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艦これブログ

【艦これブログ】第124隻 艦娘と学ぶ木村昌福提督の活躍

投稿日:

 

前回ちょっとだけ紹介した木村昌福(きむら まさとみ)海軍中将。てっきりこのブログで紹介済みだと思っていたのですが、まだだったよう……。今回は彼と関連の深い艦娘とともに、生涯をさらっとご紹介しましょう!

内容は手元にある『キスカ島 奇跡の撤退: 木村昌福中将の生涯 (新潮文庫)』にだいたい準拠していますが、間違ったことを書いていれば僕の責任です。ご指摘いただければと。

それでは、いってみよう!

 

ヒゲのショーフク

木村昌福中将は1891年12月6日、静岡県静岡市の近藤家に生まれました。生後すぐに鳥取の木村家のもとに養子に出されましたが、育ったのは静岡だそうで、旧制静岡師範学校附属小学校、静岡県立静岡中学校を経て海軍兵学校(第41期)に入校しています。

兵学校での同期は、草鹿龍之介(連合艦隊参謀長)、大田実(沖縄根拠地隊司令官)など。席次は入校時120名中84番、卒業時118人中107番。お世辞にもいい成績とは言えず、もっぱら「車曳き」と呼ばれる駆逐艦乗りを務めました。

 

重巡洋艦「鈴谷」

艦これブログオレの娘は不沈艦20150727-2

開戦時は大佐で、重巡「鈴谷」の艦長。木村提督も「甲板ニーソ」(by 鈴谷)の上を闊歩したのかと思うと、ちょっと微笑ましく感じちゃいますよね。

ミッドウェー海戦では、第七戦隊(司令官栗田健男少将)に所属。この戦隊は「最上」型重巡4隻(最上、三隈、鈴谷、熊野。奇しくも「艦これ」ではみんな航空巡洋艦ですね)から成り、輸送船団の護衛として警戒任務に従事していました。

そこへ飛び込んできたのが、「空母機動艦隊壊滅」の報告でした。すぐさま戦隊は反転、撤退を開始します。

しかしその途中、戦隊は米潜水艦「タンバー」(SS-198)に遭遇。これを避けようとするも、「最上」と「三隈」が衝突、「最上」は速力が出せなくなってしまいました。これでは爆撃の餌食です。

栗田少将は損傷した「最上」の護衛に「三隈」と駆逐艦二隻(第八駆逐隊「荒潮」「朝潮」)を残し、みずからは旗艦「熊野」に「我に続け」の信号旗を掲げ、主力と合流しようと西進離脱を図りました。

要するに、「最上」「三隈」は置いてけぼりにして、健在な艦の温存を図ろうとしたわけです。

艦これブログオレの娘は不沈艦20150727-8

しかし、木村大佐は「我機関故障」と「熊野」に伝達、独断で「三隈」生存者の救助に向かいました。救助後、「三隈」を魚雷にて自沈処分(と言われてますが、異説あり)。速力が出ずに助からないかと思われた「最上」も、主力の第二艦隊との合流を果たし、生き残りました。

のちにも木村提督は危険を冒して味方を救助していますが、こうしたところが人望を集めたのでしょうね。

残念ながら、木村が少将に昇進して艦を離れたのち、「鈴谷」はレイテ沖海戦(1944年10月25日 サマール沖海戦)で喪失。

 

駆逐艦「白雪」

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「鈴谷」を離れた次に木村提督が拝命したのが、第三水雷戦隊(「川内」+20駆、11駆、19駆)の司令官でした。

そこで木村提督は、敵制海・制空圏内を真昼間に突き切るという無謀な輸送任務「八十一号作戦」を押し付けられます。この時期、連合軍はニューギニア方面で攻勢に出ており、ブナ島の守備隊が玉砕。早急に陸軍を輸送し、攻撃に備える必要がありました。「瑞鳳」航空隊などによる敵基地の爆撃は行われましたが、天候不順で不十分に終わり、高い確率で空襲が予想される作戦でした。

