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神等去出祭(帰るとき)

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歴史・戦国NEWS

「私の先祖はスサノオ!」出雲大社の宮司を代々務める出雲国造家「千家さん」とは

更新日:

 

覚えていますか、2014年5月27日、高円宮家の次女・典子女王殿下(25)と、出雲大社の宮司のご長男、千家国麿様(40)のご婚約が内定、との喜ばしいニュースが流れました。

高円宮典子様は、昭和天皇の弟・三笠宮様のお孫様です。

では出雲大社の宮司の家って?

記者会見では千家(せんげ)さん自ら、

「私の祖先は2000年前の、天照大御神の弟です」とちゃめっぽく自己紹介されていました。

2000年前?

な、何ですか、それは?!

まるで『カリオストロの城』のカリオストロ家のような、『天空の城ラピュタ』のラピュタ王のようなお話が、現実の平成の日本で?

ロマンが掻き立てられますね!

ということで、過去に放送されたNHK『新日本風土記』の「出雲」を参照しながら、出雲大社と出雲大社の宮司、そして出雲地方について、探ってみたいと思います。

テーマ曲はもちろん!

朝崎郁恵さんの「あはがり」です。

 

出雲の地に天上から降り立った男神…スサノオ

遥か昔、遥か天上の雲の上から、一人の神様が、深い森に抱かれた、ここ出雲の地へと降り立ちました。

その神様の名前は、素盞嗚命(スサノオノミコト)。

天照大御神(アマテラスオオミカミ)の弟です。

素盞嗚命は、神々がお住いになる天上界の高天原で問題ばかり起こしたため、高天原を追放され、ここ出雲へと降り立ったのでした。

 

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ヤマタノオロチを倒す 

素盞嗚命が最初にやってきたのは、出雲平野を流れる斐伊川のほとり。

ここで素盞嗚命は涙にくれる老夫婦に出会います。

訳を聞くと、八つの首と尾を持つ八岐大蛇(ヤマタノオロチ)という大蛇が、自分達の娘の櫛名田比売(クシナダヒメ)を食べにくる、とのこと。

姫に心を奪われた素盞嗚命は、結婚を条件にオロチ退治を約束します。

素盞嗚命はオロチを酒で酔わせたところに斬りかかり、見事オロチを退治しました。

櫛名田比売を妻にした素盞嗚命は、その喜びを歌にします。

「八雲立つ、出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」

(沢山の雲が沸き立つ出雲よ、私はその雲のように幾重にも垣根を作り あなたを守って暮らします)※ちなみにこの歌は日本最古の和歌だと言われています。

この時、素盞嗚命がオロチから櫛名田比売を隠し、その後二人が新居を構えた地が、

「八重垣神社(やえがきじんじゃ)」(松江市)です。

ここにある「鏡の池」では、和紙にコインを載せて、結婚について占うことが出来ます。

※ちなみにこの占いは明治時代に松江に滞在した、小泉八雲(ラフカディオ・ハーンも記しています。

また、素盞嗚命を祀る「須佐神社(すさじんじゃ)」(出雲市)という神社には、

「八岐大蛇の骨」と伝えられているモノが奉納されています。

社殿には「八岐大蛇の骨とて太古より伝来す」と記されているそうです。

 

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出雲大社にまつられるのはスサノオの子孫の大国主

日本最大の社殿を持つ出雲大社(出雲市大社町)。

ここには大国主神(オオクニヌシノミコト)が祀られています。

大国主神は、素盞嗚命の子孫です。

この大変大きな出雲大社造営の経緯は、奈良時代に編纂された「古事記」と「日本書紀」の中で、神話として伝えられています。

「天照大御神の弟、素盞嗚命は、乱暴な行いが怒りを買い、神々の国・高天ヶ原を追われました。

出雲に降り立ち、八岐大蛇を退治した素盞嗚命は、まだ荒涼としていたこの地を切り開きます。

その子孫が、大国主神です。

大国主神は、素盞嗚命の跡を受け継ぎ、出雲を豊かな国に作り上げました。

しかしその様子を眺めていた天照大御神は、出雲の地を自分の子孫に継がせたいと思い、大国主神に迫ります。

長い交渉の末、大国主神は天照大御神の要求を受け入れました。

これを「国譲り」といいます。

この後、天照大御神の子孫が地上を支配し、

大国主神は神々の世界、常世を取り仕切ることになりました。

その時大国主神は、天照大御神に、国を譲る代わりに、大きな住処を求めます」

“柱は高く太く、板は広く厚く”(「日本書紀」)

