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「あつものに懲りてなますを吹く」の超絶転落人生』【中国のビックリ名言】

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「あつものに懲りてなますを吹く」の「あつもの」は「羮」、「なます」は「膾」と漢字で書きます。

一度目で失態したことに懲りて、以降に過剰ともいえるほどの警戒心を抱くことです。
羮(こう=あつもの)は、野菜や肉を煮込んだとろみのある熱々のスープでヤケドをした経験から、膾(かい=なます)すなわち、肉の生片を調味料で味付けした冷たい料理にもフーフー息を吹きかけてしまうということです。
このことわざは、漢字の難しさから想像したかもしれませんが、元々、中国由来です。

屈原kutsugen

元の漢文は「懲羮而吹膾」(羮に懲りて膾を吹く)。出典は、屈原(前340年頃~前278頃)の『楚辞』の九章・惜誦篇にあります。屈原さんとは、戦国時代の楚の政治家で詩人です。Bushoo!Japanでもたびたび取り上げられるマンガ「キングダム」の始皇帝(前259~前210)の少し前の時代ですね。

 

中国史上ピュアすぎる政治家

中国の政治家にとって、屈原の存在やその詩篇は大変に都合の良いもののように思えます。
屈原は、後述しますがその激動の人生から、中国ではことに好まれ、今日に至るまで「謹厳実直な高潔の士」との高評価が定着しています。

大物政治家の不正蓄財の事実や、あるいは失脚、勇退の報に接するたびに屈原の詩句の一節が引かれて、えん罪を訴えたり、政治の表舞台からの退出の潔さや正当性を言い立てる根拠とされてきました。
屈原の『楚辞』の言質は恨みや無念さに溢れています。

さきに中国の首相を務めた温家宝氏も、ごく近しい親族の多額の不正蓄財を米紙にすっぱ抜かれた折には、やはり屈原の詩をわざわざ引用して、蓄財疑惑をきっぱり否定した上に「首相を辞した後には、私のことを忘れ去ってほしい」と意味ありげな発言をしています。

実は、原典では、膾(かい)は「韲」という別の漢字になっており、韲は冷えた食べ物である「和え物」のことです。膾と韲とはほぼ同意ですが、膾は主に切り分けた鳥や豚などの肉に調味料を合わせて生食する料理を指しました。
魚肉を用いて同様の調理をしたものは「鱠」と記し、または「魚膾」ともいいました。
日本では「なます」と言えば、一般的には魚介とキュウリなどの野菜の和え物のことで、酢の物とも言いますが、
春秋戦国時代の中国ではちょっと料理の意味合いが異なります。

 

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王族から一転、直言すぎて左遷、左遷、左遷

このことわざの元となったのは、屈原の「惜誦」という詩の一節です。

屈原は、楚の王族系でも景氏や昭氏と並ぶ屈氏(三閭と呼ばれる)という名門の家系に生まれ、学問に励み、他に並ぶ者のないほどの博識多聞で知られ、詩文にも通じていました。
楚の懐王の時に登用され、賓客を応接する左徒(副首相格)という官位に任命されて、制法草案の作成などを任され、一時は信任も厚く、重用されました。

屈原の『楚辞』の「渉江篇」に「私は幼少時より、世に珍しい気品の高い服を好んで着用し、年老いた今でもその心掛けは忘れない。名剣や長鋏の飾りはきらびやかに輝くものを帯刀し、切雲の冠はそびえているものを被り、明月の玉を背飾りにして、宝玉を腰の帯締めに付けている」と自ら述べていますが、まず形からはいるような、他を圧倒するほど自意識が強く気位とプライドの高い人でした。

当時の楚では、西の大国・秦とどう向き合うかが最大の政治課題でした。
秦への対応策を巡って、秦と同盟して安泰を得るとする親秦派と、東の斉と同盟することにより大国・秦に対抗しようとする親斉派の2派に分かれていました。
屈原は有力な親斉派でした。彼は、自説を容易に曲げずに非常に剛直であったために、対立者や他の同僚から疎んじられて讒言(ざんげん)を受け、懐王の傍から遠ざけられ、同時に楚の大勢は親秦派に傾きます。
讒言とは、他人を陥れようとして、事実を曲げたり、偽って悪(あ)しざまに言う中傷・告げ口のことです。

