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松江城

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現存12天守の第5の国宝に名乗りあげた松江城天守を作った堀尾吉晴とは

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国の文化審議会が2015年5月15日、島根県松江市の「松江城天守」を国宝に指定するよう答申しました。指定が決まれば、姫路城(兵庫県姫路市)、松本城(長野県松本市)、犬山城(愛知県犬山市)、彦根城(滋賀県彦根市)に続き、5番目の国宝天守になります。

江戸時代の平和の象徴、戦国の山城から平地の城へ

松江城は、1600年の関ヶ原の戦いの論功行賞で、東軍についた堀尾吉晴(1543-1611)とその息子の忠氏が出雲国と隠岐国の領主となり、その主城として1607年から築城し、1611年に天守が完成しました。別名は千鳥城。いわゆる「四重五階」(外観4重、内部5階)で地下1階。
松江藩はその後、京極氏、松平氏と領主が移り変わりますが天守は400年以上守られました。

松江城

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戦功無数の戦国武将堀尾吉晴

堀尾吉晴は武将としてはマイナーですが、織田家の超武闘派武士として若いころから名をあげていました。
本能寺の変後の山崎の戦いで、天王山を奪取する活躍を見せたのをはじめ、賤ヶ岳の戦いや小牧・長久手の戦いにも参加しています。
石田三成の居城として名高い佐和山城に、天正十三年(1585)に4万石で入城して、大名となり、5年後には、小田原の陣で、浜松12万石となりました。秀吉の側近として、「豊臣三中老」の一人となりましたが、秀吉の没後は徳川家康派となりました。

家康は秀吉側近の堀尾が味方になったことを非常に重視しました。そこで、浜松に加えて、越前府中(福井県福井市)5万石を追加で加増しました。お隣の敦賀(福井県敦賀市)5万石が大谷吉継です。
ただ、家康はこの時点で、大谷吉継は家康派と思っていましたし、大谷自身もそう考えていました。琵琶湖の三成の住む佐和山城の北の敦賀、さらに北の越前府中を家康派で固めることで、三成と前田利長(利家の長男)の分断をはかったのでしょう。

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関ヶ原の戦いは怪我で参戦できず

ところが、堀尾本人は関ヶ原の戦いには参加していません。その前に、三河国池鯉鮒(ちりゅう、愛知県知立市)で刃傷事件があり、そこで重傷を負ったからです。かわりに息子の忠氏が出陣しましたが、特に本戦よりも前哨戦の美濃川越えで大きな戦功をあげました。

そのため、家康は堀尾氏に出雲・隠岐24万石を与えました。吉晴も傷の療養を理由に息子に家督を譲りましたが、なんと1604年に忠氏のほうが先に死んでしまい、その息子の忠晴が3代目となります。もちろん吉晴が実質的に藩主です。吉晴は戦国山城の月山城から平山城の現在地に築いたのが松江城です。

忠晴に子がなく、堀尾氏は3代で終わります。京極氏を一瞬経由して、松平直政(家康の孫、結城秀康の子)が入り、明治まで領主を務めます。

江戸時代の旅人が全員さわった珠

堀尾氏で有名なのは、むしろお母さんのほうかもしれません。
吉晴の長子は「金助」というのですが、18歳で出陣した小田原の陣で病死しています。それを悲しんだ母親が、三十三回忌の法要に熱田神宮(名古屋市)の近くの東海道にかかる裁断橋を自腹でかけかえたとき、母の息子への思いを刻んだ橋の擬宝珠(ぎぼし)をつけました。その銘文が有名になり、江戸時代に東海道を行く旅人がみんなそれを触るので、つるつるになっている状態で、今も名古屋市博物館に保存されています。

現在、日本には築造当時の天守として12が残っており、現存12天守と呼ばれています。

国宝の4城と松江城をのぞくと、

弘前城(青森)
丸岡城(福井)
備中松山城(岡山)
丸亀城(香川)
松山城(愛媛)
宇和島城(愛媛)
高知城(高知)
となります。
四国が多いですね。

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