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【艦これブログ】第162隻 伯爵さま、ごめんなさい! ツインテールの正規空母「グラーフ・ツェッペリン」を改装

更新日:

この前のイベントでゲットした正規空母「Graf Zeppelin」がようやく Lv50 に到達。改装できるようになりました。

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ちなみに「Graf Zeppelin」というのは「ツェッペリン伯爵」という意味だそうです。そう、あの(硬式)飛行船で有名な フェルディナント・フォン・ツェッペリン さんですね。飛行船といえばツェッペリン、ツェッペリンと言えば飛行船といった感じです。

ツェッペリン伯爵は1838年7月8日、バーデン大公国のコンスタンツで生まれました。今のドイツの南端、スイスとの国境付近にある古い街です。

ツェッペリン伯爵はシュトゥットガルトの理工科学校に進むも1853年に退学。士官学校に入学し、バーデン大公国の東隣にあるヴュルテンベルク王国で軍人の道を歩みます。しかし、科学技術への興味を抑えられなかったのでしょうか。少尉に任官すると、休暇を得てまた勉学の道へ戻りました。しかし、そこへ第二次イタリア戦争が勃発。工兵としてプロイセンに動員され、勉学を再びあきらめることになります。――軍人にして技術者、ツェッペリン伯爵は二つの顔をもつ男でした。

そんな伯爵に転機が訪れたのは、1863年。J・シュタイナーの気球に乗って初の飛行を体験します。若き伯爵はこれがよっぽど気に入ったようで、1869年には再び渡米して気球について学んでいます。

その後、ツェッペリンは「操縦可能な気球」つまり「飛行船」の可能性を確信することになります。当時仕えていたヴュルテンベルク王カール1世に、大型飛行船の軍事利用を勧める書状を出すほどの入れ込み具合です。それがウザがられたわけではないでしょうが、1890年、中将で退役を余儀なくされました(まじめな話をすれば、主流派のプロイセン出身ではなかったため、出世の見込みがなかったのです)。

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でも、本人にとってはそれがかえってよかったのかもしれません。すべての時間を飛行艇にそそぐことができたのですから。

さっそく伯爵は技術者を雇い、飛行艇の開発を進めます。伯爵が考えた飛行船は以下のようなものでした。

  • なんか軽いガスを詰めた気嚢を複数用意する
  • それを硬いアルミニウムの外皮で覆う
  • それに推進機や操縦室を固定する

いわゆる「硬式飛行船」です。そして1895年、とうとう「複数の縦列に配置された牽引体をもつ操縦可能な航空列車」の特許を取得。これを世間に知らしめたところ、多くの人の心を打ち、事業のための募金が集まりました(なお、半分は硬式飛行艇の最初にして最大のファンである伯爵自身がだした模様)。こうして開発されたのが、世界初の硬式飛行船「ツェッペリンLZ1」でした。

伯爵は1900年、この LZ1 で故郷コンスタンツ画面するボーデン湖の上を三回飛行。これには、募金に協力した市民もうっとりです。1908年には LZ4 がエヒターディンゲンで墜落したにもかかわらず募金は650万マルクに達し、これをもとにツェッペリン飛行船製造有限会社とツェッペリン財団が設立されました。

(ちなみに、このツェッペリン財団は現在でも建材。傘下にはドイツの有名自動車部品メーカー ZF社 がありますが、これももとは飛行船の部品製造に携わっていたのです)

伯爵はこの分野で大きな成功をおさめ、1909年にはドイツ海軍へ LZ3 を納入(Z1 と呼称)、1909年までの間に、ドイツ飛行船航行会社は1600回以上の飛行を無事故で行い、累計3万7250人の旅客を運びました。その後は大西洋航路も創設。たった数年で「ツェッペリン革命」とも呼ばれる航空運輸時代を作り出したのです。

ツェッペリン伯爵は尊敬に値する人物で、勇気のある、ねばり強い献身的な組織人であり発明家で、あらゆる障害や初期の失敗にもかかわらず、専門家や、彼のアイデアが実現不能であると信じる学者達の否定的な評価に屈することなく、数十年にわたる張り詰めた仕事と多額の財政的な犠牲を払ったのち、1907年についに技術的に高度な飛行船を完璧に創りあげることに成功した。その飛行船の飛行は、洗練された世界を大いに驚かせた。