それでも屈原は、秦は信用ならないと必死で説きますが、やはり受け入れられず、彼の心配どおり秦の謀略家・張儀のわなに懐王が引っかかり、楚軍は派兵して大敗を喫してしまいます。
丹陽と藍田の戦役の大敗後、逆に彼は一層疎んぜられて、公族の子弟の教育係である三閭大夫へ左遷され、ますます政権から遠ざけられました。

さらに、秦は楚の懐王に婚姻を持ちかけて和議のため秦に来るように申し入れてきました。屈原は秦を信用してはならない、先年に騙されたことをお忘れかと諫めますが、懐王は親秦派の公子・子蘭の進言を聞き入れ秦に行きます。
しかし、懐王は、まんまと秦に騙され、そのまま監禁されてしまいます。
王を失った楚では、後継に頃襄王を立てます。頃襄王の令尹(丞相)には子蘭が任命されたため、さらにさらに屈原は疎んじられて江南へ左遷されてしまいます。その後、秦の侵攻で楚の首都・郢が陥落し、屈原は楚の将来を絶望して、石を抱いて汨羅江(べきらこう、洞庭湖に注ぐ湘水の支流)で入水自殺しました。

 

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ちまきの原点はなんとこの人の遺体を守るため

端午の節句には「ちまき」を食べる習慣があります。さらに、香港など中華圏や中華街を抱える都市でよく見かける伝統的な競艇競技であるドラゴンボート(龍船)競争は観光の目玉です。
この二つ行事に共通点があります。さて何でしょうか?

答えは、いずれも屈原の入水にちなんだ行事なのです。
五月五日の端午の節句は、くしくも屈原が石を抱いて汨羅(べきら)に入水したその日です。屈原が没した汨羅では屈原を慕う楚の民衆が水中に没した屈原の死体(亡骸)を魚がついばまないように米飯を笹に包んで川に投げ込んだのが「ちまき」の由来の始まりだと言われています。

ご近所さんに手作りちまきいただいた - 無料写真検索fotoq
photo by Mayu ;P

また、屈原が入水したのを見た民衆が、屈原を助けようと先を争って船を漕いだことに由来すると言われています。いずれの楚の民衆の行為も、屈原の無念の気を鎮めるために毎年の年中行事となっています。

Retread of Dragon Boat Race by Pamelalong.. - 無料写真検索fotoq
photo by kevinjay.

日本でも、大宰府に左遷されて客死した平安時代の菅原道真と重なる面があるかもしれません。道真は、神として祭られることになりましたが、屈原の場合は民衆から長く慕われる年中行事として引き継がれています。

 

超ネガティブなポエムだぜ~

屈原の『楚辞』に記された詩句は告発と恨みに満ちています。
「漁父辞」では「世の中は、皆濁っているが、私だけ独りが清いのみだ。衆人は皆酔っているが、私だけ独り醒めている。だから追放だれたのだ。どうして、この清い身に汚らわしいものが受け入れられようか。いっそ、湘水に身を投げて、魚の餌になろうとも、純白のこの身を世俗の塵にまみれさせることができようか」と記しています。

また「惜誦」では「私は忠を尽くして、かえって恨まれたと聞いた。これは何かの間違いだ」と述べています。

さらに「渉江」では「忠義ある者が必ずしも用いられず、賢徳ある者も用いられない。しかし、私だけは我が道を正しく守り、躊躇しない。もとより、暗い境涯で終わろうとも覚悟はできている」とも述べています。

同様に「生臭いものや油まみれの汚れた者が登用され、良い香りを放つ者は近づくこともできない。陰と陽が入れ替わり逆になり、この時世が道理に外れているのだ」と。または「哀郢」では「忠誠な者が丁重な態度で仕えて用いられようとすれば、それを妬む者が群がり集まってこれを妨げる。讒言をする者は嫉妬して、彼らにありもしない罪名を着せようとする。君主は人の善美なる行いを憎み、つまらない小人の言うことを好まれる。そのため小人が用いられ、立派な者は去っていくのである」と述べています。「懐沙」では「優れた者を悪く言い、秀でた者を疑うのは、もとより世の凡庸な人の態度である」と手厳しく凡庸な君主を弾劾口調で述べています。

