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ロンメル将軍(Wikipediaより)

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【速報】第二次世界大戦「砂漠の狐」ロンメル将軍の息子が逝く

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日本の新聞などでもそうですが、訃報欄を見ていると「××事件の最期の生き残りだった」という感じで報じられる人の死がありますよね。9日まさに報じられているのが、そういう方の死。

第二次世界大戦で勇名を馳せた、あのロンメル将軍の息子さんが亡くなられているのです。享年84。戦後は西ドイツのシュツットガルト市の市長として活躍し、お父さんに関する様々な証言をなさって来た方でもあります。

ロンメル将軍(Wikipediaより)

ロンメル将軍(Wikipediaより)

シュツットガルト市の公式サイトが告知したので、海外メディアも注目した模様。アメリカでは、あのワシントン・ポストが報道しています。パーキンソン病を患っていたのだそうです。

マンフレッド氏はシュットガルト市長を22年間勤めました。就任期間中の1970年代と80年代は、ドイツに労働移民が流入した時代。ダイムラーとポルシェが本社を構える同市にあって、その公正な取り扱いが問題になっていましたが、マンフレッド市長は見事に解決していったそうです。

「砂漠の狐」の異名を取った有能な将軍の息子さんも、また有能だったのでしょうね。

戦闘車両にのるロンメル(Wikipediaより)

戦闘車両にのるロンメル(Wikipediaより)

英雄一転、ヒトラー暗殺の被疑者となり

私生活では、ロンメル将軍の死が影を落としていたそうです。ノルマンディー上陸作戦への反撃を指揮中に負傷し、自宅で療養していた1944年10月15日、国防軍のブルグドルフ将軍らが訪れ、有名なヒトラー暗殺未遂事件に関与したとして、「自決するか、法廷に立つかを選べ」と迫られます。ブルグドルフ将軍らは、「3秒で効く」毒薬を持って来宅したのです。

将軍らが別室で待機する中、ロンメルは奥さんに事情を話します。法廷に立って欲しいとの懇願に「生きてベルリンにはたどり着けないだろう」と答えたロンメルは「私が死ねば国葬になるそうだ。いまとなっては、それ以外になすべき道はない。私は彼らとともに出かける。半時間以内に私が事故に遭って死んだという電話があるだろう」と答えました。

そして、将軍らと「死出の道行き」。25分後に、こう電話がかかって来ました。「悲しいことが起こりました。元帥が車上で吐血され、亡くなられました」と、ブルグドルフが連絡してきたのです。

奥さんと、マンフレッドさんがウルムという所にある病院に駆けつけると、「生涯、一度も見なかった」蔑みの表情をたたえた遺体が横たわっていたそうです。2日後、ヒトラーから電報が打たれます。「元帥の御逝去に深甚なる哀悼の意を表する。ロンメル元帥の名は、北アフリカの英雄的戦闘とともに、ドイツ国民に永遠に記憶されるであろう」。翌日、ワーグナーの「神々の黄昏」の奏楽の中に、最高の儀礼をもって国葬が行われました。(以上は山田風太郎著『人間臨終図巻』I 徳間文庫467〜8Pより)。

ロンメルの葬儀(Wikipediaより)

ロンメルの葬儀(Wikipediaより)

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このとき14歳の少年だった息子

今から69年前の話ですので、当時マンフレッドさんは14歳(誕生日は迎えていませんでした)。多感なティーンエイジャーとして、父親の最期を見届けねばならなかったのです。ワシントン・ポストの原文には「深い心の傷を負った」(deeply traumatized)とありますが、お父さんがそういう形で自殺に追い込まれ、かつ追い込んだ側が平然と茶番劇を打ったのですから、さもありなんって所ですよね。

ナチス敗戦後、マンフレッド氏は父親とのやりとりを連合国側に提出し、そこで初めてロンメル将軍の死の真相が明らかになりました。ナチス側に、本人なりの復讐を遂げたって事になりましょうか。

ともあれ、戦後はトラウマだけでなく、ロンメル将軍の名声も、マンフレッド氏の人生に影を落とします。アフリカ軍団が捕虜を人道的に扱っていた事。その神出鬼没とも言える戦いぶりが、敵であるチャーチル英首相からさえも賞賛された事。そして、将軍本人からナチスの武装親衛隊には入るなと言い渡されるなど、汚れた政権と距離を置いてくれた父親に感謝し、自らの生涯の少なからぬ部分を、将軍の弁護に当てます。

かつての敵であった連合国軍の高官と親交を結んだのは、その1つだったのでしょう。高官の中には有名なジョージ・パットン将軍や、英国のバーナード・モントゴメリー元帥がいたそうです。

「マンフレッド氏の基本的な立場は、ナチス時代の教訓と個人的な体験に深く結びつけられている」。ヨゼフ・シュンダー氏は2012年に書かれたマンフレッド氏の伝記の中で、そう論じています。

「国民が、あのような独裁制に自分達から向かう事が2度とあってはならない」と、生前のマンフレッド氏は語っていたそうです。お父さんの最期を見れば、そう言いたくもなりましょうし、周囲への説得力も強烈だったのでしょうね。

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「テロリストも死んだら許してやろう」

もっとも、市長としては人気がありましたが、就任中には物議を醸す事もありました。当時西ドイツを震え上がらせていたドイツ赤軍のテロリスト、グドルン・エンスリンとアンドレアス・バーダー、ヤン=カール・ラスペらが相次いでシュットガルト市内にあるシュタムハイム刑務所で相次いで自殺し、埋葬先が問題となった際、次のような発言をしたのです。

「怒りが正当化される場合もあろうが、それら全ては死と言う最期を以て許さねばならない。そして、死に一流も二流も無く、全て同じ扱いで埋葬されねばならない」。

当時の西ドイツ国内での赤軍への世論が、今日のイスラム原理主義者へのそれと同様に厳しかった事を思えば、「人間、死んだら許してあげようよ」と解される発言は、異例とも位置付けられるべき姿勢だった事でしょう。まして、下手な発言をしたら落選する恐れだってあったのですから。

娘さんと妻を残しての逝去。「良き政治家とは、世間に耳を傾けるものだよ」と、生前何度か行われたテレビとのインタビューで答えていたそうですから、謙虚な人でもあったのでしょう。

それにしても「死と言う最期を以て許さねばならならない」か…。臨終に当たって、ヒトラーも許したのでしょうか。色々と考えさせられますね。

ともあれ、合掌。天国でお父様と、涙の再会を遂げて欲しいものです。

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takosaburou記 (海外メディア情報ブログDON管理人)




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