「まるゆ」部隊と伊予三島

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艦これの提督方に「まるゆ」が何たるかを今さら説明する必要はないでしょう。手短に言えば、

「海軍がちゃんと物資を補給してくれねえからガダルカナル島で負けたじゃねえか!」

と激おこプンプン丸だった陸軍が、なけなしの総力を挙げて極秘開発した“潜航輸送艇”が「まるゆ」です。

「まるゆ」は建造するのも一苦労でしたが(その話も面白いのですが割愛)、それと同じぐらい大変だったのが兵員の教育でした。なんせ教える側もフネになぞ乗ったことがないのがほとんどで、しかも海軍で5年はかかる潜水艦乗組員の教育を三カ月でやろう(でなければ物資を輸送する先の南洋がことごとく失陥してしまいます!)と言うのだから滅茶苦茶ですよね。

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その教育部隊が置かれたのが、この伊予三島でした。部隊の本部は「伊予三島駅から海岸へ向かう大通りの先にあった富士紡績工場(昭和17年(1942)3月から休業)を接収した建物」に置かれていたとのこと。

終戦時の規模は将校407人、准士官・下士官823人、兵2244人の計3474人。およそ戦時編成の1個連隊規模の兵力(?)に、16隻の「まるゆ」が所属していました。「まるゆ」は38隻作られたので、だいたい半分ぐらいはココにいたことになりますね。

とはいえ、すでに資源が枯渇し、本土空襲を迎撃する第一線の航空隊ですら代用燃料アルコールを使用していたようなご時世。厳しい訓練の合間には、伊予三島の山に分け入り、松の根からとれる「松根油」の採取などもしていたそうです。これがないと訓練すらままならないというのだから悲惨ですねぇ。

また、米軍が空襲するのを忘れてしまうぐらい小さな街へ、何の所縁のない陸軍の部隊が現れ、なにか秘密のフネで日夜訓練に励んでいるのですから、街の人の興味をひかないわけがありません。なんせこんな田舎ですから、海軍の船といってもせいぜい民間から重用した木造漁船を改造した小型の警戒艇が関の山。「陸軍のフネ」とやらの方がむしろ立派で、

「海軍さんが木のフネで、陸軍さんは鉄のフネ」

などと囃されたのだそう(「まるゆ」のドヤ顔が想像できそうですね)。

とはいえ、操船がへたくそだったせいか、当初は地元の漁船とのトラブルもあったよう。これは漁船の操舵室の横に大きな番号を付けて識別するようにし、また教育隊の方が地元の人に気を使うようになってからは収まったのだそうです。

そのほかにも、手元にある『陸軍潜水艦』という本によると、土地のお婆さんからカンコロ(サツマイモの切り干し)をごちそうになったというエピソードなんかもあったみたいですね。

「気温温暖な美しい海辺の町で、海岸には見事な松林が続き、丸い玉砂利の砂浜があり、伊予蜜柑がどこの家にもたわわに実っていて、滞在中は珍しいので思いきり食べまくった」

「東京から疎開していた女の子親子に誘われ、三島劇場で旅回り劇団の舞台芸を数回見物したが、なんの娯楽のない時世であったので結構楽しかった」

なんだかこういう話ばかり読んでると、割とのんびりな雰囲気なのかなぁという印象なのですが……実は「まるゆ」は特攻兵器として利用することも考えられていました。物資の代わりにヒトを運び、敵陣の背後へ密かに上陸して白刃突撃をするのです。気弱そうな艦これの「まるゆ」からはちょっと想像できないですが。

 

陸軍潜水輸送教育隊記念碑

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そんな「まるゆ」の教育隊を記念した石碑が、三島の小さな神社に建てられています。「まるゆ」での作戦中に亡くなった将兵は300名余りとのこと。

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「まるゆ」の艦内には金毘羅さんが祀ってあったそうで、この碑も地元の小さな金毘羅神社に建てられています。国道11号線沿い、松山方面に向かって右手にポツンとあるので分かりやすいかもしれません。「三島港」というバス停が一番近いので、もし近くに寄ることがあればのぞいてみるといいかも(ただし、バスは1時間に1本あるかないかぐらいです!)。

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それではまた次回! さいならー。

 

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文・ やなぎ ひでとし(33歳、独身♂)



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1980年、大阪府大阪市で爆誕。中学・高校時代は伊賀、大学時代は京都で過ごしたため、あちこちの言葉が混じった怪しい関西弁を操る。
現在は東京・千葉を経て、愛媛・松山に在住。普段はWindowsソフトウェアを専門とするフリーライターと、舞鶴鎮守府サーバーの提督(大将)の二足わらじ。
中国史(とくに春秋戦国時代など)が割りと好物で、好きな人物は漢の光武帝、尊敬するのは管仲・晏嬰。コーエイの『三国志』シリーズではもっぱら馬騰で遊んでいる。日本の武将では武田信玄が好き。

 

 

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