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週刊武春 豊臣家 関ヶ原の戦い

北政所VS淀殿~関ヶ原の勝敗を決めた女たちのキャットファイトとは!

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天下分け目の関ヶ原の合戦の原因と言えば、直接的には徳川家康VS石田三成。さらに言えば、家康が言うことを聞かない会津の上杉氏を討伐しようとしたのがきっかけだ。

日本列島を二分しただけに様々な思惑が絡んでいるのだが、大きな原因、そして結果を動かしたこととして密かに存在したのが、女たちのバトルだった。

1600年8月28日、歴史を動かした書状が届いた……。

戦国の森光子(おね)VSステージママ(淀殿)

関ヶ原の合戦は、家康が「天下を取ろうとした」戦いではないということは忘れてはならない。
この時点では、まだ秀吉亡きあとの豊臣政権の中で、誰がナンバー1(それを超える地位には秀吉の息子の秀頼がいる)の座を手にするか、コップの中の争いと言える。

秀頼の下、男性部門トップを争ったのが家康と三成とすれば、女性部門トップを争ったのは誰だったのか?

それは秀吉の妻の二人だった。一人は正妻の北の政所「おね」、もう一人は秀頼の母、淀殿である。

おねは、家康とも古い仲だが子はいない。一方の淀殿は、家康が秀頼を追い落とそうという野望を感じており、三成と意見が共通していた。

大奥(この時点ではこうした名前ではないが)において、御輿の秀頼を手中におさめる淀殿が有利で、おねは生命の危険すらあったようだ。

おねは人格者で、子を産んだことはなかったが、その代わりに数々の養子を自分の子として育てた。そのため、前線の武将たちにとっては「みんなの母さん」であった。ジャニーズにとっての森光子のようなものである。

この養子のなかに、小早川秀秋がいた。いわずと知れた関ヶ原の合戦で西軍を裏切り、勝負を決定づけた男である。
秀秋は、毛利一門の小早川を名乗っているが、もとはおねのおいっ子(彼女のお兄さんの息子)である。特にかわいがったことは間違いない。のちに小早川家に養子に出されていたのだ。

関ヶ原の合戦というのは、東軍は家康が大将だが、じつは西軍の大将は毛利輝元(元就の孫)。そのため、毛利一門の秀秋は当初、西軍についた。

 

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軍師官兵衛の息子が送った手紙

そんな彼に、名軍師官兵衛の息子、黒田長政が心の琴線に触れる手紙を送ってきた。長政は東軍である。

「例の件だけど、2、3日中に家康さまが到着します。それまでに決断をしてください。まずい状況にある北の政所さまを守るには東軍に付くしかないですよね」

手紙の日付は8月28日なので関ヶ原の合戦(9月15日)の半月ほど前である。
こうして秀秋は開戦前から「心は東軍」となったのだった。

この「勝ったら百万石あげる」「十か国あげる」などの金目当ての誘いではなく「おばちゃんを助けようぜ」の人情で、「その時歴史は動いた」のであった。

おねと淀殿の確執は、大名たちの間では常識の話であったようだ。
常識のことを人はあえて書き残したりしないので、歴史の盲点となる。この女の確執が戦況を動かしたという新説は、平成になって、戦国史研究者の笠谷和比古さんによって明らかにされた。(116頁ほか 笠谷和『関ヶ原合戦』)

川和二十六・記

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参考文献
笠谷和比古『関ヶ原合戦』(講談社学術文庫、2008年)

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