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週刊武春 毛利家 関ヶ原の戦い

関ヶ原を決定づけた「毛利の手弁当(空弁)」 本当の裏切者は吉川広家?

更新日:

毛利本隊は2万以上 全力で働けば西軍勝利も?

「腹が減っては戦はできぬ。できればデザートも合わせて食いたいなり」

たとえ戦のまっただなかでもランチを心配をする――なんとノンキな話でしょうか。
しかし、これが歴史を動かす大合戦への日和見の言い訳なら、話は変わってしまいます。

ときは1600年。
そうです、あの天下分け目の関が原の合戦において、動かずじまいの西軍主力・毛利軍を称して
「毛利の手弁当」
「宰相(さいしょう)殿の空弁当(安芸宰相は総大将の毛利輝元の官位)」
「毛利の空弁(からべん)」
という故事があります。

関が原で毛利軍は、家康本陣の背後にある南宮山に布陣しておりました。
その数、実に2万数千人。全軍が機を見て南宮山を駆け下りれば、いくら家康の後衛に池田輝政隊と浅野幸長隊ら(合わせて兵力1万人程度)がいるからといっても、そう簡単には防げなかったでしょう。

しかも毛利は西軍の総大将(その総大将の輝元は大坂城にいたとはいえ)。
否が応でも士気は高まるハズです。

なぜ、そんな状況で、しかも天下分け目の大戦といわれる関が原において、動かない事になってしまったのか。

それは「毛利の両川」とされた重鎮・吉川広家が、南宮山の麓にいて、山頂にいる毛利本隊を先導する役目だったことにあります。
このとき広家は、南宮山で毛利軍の大将である毛利秀元(輝元のいとこで養子)の補佐役に任じられていたのですが、彼が戦を動かしたのです。正確には兵を動かさなかったのです、ややこしいですが。

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 言い訳が尽きて「これからランチなので」

広家は東軍が勝つと予測して、早くから軍師官兵衛の息子で東軍の黒田長政らと通じておりました。
関が原の合戦で「この戦いに毛利軍は動かない」という密約を交わしていたのです。

関が原の戦の最中、西軍の好機は幾度となく訪れます。
その都度、仲間からの出陣要請に対して、「霧が深い」などと尤もらしい理由で動かなかった広家ですが、戦の終盤、毛利秀元本隊より、「今こそ東軍の背後を付けば、100%勝てるのに何故動かないのか」という問いかけの頃には、いい加減、理由のネタが尽きてしまって、苦し紛れに「今から兵に弁当をとらせるので……」と言ったというのが、この故事の由来です。

三本の矢も重ねれば強いのでしょう。
されど「毛利の両川」の2家(吉川と小早川)が裏切っているのですから、奇しくも毛利元就の教えの逆を地でいった出来事が関が原で起こってしまったようです。
なんとやら。

むしろ毛利さんのほうがランチをやけ食いしたい気分だったのではないでしょうか。
以上、毛利家の山口県から戦国のランチ事情をお伝えしました。

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