これが出雲大社の始まりです。

歴史の上でも、出雲国は奈良時代に大和朝廷で臣従を誓う儀式をしています。それ以前の上古に、実際にヤマトに出雲が臣従したという歴史的な事実が反映されているのでしょうか。

「国譲り」神話は、激動の古代史を記しているのかもしれません。

 

現在の社殿は江戸時代に造営 

Wikipediaより

出雲大社の巨大なお社は、現世での大国主神のお住まいになります。

国宝の本殿が初めて造営されたのは1300年以上前、現在のものは、江戸時代に建てられました。

この高さ24mという日本一大きな本殿は、「大社造り」という古い建築様式を伝えています。

しかし出雲大社は、昔はもっと大きかった、という言い伝えがありました。

※平安時代の「口遊(くちづさみ)」(970年/源為憲著)にも

「雲太・和二・京三」

(一番出雲大社・二番東大寺大仏殿・三番平安京大極殿)

と記されています。

その一番の手がかりは、宮司の家に代々伝わる「金輪御造営差図(かなわのごぞうえいさしず)」。

平安時代の出雲大社の設計図です。

絵図によれば、直系1mの丸太を3つ束ねて一つの柱とし、

その柱9本で本殿を支えていました。

立体復元(Wikiより)

高さは48m(※15階建てのビルに匹敵!)もあったとか。

しかしあまりの巨大さに、この絵図の信憑性は、長い間疑われていましいた。

発掘時の3本に束ねられた柱(鎌倉時代、Wikipediaより)

平成12年、本殿の前を工事したところ、巨大な柱が出土しました。

その柱は絵図が示すように、丸太を三本束ねていました。

更に同じような柱が、新たに2箇所から見つかりました。

その配置は、「金輪御造営差図」と、ピタリと重なりました。

その絵図を元に、平安時代の出雲大社を再現すると、

9本の柱が支える、高さ48mの本殿の姿が浮かび上がりました。

本殿へは、長さ100mを超える階段で上ることになります。

これほど巨大な社が築かれた古代出雲とは、

一体どのようなところだったのでしょうか?

 

 弥生時代に繁栄した出雲文化の残照か

その謎に迫る発見が近年相次ぎました。

平成8年、出雲大社から20キロ東で、大量の銅鐸が出土しました。

その数39個。一つの場所からこれほど多くの銅鐸が出土したことはありません。

この遺跡は、「加茂岩倉遺跡」と名付けられました。

加茂岩倉遺跡で出土した大量の銅鐸(加茂岩倉ガイダンスHPより)

また「加茂岩倉遺跡」からほど近い別の場所からも、358本の銅剣が見つかりました。

ここは「荒神谷遺跡」と名付けられました。

弥生時代、やはり出雲には強大な勢力があったことが伺えます。

出雲の神々の神話には、実際にこの地を支配していた権力者の姿が

重ねられているのかもしれません。

 

もてもての大国主 縁結びの神として

出雲大社、そして大国主神は、

縁結びの神様としても信仰を集めています。

旧暦十月十日(現在の11月頃)

出雲大社の西、稲佐の浜に、日本中から八百万(やおろず)の神々が集まってきます。

その神々を、大勢の神職の方々がお出迎えします。

神有月(かみありづき)の神事です。

神々は、海蛇によって導かれ、海を渡ってくるといわれています。

そして、神籬(ひもろぎ)と呼ばれる榊(さかき)に宿り、

大勢の神職が、出雲大社までお連れします。

13、17、19日に行われる神在祭(出雲観光協会HPより)

神在祭の様子、先頭を歩くのはもしかして国麿さま?(出雲観光協会HPより)