ポイントは「清官」と「濁官」というあたりにありそうです。
屈原は、楚の懐王に信任されていた時には清官として法制案の起草や外交交渉役として重用されますが、歯に衣着せぬ直言や強い正義感のために次第に周囲の同僚や取り巻きから煙たがられてしまいます。

当時の清官とは、要職にある執政官であり、濁官とはエリート街道を外れた閑職官僚のことです。屈原は周囲の者からの讒言を受けることもたびたびあり、次第に疎まれ閑職の濁官の地位に追い込まれていきました。

 

司馬遷も感動!民衆のヒーローに

しかし、現実に立ち返れば、屈原はいささか自身の論理にのめり込み過ぎているきらいがあります。
ただ、濁官に甘んじながらも、自らを偽ったり、自説を曲げようとしなかった点が、民衆好みのヒーローとなれた理由でしょう。『史記』の作者・司馬遷も、わざわざ汨羅を訪れ屈原の無念の情に思いを馳せています。
また、政情も屈原に味方しました。屈原の対立者の進言による歴代の君主の決断はことごとく裏目に出て、屈原の反対の言説を正当な主張に押し上げました。歴史の現実は屈原に味方した形になりました。故に屈原の無念の死は、楚の民衆の間で深く惜しまれたのです。
屈原という人は、人間的にはいささか鼻持ちならない気位の高い、特権意識や自意識の過剰な人物像ではありますが、それでも時代は屈原に紛れもなく味方したのです。

また、屈原が不言実行の人で、傷心の末にも生き延び身をやつすような生き様を晒していれば、ここまで勇名を馳せることはなかったでしょう。こうした孤高の潔い生き方は、まさに民衆好みです。また、民衆受けをねらう政治家にとっては都合の良い人物像ではあります。

屈原の孤高の高潔さが、様々な妥協を持ちかける手練手管に対して、この諺のように、屈原に常に慎重な態度を取らせたために、自説が手枷足枷となって自らを信義的に追い込み、悲劇を生んだのだと解釈されます。
いつの時代でも、世に馴染まず、清濁併せ呑むような度量の広さを持ち合わせない人は、組織の出世街道からは弾き出されてしまいます。それは、屈原が「清官」の道を渇望しつつも、結果的に自ら望まない「濁官」へと追いやられていったようにです。

逆に、度量の広さや豪胆さとはほど遠い見て見ぬふり、失敗も他人の責任だと押し通し素直に認めようとしない、他人の成果の足を引っ張る事で自分の成果の方をプラスに見せようとする、最低でもプラスマイナスゼロには持ち込む、とにかく自分の手柄を強調する、尤もらしい言い訳が多い――などなど、策を弄することが「大人」(たいじん=立派な人)の条件と見なされるようになってしまいました。中国では、そういう人が組織のなかでは出世してきたのです。

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かつての中国の「麻雀」世界から成果主義へ

よく中国人の振る舞いを「麻雀」に喩える人があります。
麻雀の醍醐味は「相互監視の中での遊び」という要素にあります。つまり、三方に目を配り、策を弄し、相手の手をよく読み、手段を尽くして対抗する、必要があれば牽制します。そして、結局、自分が上がれないならば、他の者にも上がらせない。
社会組織のなかに組み込まれて、埋没しそうで、自分が出し切れないならば、他の競合者を叩いてでも何とかイーブンに持ち込む。

しかし、世は移り変わり、現在は成果主義の世の中となり、さしたる実績がなければ、やはりトップの椅子も回っては来なくなりました。足の引っ張り合いだけでは、上位のイスには届かないのです。

自己アピールも他人の高成績には、かき消されてしまいがちです。どうしたら自分を売り込めるか、自己保身はどうすれば図れるのか、悩ましいばかりです。
古来の賢者のように、ひたすら爪を磨いて待てば、向こうから使者やお迎えがやってくる時代ではなくなってしまったのです。

逆に、こうした世の中にあって、高潔の士は、その希少さゆえに、砂漠の中でもキラリと光る宝石粒でもあるのです。ほどほどの生活術に長けておれば、それほど遁(とん)世を決め込み、家の中に閉じこもったり、人里離れた田舎に引きこもることもないでしょう。

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りんれい・記(中国在住)

 




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