「命令だから全滅覚悟でやってもらいたい」(by 第八艦隊)

腹をくくった木村提督は駆逐艦「白雪」に座上し、輸送船8隻と護衛の駆逐艦8隻(旗艦の他、「浦波」「敷波」「時津風」「荒潮」「朝潮」「朝雲」……「雪風」!!)から成る輸送船団を指揮しましたが、案の定、敵航空機に発見され、「反跳爆撃」と呼ばれる新戦法でタコ殴りにされます。

これが世に言う「ダンピールの悲劇」です。米側の呼称は「ビスマルク海海戦」です。この戦いで、「白雪」を喪失。木村提督自身も機銃掃射で左太もも、右肩、左腹部に貫通銃創を負い、命からがら「敷波」へ移りました。

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このとき、「時津風」に乗っていた陸軍第十八軍司令官・足立中将は「せめて近くの島へ放りだしてくれ」と言ったそうですが、木村提督は被害を最小限にするため要求を断り、最後まで海域に残って味方の漂流者を収容したのち、帰投しています。

また、木村提督が負傷した際に信号兵が「指揮官重傷」という信号を掲げたのですが、「陸軍さんが心配する」と叱りつけて「只今の信号は誤り」と訂正させたという逸話も残されています。

 

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軽巡洋艦「阿武隈」

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「ダンピールの悲劇」のあと、内地で療養中だった木村提督でしたが、それも束の間。第一水雷戦隊の司令官の辞令が下ります。キスカ島守備隊の転進(というなの撤退)作戦「ケ号作戦」を担当するはずだった司令官が急死ため、急遽、ピンチヒッターを命じられたのです。当時の一水戦の旗艦は「阿武隈」

キスカ島は、アッツ島とともにアリューシャン列島に属する米国領です。日本軍はミッドウェー作戦の陽動として、軽空母二隻を割いてこの島々を奪い取りましたが、ふかふかのツンドラは航空基地に適せず、ダッチハーバーから飛んでくる米爆撃機に一方的にボコられるだけの基地となっていました。1943年5月にはアッツ島の守備隊が「玉砕」。キスカ島守備隊の命運も風前の灯火です。「これを何とかしろ」というのが木村提督に下された命令でした。

木村提督は辛抱強く、航空機・艦船による攻撃を受ける心配のない濃霧の日を待ち、一度目の作戦を中止。このときに発せられたのが、「艦これ」提督にはお馴染の

「帰ろう、(無事に)帰ればまた来られるから」

という言葉でした。そして二度目の作戦は見事成功。守備隊の撤退後、米軍がキスカ島に上陸しますが、同士討ちで多数の死者を出した挙句、戦果は「犬3匹」だったと言います。

キスカ撤退作戦の成功はもちろん木村の判断に負うところが大ですが、上司(木村)をだまして危険な最短ルートをとらせた参謀や、当時決して捨ててはならないとされていた菊の御紋入りの三八式歩兵銃の投棄を上層部に無断で決断した陸軍北方軍司令官・樋口などのファインプレーも評価されるべきですね。

このあと木村提督はレイテ沖海戦(スリガオ海峡海戦)に参加しますが、「阿武隈」はここで失われます。やむなく木村提督は「霞」へ司令部を移しました。

霞 「ったく…どんな采配してんのよ…本っ当に迷惑だわ!」

 

駆逐艦「霞」

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1944年11月、木村は第二水雷戦隊司令官に任命されました。これまで司令官を務めていた一水戦は解体、二水戦に編入されており、かつて最強の水雷戦隊とも言われた二水戦も、もはや残存艦艇のかき集めでしかありません。

そんな二水戦に下されたのが、「礼号作戦」です。内容は、「挺身部隊」(≒特攻隊)を組織して味方の援護なしで敵中に突撃し、サンホセに停泊中(と思われる)の敵艦隊と陸上施設を一時間だけ砲撃して引き返すというなんとも素敵なモノ。