旧暦の十月のことを「神無月」と言います。

神々が出雲に行き、姿を消してしまうので「神無月」と言うのですが、

ここ出雲では、その神々が一同に出雲に集まるので「神在月」と呼びます。

八百万神が向かうのは、出雲大社の本殿近くにある、

「十九社(じゅうくしゃ)」と呼ばれる、神様のお宿。

これから一週間、全国から集った神々は、

大国主神と一緒に泊まり込みで、縁結びの会議を開きます。

神々は人の名前などが書かれた札をお互いに見せ合い、縁を結びます。

男女の縁ばかりではありません。仕事の縁、農作物と天候の縁、色々な御縁を結びます。

この神在祭神事の一週間の間、出雲の人々は厳かな気持ちで過ごします。

毎朝新鮮な海水を竹で出来た小さな桶のようなものに汲み、町中の社を清めます。

人々は言います。

「小さい頃からずっとやっていること、自分の気持ちも和らぐと思ってやっております」

出雲大社の近くに住む人が、特に気を使っていること。

それは、“静けさ”です。

「毎日弾いておるピアノもね、この1週間はカバーをかけたままです。

掃除もね、ガタガタ音がしますけんね、控えております。

テレビも、電源を切っております。

昔から、御忌(おいみ)さんいうてね、謹んでおります……」

神々の縁結びの話し合いの邪魔にならないよう、

出雲の人々はこの一週間、静かに静かに過ごすのです。

 

旧暦十月月、1年で一番、神様を身近に感じる時です。

そして、神在月の終わる頃、

出雲に集まった神々が縁結びの会議を終えた頃にお供えする、

特別なスウィーツがあります。

つきたてのお餅をちょっと焦がして焼き、砂糖と一緒に似て、小豆を入れて煮込んだもの、

神在月に食べるので、神在餅(じんざいもち)と呼ばれています。

じんざいもち=ぜんざいもち(観光協会HPより)

そうです、出雲は善哉餅(ぜんざいもち)の発祥の地でもあるのです。

神在月の一週間が終わると、

八百万の神々が宿泊していた十九社の扉が開かれ、神が宿った神籬が出てきます。

 

去りゆく神々をねぎらう、感謝の祝詞(のりと)が響き、

「お立ち、お立ち、お立ち~」

と社の扉が三度叩かれると、それが旅立ちの合図です。

神々はそれぞれの国元へと帰っていきます。

神等去出祭(帰るとき)

神等去出祭(帰るとき)

人々がひっそりと過ごす「お忌様」も終わり、またいつもの日々が戻ってきます。

 

たたら製鉄と出雲

また出雲には、この地でのみ伝えられてきた、

古代からの高度な技術が、今も大切に伝えられています。

奥出雲のたたらの様子(奥出雲ごこちHPより)

日本古来の製鉄の技・たたら製鉄。

日本刀の材料となる、純度の高い鋼、“玉鋼(たまはがね)”を作る製法です。

奥出雲で採れる木炭と、この地方でのみ採れる良質な砂鉄を

三日三晩、燃やし続けます。

炉の中の温度は色で判断します。山吹色になることが大切です。

やがて、砂鉄から玉鋼が生まれる音が聞こえてきます。

 

「古代から伝えられてきた文化を継承する意気込みと、

現代の技術をもってしても作ることが難しい、純度の高い玉鋼を作るということに、

自信と誇りを持っております……」

 

窯を崩して、鉧(ケラ)と呼ばれる塊を取り出します。

この中に、玉鋼が含まれているのです。

玉鋼は10tの砂鉄から1tしか取れない貴重品です。

 

出雲平野を流れる斐伊川。

この川の上流は古墳時代からの良質な砂鉄の産地で、

古代から高い製鉄の技術をもった集団がいたと考えられています。

 

そしてここは、素盞嗚命のオロチ退治の舞台でもあります。

神話が伝えるのは、古代の権力者が、鉄づくりの高い技術を持った人々を

服従させた物語なのかもしれません。

 

素盞嗚命が討ち取ったオロチの体からは、

草那芸之大刀(くさなぎのたち)が出たと言われています。

これは天皇を守る三種の神器として、後の世に伝えられていきます。

 

