日本初の歴史・戦国ポータルサイト

BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)

スポンサーリンク

ドイツ 中国 歴史・戦国NEWS

ナチスに獄死させられた平和運動家・オシエツキーに注目再び! 中国・劉暁波氏の姿と重なり……

投稿日:

言論の自由を唱えたが故に逮捕・収監され、ノーベル平和賞を受賞なさった中国の人権活動家の劉暁波(りゅう ぎょうは)氏が亡くなられました。心より哀悼の意を捧げます。

訃報は世界中を駆け巡り、多くのメディアが大々的に報じました。

中でもニューヨーク・タイムズでは、
「劉氏は、1935年のカール・フォン・オシエツキー以来の、獄中でノーベル平和賞を受賞した平和運動家となった。オシエツキーは数年にも及ぶ虐待の後に、1938年に監視下に置かれながら亡くなった」
と、過去の例を挙げながら中国政府を非難しています。

【原文】He was the first Nobel Peace Prize laureate to die in state custody since Carl von Ossietzky, the German pacifist and foe of Nazism who won the prize in 1935 and died under guard in 1938 after years of maltreatment.

おそらく劉氏の死を通じて、世界中の多くの人がオシエツキーという人物を知った事でしょう。

という訳で、リンクされているノーベル賞財団HPから、その生涯を紹介していきたいと思います。

 

再婚した義父の影響で政治意識に目覚める

オシエツキーは1889年10月3日、ハンブルクで生まれます。
父親はドイツ東部の寒村出身の公務員でしたが、オシエツキーが2歳の時に死去。7年後、母親は社会民主党員のグスタフ・ワルターという男性と再婚します。

で、このワルターが社会の向上に関心が高い人物だった事が、オシエツキーの人生にも影響を与えていきます。

学校卒業後、17歳で一旦は公務員に就職。ほどなくしてジャーナリズムの門戸を叩き、終生の職業とします。
振り出しは「自由なる人達」を意味するダス・フライ・フォルク紙でした。その後、週刊発行のデモクラティッシェ・ヴェレイングンク紙(民主ユニオンという意味になります)でも健筆を振るいます。

1913年7月5日、エアハルトで行われた軍が関わる裁判で出された判決が「余りにも政府におもねっている」とする批判記事を掲載し、陸軍省から侮辱罪で訴追されました。
上訴したものの結局は負けてしまい、罰金刑となってしまいます。

なお、この間の1914年5月22日にに英国人のマウド・ウッズという女性と結婚しています。お金のいる時期だったろうに、大変だったろうなぁ。

 

スポンサーリンク

病の身に召集令状 後の平和運動家への道につながる

新婚生活を満喫する間もなく第一次世界大戦が勃発。病の身であったにもかかわらず、1916年6月に召集令状が届き、軍務に服します。この経験が、戦後ハンブルグに戻った際に平和運動家として生きていく事を決意させます。

戦後、「平和というメンタリティ」という概念を教育を受けた層に向けてアピールする一方、「道標」を意味するデア・ウェグワイザー紙を創刊しました。しかし、資金が続かず、程なく廃刊となってしまいます。

やがて、ベルリンに本部のあるドイツ平和協会の書紀に就任。1920年からはミッテイラングスブラットという月刊誌を発行。トーマス・ムルナーという筆名で寄稿し始めます。平和への熱情が強かった事もあって、協会職の仕事だけでは飽き足らず、反戦を編集方針に掲げるベルリーナ・フォルクスツァイトウンク紙のスタッフに転じます。

どうも、ジャーナリズムと政治運動の両方に関心があったようで、後者への思いが強くなっていた節もあります。1923年から24年にかけて、共和党という政党の創設に関わっていたからです。もっとも、1924年5月の全国選挙で敗北し、挫折してしまいましたが。

また、一箇所に留まれない性格だったのか、同じ年に週刊発行のターゲバッハに転職しました。更に2年後にはディ・ウェルトビューネ紙の創業者であり、編集責任者を勤めていたジークフリード・ヤコブソンに誘いを受けて、同紙で働くようになります。そして、ここで大ホームランをかっ飛ばします(あ、ドイツだからシュートの方が良いかも)。

 

