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週刊武春 伊達家

400年の時を経て~伊達政宗とサムライの浪漫がスーパーモデルとして開花す

更新日:

問題です。この女性は誰でしょう?

う~ん、迫力美人ですね~。(写真は海外の芸能WEB「poprosa」)

どう見ても黄色人種には見えませんが、彼女にはれっきとした日本との繋がりがあります。それも400年も昔に遡る程の。

答えは、マリア・ホセ・スアレス。1996年のミス・スペインであり、現在もタレント、モデルとして幅広く活躍されている女性です。

サッカーの名門レアル・マドリードのFWクリスティアーノ・ロナウドやプロテニス選手のフェリシアーノ・ロペスとの交際の噂などもありましたね。きらびやかな世界で輝かしいキャリアを積まれてきた女性です。

え?彼女が何者なのかは分かったけど、肝心の日本との繋がりが分からないって?

 

ヒント1 太陽の沈まぬ帝国スペイン

それではヒントその1。

彼女はスペイン人です。

スペインで約400年前と言えば、「太陽の沈まぬ帝国」スペインの最盛期を現出したフェリペ2世が有名ですが、彼女のご先祖様が日本人と関係した時代は、フェリペ2世の後継で、残念ながら後に「怠惰王」の異名を取ってしまう程の怠惰っぷりを民衆に見せ付けたフェリペ3世の時代でした。

フェリペ2世の勢力図

フェリペ2世が世界に広げたスペインの統治/wikipediaより

何が怠惰ってこの人、「火鉢に当たり過ぎた事による熱中症」が死因なのだそうです。熱くて火鉢移動係を呼んだけど、ちょうどその時係の人が休みを取っていたので、そのまま当たり続けて死亡したのだとか。……え?

いやいや、そんなふざけた死因があるはずがない、一酸化炭素中毒だったのだろうという説が最近は有力ですが、彼にはそんな噂がまことしやかに囁かれてしまう程に遊興に耽りまくり、在位期間中の政治を臣下に丸投げした王様でした。

歴史的に見て彼の時代のスペインは領土的には最大の版図を誇りましたが、世界の覇権を一手に握っていたはずの太陽の帝国は、彼の即位以降ものすごい勢いで衰退して行くことになります。

 

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ヒント2 あの問題児、伊達政宗さんが

ヒントその2。

当時の日本と言えば徳川幕府が成立して間もない頃です。

慶長19(1614)年と言えば大坂冬の陣ですね。前年の18年には大久保長安事件があり、大久保と対立していた本多正信・正純親子が家康に対し「長安が政府転覆を企てていたよ!」という虚偽の報告をして、ライバル大久保一族とその家臣、親交の深かった大名などを軒並み粛正、改易させています。

全国の鉱山奉行を務めていた長安は、アマルガム法という新しい金属の精錬方法を伴天連達から入手し莫大な利益を得ていました。
この巨富を元に長安が豪奢な暮らしをしていたのは事実のようですが、真実その財産を元に謀反を企てていたかというと、これはどうも本多親子の讒言であったようです。

漫画「へうげもの」では彼と仙台藩主伊達政宗による謀反の企てのシーンが描かれていますが、史実は長安の死を契機に本多親子が大久保一族を一掃しようと画策したのであって、「大久保長安事件」とは、本多正信・正純親子を中心とする文治派と、大久保忠隣、大久保長安などを中心とした武断派の権力闘争の一つの形であった、というのが事件の真相のようです。

しかし、伊達政宗という人は、度々謀反の疑いを掛けられる割に致命的なダメージを回避するのが上手な人ですね。敵に回すと厄介な遠方の大藩主であるというのもその理由の一つでしょうが、小田原の北条征伐への遅参、葛西大崎一揆の扇動、秀次事件、そしてこの大久保長安事件と、様々な大名家やその一族、家臣などが次々と粛正、改易の憂き目に遭う中、なぜかこの人はお咎め無しだったり、領地没収で済んでいたりします。

20130825伊達政宗ph

大久保長安事件の最中にも「伊達の黒船」サン・ファン・バウティスタ号なんて洋式のガレオン船を建造してヨーロッパに派遣し、時の教皇パウロ5世に「奥州にキリスト教を広めたいから宣教師を派遣して下さい」なんて書状を送ったりしています。一応、幕府からの外交権の委託を受けて行われた「天下人外交」というやつではあるのですが、幕府による禁教令発布中に度胸あるなあ、としか言いようがありません。

 

ヒント3 「世界記憶遺産」になったアレっすよ

ヒントその3。

ここで大ヒント!彼女のご先祖様はスペイン南部、大都市セビリヤの南にあるコリア・デル・リオという町に住んでいました!

え?だからなんだって?

コリア・デル・リオという町は、今でこそグアダルキビール川という、イベリア半島最長の河川の畔にある人口三万にも満たない小さな町ですが、400年前、つまりヨーロッパでの大航海時代には、新世界からの様々な財物を積んだ船が川を北上して首都マドリードを目指すため、この町は寄港先として大いに繁栄しました。

コリアデリオの町(Wikipediaより)

コリアデリオの町(Wikipediaより)

当時のスペインは世界の各地に広大な植民地を有しており、世界中から集められた様々な品物で港はごった返していたそうです。先の伊達政宗が派遣した使節もこの町に立ち寄っています。

さて、ヒントは以上です。彼女と日本との繋がりがどんなものかお分かりになったでしょうか?

