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なんで日本軍は小銃が好きなん? 書評『兵器と戦術の日本史』を読む【艦これブログ・番外編】

更新日:

 

どもー。艦これブログの筆者・やなぎです。

歴史に触れる上で、戦争は避けて通れないわけですが、おかげさまで70年ほど戦争に縁のない国に住むことができたおかげか、兵器だの戦術だの言われてもピンとこないのが現実ですよね。

そんなわけで前回は『兵器と戦術の世界史』という本を紹介してみたのですが、今回はその続編、『兵器と戦術の日本史』になります。

Amazon.co.jp: 兵器と戦術の日本史 (中公文庫): 金子 常規: 本

 

前回の復習と日本史ならではの問題

さて、前回の復習になりますが、兵器と戦術は基本的に

  • 兵器が異質である時:兵器>戦術
  • 兵器が均質である時:兵器<戦術

という関係です。

兵器が異質である時というのは、たとえば異なる文化・文明・民族同士が衝突する場合や、兵器の爆発的進化があった場合などです。

鉄の武器を持った民族が青銅の民族を切り従えちゃったり、トルコの大砲の前にビザンチン帝国が敗れ去ったり、そんな感じでしょうか。そういう場合は戦術の優劣などよりも、より強い武器を持っていたり、より新しい武器を持っていることが大事です。

一方、兵器が均質であるというのは、おもに内乱の場合です。同じ民族であれば使っている武器にそれほど差はないわけで、戦術の差がものを言うでしょう。

日本の場合は、ほとんどが内乱と言えるので、後者の要素が大きいといえます。

とくに戦国時代では大名ごとに軍の編成や使い方の工夫があり、さまざまな戦術が編み出されました。朝鮮の役における一定の成功は、内乱で百戦錬磨になったサムライたちの強さによるところが大きいです。

しかし、前者の要素も皆無とは言えません。たとえば、元寇をはじめとする海外との戦争がありました。本来なら、そこで得た戦訓は国内の戦争に活かされ、兵器・戦術の形を一変させてもおかしくないでしょう。

ところが、意外なことに、日本ではそうした“異文化交流”が戦争の形を変えることは少なかったようです。それはなぜなのか、というのが本書のポイントの一つかなと個人的に思いました。

 

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目次と内容

それでは、目次をザラッとみてみましょう。これだけでもいろんな兵種が栄枯盛衰してたんだなーっていうのがだいたいつかめると思います。

  • 第一章 倭歩兵の興隆と衰退――海北四百年戦争
    • 鉄矛・長剣・長槍歩兵の交互支配
    • 桂甲騎兵・山岳要塞歩兵の勝利
    • 見えざる兵器 諜報活動の勝利
  • 第二章 律令徴兵歩兵の誕生と終末――蝦夷百年戦争
    • 律令徴兵歩兵、軍の主役となる
    • 律令歩兵、奥蝦夷を制す
    • 弓騎兵、歩兵に代わる
  • 第三章 少数精鋭騎兵の勝利――覇権 武士に移る
    • 弓騎兵より突撃騎兵に
    • 突撃騎兵制覇す
  • 第四章 突撃騎兵と矛歩兵衝突す
    • 元軍歩兵、日本騎兵を破る
    • 奇襲上陸作戦、成功直前の挫折
  • 第五章 歩兵台頭す
    • 弓盾歩兵、戦列に復帰す
    • 歩兵、槍を持つ
    • 倭寇出現す
  • 第六章 足軽歩兵 地位を確立す――応仁より天下統一へ
    • 長槍集団、歩兵決勝兵力となる
    • 長槍・鉄砲集団歩兵の活躍――戦国動乱期
    • 倭寇、大型水軍に敵しえず――後期倭寇
    • 戦略・戦術優位の時代
  • 第七章 陸の鉄砲・海の大砲――朝鮮の役
    • 陸進むも、海進まず――文禄の役前半
    • 釜山海岸堡への撤退――文禄の役後半
    • 再び海岸堡への支配権を求め――慶長の役・関ヶ原
    • 水軍の弱体暴露――軍事的観察
    • 近代兵備への道 凍結す
  • 第八章 洋式近代軍の勝利――幕末・戊辰戦争
    • 施条銃の制覇
    • 再び戦略・戦術優位の時代へ
  • 第九章 太政官徴兵軍勝利す――西南戦争
    • 木戸征韓論の支配
    • 徴兵軍の基盤確立す――西南戦争
  • 第十章 日本帝国軍の盛衰――日露より大東亜へ
    • 日本軍、帝政ロシア軍を破る
    • 日本軍敗北す
    • 今後の戦・二つの推論

なかでも面白いのは一章ですかね?