――ニコラウス・バーゼナッハ(偉大なるツェッペリン飛行船1より)

1929年には伯爵の名を冠した「グラーフ・ツェッペリン」号(LZ 127)が世界一周飛行を達成。「グラーフ・ツェッペリン」号は日本の霞ケ浦にも寄航し、30万人もの観衆が押し寄せました。当時の新聞の見出し「君はツェッペリンを見たか!」はすっかり流行語に。ツェッペリン伯爵も「Z伯」として有名になりました。

この「大飛空艇時代」も飛行機との競争と「ヒンデンブルク号爆発事故」(ナショジオの『衝撃の瞬間』が割とおすすめです)で終止符が打たれてしまうのですが、それは伯爵の死後のことです。

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そんなツェッペリン伯爵の名前を受け継いだ、ドイツ第三帝国の正規空母が「グラーフ・ツェッペリン」です。

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中破姿じゃないとよくわからないのですが、ツインテールの女の子です。天国の伯爵さまがどう思っているのか、俺提督はちょっと気になってしまいます。

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あと、艦これでは名前が長すぎて「Graf Z」までしか表示できません。そんなわけで、失礼ついでというわけでもありませんが、本連載では「グラ子」と呼ばせていただくことにします。伯爵、ごめんなさい。

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「グラ子」の進水を報じる日本の写真雑誌

 

「グラ子」はドイツの再軍備計画であるZ計画で、4人姉妹の長女として計画されました。実際起工されたのは、上の二人だけ。進水したのは「グラ子」のみでした。

そもそも、まだ空母そのものが手探りであった時代。空母に比較的力を入れていた日本ですら、ラインナップは「鳳翔」さんに独特なシルエットの人、三段甲板時代の「赤城」さん、そして戦艦から無理やり改造したせいで人間ロースト機になっちゃった某人だったりします。先輩面してドイツ技術者を招き、赤城の中を親切に案内しましたが、反映されたのはエレベーターの一部がせいぜいといったところデス。

巡洋艦を張り倒せる程度の砲力を備えたせいで、格納機数がそんなになかったりするところは若干設計が古い感じ(艦これでも夜戦で砲撃ができる謎仕様になっています)。ただ、せまいバルト海での運用を考えると、巡洋艦に遭遇するケースは太平洋よりは高く、それほどおかしな設計とは言えないのかもしれません。空母をたくさんそろえて機動部隊を編成するほどでもなかったので、実際に完成しても大西洋で Uボート の支援を行うのが関の山だったかも。艦載機も陸上機としては傑作だったけど、航続距離が短かく、「ほんっとにアウトレンジしてあげるんだから!(瑞鶴」とはいかなかったはずです。

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フォッケウルフやスツーカが艦載機だ!!

やっとこさ進水した「グラ子」ですが、結局、艤装が90%まで進んだところで建設が中止になってしまいます。あのチョビひげが負け戦でブチ切れて、中止を命じたからです。ミッドウェー海戦で「赤城」を失った日本が引き取りを申し出ましたが、とてもじゃないけれど東洋まで無事回航できる見込みがないため物別れに終わりました(その代り、ドイツに帰れなくなっていたドイツ客船を買い取って「神鷹」に改装しています)。

もともと陸軍重視だったドイツが「グラ子」の運用思想で揉めたり、必要性が疑問視されたのは仕方がありません。でも、「グラ子」にとどめを刺したのは敵弾ではなく、ちょびヒゲの激オコなのでした。

と、今日はここまで。ほんとは「那智戦隊、出撃するぞ!」(前回の任務の続き)も書くつもりだったのですが、次回にさせてください。

 

 

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文・ やなぎ ひでとし(33歳、独身♂)

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1980年、大阪府大阪市で爆誕。中学・高校時代は伊賀、大学時代は京都で過ごしたため、あちこちの言葉が混じった怪しい関西弁を操る。
現在は東京・千葉を経て、愛媛・松山に在住。普段はWindowsソフトウェアを専門とするフリーライターと、舞鶴鎮守府サーバーの提督(大将)の二足わらじ。
中国史(とくに春秋戦国時代など)が割りと好物で、好きな人物は漢の光武帝、尊敬するのは管仲・晏嬰。コーエイの『三国志』シリーズではもっぱら馬騰で遊んでいる。日本の武将では武田信玄が好き。

 

 




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