スポンサーリンク

調査報道の末、ドイツが再軍備しようとしている事をスクープ

編集スタッフとして調査報道チームに参加し、ドイツが密かに進めていた再軍備を嗅ぎつけ、1927年3月、スクープ記事にしたのです。

当然、記事の論調は批判的でした。これを巡ってドイツ政府はオシエツキーを訴追。有罪刑を宣告され、1ヶ月の懲役刑となりました。
ジャーナリストとして一流であった事を示す、立派な勲章と言えましょう。

臆する事も無く、1929年3月にベルサイユ講和条約に違反する再軍備反対キャンペーンを展開。同年8月には、軍機漏洩罪で起訴され、1931年には8ヶ月の服役を遂げます。収監先はシュパンダウ刑務所。翌1932年のクリスマスで恩赦となり(と言っても1ヶ月だけでしたが)釈放されます。武将ジャパンの読者ならお気づきでしょうが、ナチスの政権乗っ取りが秒読み段階となっていた頃でした。

 

時代が閉塞されていく中、筆を曲げず収容所へ。やがて…

それまで同様、たとえナチスが政権の座についたところで短命に終わるだろうと、同僚らは楽観的だったそうですが、オシエツキーは反対の見解でした。
普段の論調を知る人達からは亡命を勧められたものの、拒否します。

「国の外から大声を出しても耳を傾けてくれない」
そんな理由でした。

そして1933年2月28日、有名な国会議事堂放火事件の翌朝に、自宅を秘密警察が急襲。本人はベルリンの刑務所に入れられ、更に強制収容所に送られます。
最初はゾネンブルクに、後にはエステルボーゲン・パーペンブルグにとたらい回し。同房にいた収容者の証言などによると、心臓を患っていたのに適切な治療を受けなかったばかりではなく、重労働を科されていたそうです。

そんな本人にとって、恐らく唯一の救いの手となったのがノーベル平和賞でしょう。
キッカケは1934年、最後の勤務先の上司だったベルトルド・ヤコブによる委員会への働きかけでした。
ディ・ウェルトビューネ紙時代の同僚でドイツ人権連盟という運動団体に転職していたヘルムート・フォン・ゲーラッハがこれに賛同。ゲーラッハはパリから委員会や影響力の有りそうな先に書簡を送り、実現に奔走します。

もっとも、時期的に間に合わず、翌年に再チャレンジとなりましたが、この時は落選し、1936年に、ようやく栄冠を頭に戴く事となりました。

 

劉暁波氏と重なる状況 まさに歴史は繰り返す

ただ、もう残り時間は長くありませんでした。
結核に冒されていたのです。

ナチスは強制収容所からの釈放を拒否し、オシエツキーは平和賞を受けるに値しない人物だと主張したり、本人は拒否したなどとほざいていました。宣伝省は、オシエツキーが受賞の為にノルウェーに向かう為に釈放されたと発表していましたが、秘密警察による記録文書によると、パスポートの発行は拒否されていたというのが現実でした。

その後、国際世論の圧力を気にしたのか、強制収容所から民間の病院に移送されはしたものの、厳重な監視下に置かれます。
今回、劉暁波氏が死の寸前に一般病院に移送されたのと重なりますね。

そして1938年5月に死去。受賞時に、ドイツの新聞はオシエツキーの受賞を報じる事を禁じられました。
これも、劉氏の受賞をインターネット上で検閲した中国政府の姿勢と重なります。そればかりでなく、ナチスは他の部門でのノーベル賞を国民が受ける事を禁じました。

なお、賞金の殆どはオシエツキーの弁護士が横領してしまいました。
露見後、弁護士は逮捕されるのですが、裁判に出廷したのが公の最後の席となってしまったそうです。

余りに過酷すぎる人生。
天国の本人からすれば、80年近くを経て自分と同じような境遇の劉暁波氏が天国に新参するとは夢にも思っていなかったでしょう。
どんな思いで、下界を見つめておられるのでしょうか。

南如水・記

スポンサーリンク

【参考】ニューヨーク・タイムズ ノーベル賞財団HP

 




1位 意外と優しい!? 織田信長さん


2位 伊達政宗さんは史実も最高!


3位 直虎の後を継ぐ井伊直政とは?


4位 毛利元就の中国制覇物語


5位 ホントは熱い!徳川家康



6位 最上義光 名将の証明


7位 最期は切ない豊臣秀吉


8位 史実の井伊直虎とは?



9位 もしも戦国武将がサッカー日本代表だったら?



10位 小野政次 34日間の天下



武将ジャパン・TOPページへ戻る



-ドイツ, 中国, 歴史・戦国NEWS

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2017 AllRights Reserved.