まだ倭と呼ばれていた日本がなぜ朝鮮半島への進出に固執したのか、そして全面撤退に追い込まれるまでの過程を、史書や出土品などをもとに、「兵器と戦術」という観点から考察しています。

とはいえ、この時代のことを書いた本にはありがちですが、多分に想像の翼を働かせすぎかなぁ、というきらいがないではないのですが……。

そんなわけで、比較的資料に恵まれている古墳時代まで時計の針を進めましょう。

この時期の日本軍は、

  • 短甲:薄板金を皮ひもで綴る。動きは制限されるが、盾がなくても十分の防御
  • 長槍:4、5メートルにもなる両手槍

という装備だったようで、もしかしたらファランクスみたいなのを組んでいたのかもしれません。おかげで倭国王帥升(すいしょう)の時代には断念せざるを得なかった南朝鮮(弁辰・べんしん/弁韓・べんかんとも)への進出を果たします。弁辰には鉄の産地があったようで、ここを押さえるのは軍事的にも大きな意味があったようです。

しかし、日本の短甲長槍兵も、高句麗の装甲騎兵の前には形無しでした。ファランクスは脇が弱く、また方向転換が難しいので、機動力のある騎兵との相性はあまりよくないようですね。また、ファランクスは野戦には強くても、攻城戦では十分な力を発揮できません。城に籠り、機を見て突出する朝鮮騎兵に、日本歩兵は圧倒されつつありました。

そこで古墳時代後期には

  • 挂甲:短甲より動きやすい騎兵向きの装甲
  • 盾:桂甲の防御力不足を補う
  • 弓と太刀

という装備になっていたようです。ファランクスよりも柔軟に運用できるローマの軍団兵(レギオン)みたいな感じですね。こうやってみると、日本も世界と同じような進化をたどっていたのだなぁ、と思わされます。

しかし、結局、日本歩兵は朝鮮騎兵には対抗しきれず、また水軍の脆弱もあって、白村江の戦いで朝鮮半島を諦めざるを得なくなりました。

筆者によると、こうして日本が朝鮮で劣勢になった裏には、新羅による外交・諜報活動の活躍が大であったとしています。たとえば朝鮮へ援軍を送り出すという話になると内戦(蘇我 vs 物部、壬申の乱)が勃発したり、偉い人が倒れたり。それらすべてを裏で新羅が糸を引いていたとするのは少しやり過ぎかなと個人的には思いましたが、考えられなくはないことだと思います。

第二章は、律令制下での徴兵軍の話になります。このあたりは第九章(徴兵軍による西南戦争の遂行)ともかぶる感じですね。

日本は四方海に囲まれているのだから、海軍力を増強しておけば、陸軍力は徴兵に頼らず、志願制の少数精鋭にしたほうがよかったのかもしれません。しかし、律令日本も明治政府も、半島・大陸を意識するあまり、徴兵の方を選択してしまいました。

確かに目に見えるコストで言えば、志願制の少数精鋭の方がずっと高く、徴兵歩兵は安く見えます。しかし、徴兵歩兵は決定力に欠け、少なくとも律令日本の場合はしばしば精鋭を求めて「健児(こんでい:弓馬に秀でた者を選抜して軍団を編成する制度)」に頼ることになりました。そして、それが武士の素地となっていきます。

 

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源平合戦は「従来型の弓騎兵 vs 新しい突撃騎兵」の戦いだった!?

第三章では、お待ちかねの武士が登場。

登場した当時の武士は、騎兵といってもペルシアと同じ「弓騎兵」でした。しかし、鎧が発達すると弓戦だけでは決着がつかず、次第に突撃によるケリをつける「突撃騎兵」のスタイルが広まっていきます。

とくに平将門の乱や前九年・後三年の役でその実効性に手ごたえを感じていた東国兵にその傾向が顕著で、源平の戦いはある意味「従来型の弓騎兵 vs 新しい突撃騎兵」の戦いだった側面があるのかもしれません。平家側にすれば「なんて蛮勇な!」といった感じだったでしょう。