日頃愚痴を言わない木村も、これを聞いたときはさすがに「艦隊司令部にはヒゲは三本足りないな」と漏らしたと言います。ちょっと意味は分かりませんが、なんとなく気持ちは分かります。

この作戦で木村提督が旗艦に選んだのが駆逐艦「霞」。

「霞、出るわ。見てらんないったら!」

重巡「足柄」、軽巡「大淀」を差し置いて「霞」を旗艦に選んだのは、駆逐艦の方が小回りが利くから、スリガオ海峡海戦で司令部を置いたことがある関係で意思疎通が容易だからといった理由があったみたいですが、実際のところは、どうせ死ぬなら駆逐艦で死にたいと思ったのが真相のようで、

「僕は駆逐艦乗りだよ。ひょろ長い水雷艇の時代から水雷屋なんだ」

なんて言葉も残しています。幾多の戦果を潜り抜けてきた木村提督でさえも、今度ばかりは成功が期待できない作戦だと思っていたのでしょう。

ところが、結果はおおむね日本側の成功。駆逐艦「清霜」が魚雷により轟沈してしまいますが、木村提督は「あとで拾ってやる」という言葉を守り、攻撃の帰りに敵中「霞」の機関を止め、味方漂流者の救助に努めました。

ちなみに、日本海軍の駆逐艦が魚雷を命中させたのはこの作戦が最後。「水雷屋」の冥利、ここに尽きると言えるでしょう。

戦後

その後、木村提督は陸に上がり、帝国海軍最後となる中将に昇進。海軍兵学校防府分校長、防府海軍通信学校長(兼任)として終戦を迎えました。木村提督は自慢のカイゼル髭をそり落とし、彼を慕う部下たちとともに製塩業を営み、苦労の末事業を軌道に載せましたが、戦争中の数々の武勲や戦歴については黙して語らず、家族ですらその事績を知らなかったのだそうです。

苦しい戦況のなかキスカ島撤退作戦・多号作戦・礼号作戦を成功させた戦功もさることながら、部下への思いやりが強く、上層部の命令をときに無視してでも、味方――そして、敵すらも!――の損害がもっとも少ない道を選び続ける寡黙・信念の人でした。しかしその一方でわりとロマンチックなところもあったらしく、女性を慕うピュアな和歌をしたためたり、勇壮な漢詩を呼んだりといったちょっと少年っ気の抜けない文人としての一面見せています。

一介の「車引き」の地位に甘んじ、真珠湾攻撃で無邪気に興奮、ミッドウェーの敗戦で落胆する生粋の“現場提督”で、大局とはまったく縁のない人でしたが、戦時にあっても平時にあっても道を失わなかった点は尊敬できると個人的に思います。

 

おまけ

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軽巡「神通」も、実は木村提督と縁のある艦。艦長を務めたことがあるほか、弟・近藤一声中佐が副長として乗り込み、コロンバンガラ島沖海戦で艦と運命を共にしました。木村はこの報をキスカ撤退の二次作戦前に受け取っています。

 

 

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文・ やなぎ ひでとし(33歳、独身♂)

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1980年、大阪府大阪市で爆誕。中学・高校時代は伊賀、大学時代は京都で過ごしたため、あちこちの言葉が混じった怪しい関西弁を操る。
現在は東京・千葉を経て、愛媛・松山に在住。普段はWindowsソフトウェアを専門とするフリーライターと、舞鶴鎮守府サーバーの提督(大将)の二足わらじ。
中国史(とくに春秋戦国時代など)が割りと好物で、好きな人物は漢の光武帝、尊敬するのは管仲・晏嬰。コーエイの『三国志』シリーズではもっぱら馬騰で遊んでいる。日本の武将では武田信玄が好き。

 

 




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