出雲国造家 千家家とは

そして出雲大社で、神話の時代から、代々宮司を務めてきた家、

これが出雲国造家(いずもこくそうけ)とも呼ばれる千家(せんげ)家です。

 

夜明け前、宮司が向かうのはお清めのための建物、御火所(おひどころ)です

家族でさえ入ることが禁じられ、中の様子は決して話してはならないとされています。

宮司はここで朝の祈りを捧げ、食事をとります。

 

宮司の料理には、宮司になった時に起こした火を、絶やすことなく、一生使い続けます。

穢れのない火が、神に仕える心を保つのだそうです。

 現在の宮司千家尊祐さんは天穂日命から数えて84代目

千家家の祖先の名が、日本書紀に示されています。

天穂日命(アメノホヒノミコト)という、天照大御神の次男にあたる神様です。

 

出典:77gallery.com

現在の宮司は千家尊祐さん。天穂日命から数えて84代目にあたります。

出雲国造家は、天皇家に継ぐ古い家系ということになります。

大国主の神に直接願いを告げることができるのは、宮司だけだとされています。

宮司は世の中の平安と天皇家の繁栄を、日々祈り続けています。

 

出雲大社の遠い祖先が編んだといわれる「出雲の国風土記」。

1300年前、天皇の命により各地で造られた風土記が、

出雲では、唯一ほぼ完全な形で、今に伝わっています。

そこには出雲の神話、歴史、土地の言われ、産物などが細かく記されています。

 

伊勢神宮の20年に対して60年に一度の式年遷宮

ところで平成25年に、60年に一度の「遷宮」を終えた出雲大社。

これは現代の匠が、伝統の技を受け継いで本殿を修復し、社を直すことで、

鎮座する神様の力が蘇り、未来へと続いていく、といわれている神事です。

また11月23日に行われる「古伝新嘗祭(こでんしんじょうさい)」は、

出雲大社の境内に神を迎え、作物を捧げ、宮司が共に食事をとる神事です。

年に七十あるお祭りの中でも、最も厳粛なものです。

1年間神に使えてきた宮司の力は、秋の日が傾くにつれて衰えていきます。

神と共に食事をとることで、宮司は力を取り戻すのです。

そして宮司は、神聖な石を噛みます。

石を噛み、歯を固めることで長寿につながるのです。

 

食事が終わると、宮司は榊の小枝を手にし、神に向かって舞います。

「皇神(スメカミ)を、よき日に祭りし 明日よりは あけの衣をけ衣にせん」

神への感謝、そして勤労の約束を込めた歌です。

 

***

戦前、あるいは江戸時代、

日本人は大自然と、そして神様と、もっと寄り添って暮らしていました。

出雲はその遠い思い出を、呼び起こすところなのかもしれません。

 

「孫達にもちゃんと残して……、

親父の代、その前の代、その前の代と、ずっと続いてきているからね、

それを自分が投げ出す、いう気持ちは、全然ありませんね……」

~出雲の古老の言葉

***

 

天皇家と出雲大社の宮司さんの家の関係、お分かりいただけたでしょうか?

この番組によると、出雲大社の宮司の千家家の祖先は、天穂日命(アメノホヒノミコト)という、天照大御神の次男にあたる神様でした。

しかし出雲大社に祀られている神も、大国主神という素盞嗚命の子孫で、素盞嗚命は天照大御神の弟でした。

 

天照大御神の子孫(天皇家)は地上を取り仕切り、

大国主神は神々の世界、常世を取り仕切っているので、縁結びもなさるのですね。

 

出雲大社の宮司さんは、毎日大変な神事を執り行い、そして更に年に70回もの祭祀を執り行うなど、大変なお勤めを果たしながら、常に世の中の平安と繁栄を祈り続けていらっしゃる、ということに驚きました。

 

謹んで感謝致しますとともに、

心からお二人のご結婚をお慶び申し上げます。m(_ _)m

 

重久直子・記

 

※参考にしたこの番組を観たいという方は、NHKオンデマンドで見ることが出来ますよ。

http://www.nhk-ondemand.jp/

 

※神在祭・しまね観光ナビ

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http://www.kankou-shimane.com/mag/au/kamiari/




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