しかし、恩賞はとった首に対して与えられるため、武士たちには変な癖がついてしまいました。

「やぁやぁ、我こそは――」

と名乗りを上げて、逐次突撃するという戦闘習慣です。国内での、話の分かる同士の戦いではこれでよかったのですが、それで痛い目に遭ったのが元寇です。

元軍の先方は、矛をもった歩兵集団で敵を一人ずつ仕留めるというもの。弓は日本の者より小さく・威力の低い短弓でしたが、毒を塗って威力を補ってありました。また、震天雷・投槍、さらには臼砲まで持ち出して、敵をかく乱してきます。

日本軍はこれらに苦戦しましたが、結局は台風で撤退を余儀なくされます。

「たとえ愚策でも勝利したとみなされるときは成功策とされる」の鉄則は見事に適用された。鉄砲も忘れられたし、矛は元弘の乱以後使われるが、これは古代の矛の復活現象である。

大陸のように異文化間戦争が日常茶飯事ならばともかく、単発的にやってくる程度では自分たちの弱点を直視し、伝統的な戦い方を改めるにはなかなか至らないようです。

それでも南北朝時代になると、元軍が行っていたような集団歩兵戦術が芽生え始めます(槍をパイクみたいな感じで使ったんでしょうね)。東国伝統の突撃騎兵にたいし、槍歩兵と騎兵の共同によるゲリラ戦術でこれに対抗する武将が現れだします。楠正成なんかはその代表かもしれません。

 

上杉軍は足軽を重んじ、武田軍は機動性の騎兵を重視した

戦国時代の前半になると足軽槍兵による前面突破力の高い集団戦法と、機動性重視で少数精鋭の騎兵戦術の戦いが多くみられるようになっていきます。

たとえば上杉軍は前者、武田軍は後者でした。信長・秀吉は前者で、質を欠き、混戦に弱い欠点を鉄砲火力と兵数で補いました。家康はどちらかといえば後者。小牧長久手で兵が劣勢でも自信を持っていたのは、機動力のある精鋭がそろっていたからでしょう。

各大名はこの二方式を適宜混用したが、どちらに重点を置くべきかの結論は出ていない。ただ、騎歩チーム方式(騎兵・機動重視)は武士の損耗が多く、また馬が銃弾に弱い欠点はまぬかれず、その点で騎歩チーム主兵には限界があったといえよう。

この限界が長篠の戦だったのかもしれませんね。

こうして内乱で戦術を磨き、世界有数の小銃大国になっていた日本は、朝鮮へ攻め入ります。海北四百年戦争以来ですね。しかし、陸では優位を築いた日本ですが、海では劣勢を強いられます。

というのも、

  • 明・朝鮮:攻城重視の大砲
  • 日本:野戦重視の鉄砲

だったからです。陸ではサムライたちの用兵上手もあって鉄砲が大砲を圧倒したのですが、海では大砲がものを言いました。

なのに、ここでも 「たとえ愚策でも勝利したとみなされるときは成功策とされる」の鉄則が見事に適用されてしまいます。陸では勝っていたのだから、銃重視は問題ないのです。

「なまじ一定の成果を得てしまったがために、徹底した反省が行われない」というのが、日本史を通じてみられる日本軍の悪弊ですね。異文化間戦争が常態ではなく、伝統的なやり方がより合理的な方法で駆逐されることに慣れていない。なので、伝統的方法が通用した部分のみに注目し、その長所を伸ばし、深化させれば無敵という発想になってしまうのでしょう。

一騎打ち戦法でも負けなかったんだから、集団歩兵戦法なんか取り入れないでいい。
うまくやれば小銃で勝てるんだから、砲はいらない。要は気合だ!

いいものはどんどん取り入れればいいのに、なまじ成功体験があると、なかなかそういう気分にはなれないのでしょう。

以下は省略しますが、これは日清戦争、日露戦争でも同じでした。そして、最後には太平洋戦争でまとめてツケを払わされることになったのです。

 

文・ やなぎ ひでとし(33歳、独身♂)

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1980年、大阪府大阪市で爆誕。中学・高校時代は伊賀、大学時代は京都で過ごしたため、あちこちの言葉が混じった怪しい関西弁を操る。
現在は東京・千葉を経て、愛媛・松山に在住。普段はWindowsソフトウェアを専門とするフリーライターと、舞鶴鎮守府サーバーの提督(大将)の二足わらじ。
中国史(とくに春秋戦国時代など)が割りと好物で、好きな人物は漢の光武帝、尊敬するのは管仲・晏嬰。コーエイの『三国志』シリーズではもっぱら馬騰で遊んでいる。日本の武将では武田信玄が好き。

 




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