大航海時代のスペイン、フェリペ3世、伊達政宗、サン・ファン・バウティスタ号、天下人外交、教皇パウロ5世、そしてコリア・デル・リオと言えば、仙台藩主伊達政宗が、宣教師ルイス・ソテロを正使、家臣支倉常長を副使として、スペイン王フェリペ3世及び教皇パウロ5世のもとに派遣した「慶長遣欧使節」が正解です。

政宗が支倉常長を派遣したサン・ファン・バウティスタ号(復元)(宮城県HPより)

政宗が支倉常長を派遣したサン・ファン・バウティスタ号(復元)(宮城県HPより)

コリア・デル・リオとは、仙台藩とスペインとの貿易に関する平等条約を締結するため仙台藩から派遣された支倉常長一行が、いくら訴えてもはっきりした返答を寄越さないスペイン国王の返書を待つために九ヶ月程滞在した町で、冒頭のマリア・ホセ・スアレスさんはこの町のご出身です。

 

「私はセビリア人と日本人の混血なの」

彼女は地元のマスコミの取材に対し「私は、セビジャーナ(セビリア人女性)とハポネース(日本人男性)の混血なのよ」と答えて世間を賑わしました。

どれくらいの賑わし方かというと、最終的には今年の6月に皇太子殿下がコリア・デル・リオにいらっしゃって、日西交流400周年記念に桜を記念植樹なさるほどの賑わしぶりです。こちらのニュースは新聞などでも取り上げられましたのでご存じの方も多いのではないでしょうか。

なぜマリアさんが日本人との混血であるとこんな大騒ぎになってしまうのかと言いますと、コリア・デル・リオには「ハポン((西)XAPON→(英)JAPAN)」の姓を持つ人々が600人程いて、マリアさんを含む彼らは「自分達は400年前に日本からやってきたサムライの末裔である」だと言うのです。

ちなみにマリアさんはハポン姓ではありませんが、お祖父さんがハポン姓をお持ちなのだそうです。

 

「悪い市長」さんや「疲れたハゲ」さんなどの名字も

すぐには信じられない話かもしれませんが、彼らがそう思っているのにも根拠があるのです。

まず、ハポンという名字について。
「日本さん」なんて余りにもダイレクトかつ曖昧すぎる名字、本当に付ける人がいるのかしらと思った方もいらっしゃるかと思いますが、スペインでは出身地の名前をそのまま名字にしちゃう事は良くあることなのだそうです。

例えばフェリペ2世のお抱え画家のエル・グレコはGRECO→(英)GREECEで「ギリシャさん」。ギリシャ人としての彼の本当の名前は別にあるのですが、スペインでは「ギリシャさん」。同じように、日本からやってきたサムライ達も「日本さん」として十把一絡げに扱われたとしても何の不思議も無いそうです。

元々スペインという国は変な名字が多い国でして、「大きいおっぱい」さんや「悪い市長」さん、「疲れたハゲ」さんなど、他にもここでは書けないような変な名字がたくさんある国なのですが、そんな訳で「日本さん」など、他のインパクトがあり過ぎる名字の中では全く普通の名前であって、日本人からするとどうにも大雑把に感じられるこの名前も、スペイン的には全くおかしくないとの事です。スペインの名字凄すぎる。

 

まさか!? この美女にも、も、も、蒙古斑が!?

次に、彼らの中には幼少期に蒙古斑がある者が相当数いるということが挙げられます。

蒙古斑とは赤ちゃんのおしりや背中にある青い痣のことで、世界でも黄色人種にしか発現しないものです(ネグロイドの人にも一定数発現するようですが、その場合は元々の肌の色もあって良く見えないのだとか)。欧米ではこれを見た人が虐待でできた痣と勘違いして警察に通報してしまうこともあるくらい珍しいもののようです。

そして、コリア・デル・リオはスペインにおける米の主要な産地の一つなのですが、基本麦と同じで地面に直接播くタイプの栽培をしているヨーロッパの中で、なぜかこの地域だけが唯一苗床を作って種付けをする方式で稲を栽培しています。そう、日本と同じやり方です。

そしてトドメに、1615(慶長19)年に26人のメンバーでスペイン本国に上陸した慶長遣欧使節ですが、1620年に帰仙した際には数人の脱落者が出ていたようです。出発した人数と帰国した人数がどうも合わない。資料によってその数はまちまちですが、少なくとも6人以上のメンバーが日本に戻ることはなかったようです。

まあ、肝心の条約は結べず終いだし、日本でのキリスト教弾圧も酷くなる一方。なのに洗礼だけは受けちゃったとなれば、逃げたくもなりますよね。

 

震災の折には献花や祈りが後を絶たなかった

使節の副使で逃げる訳にはいかなかった支倉常長が身を潜めるようにして帰仙した後、本当の名前である「長経」も支倉の家系図から消されて「常長」とされ、後に家族からキリシタンを出してお家断絶となった事からみても、敬虔なキリスト教徒で信仰を捨てることができなかった彼らは、家族や主家に迷惑を掛けないためにも日本に帰る事はできなかったのかも知れません。

支倉常長(仙台市博物館特別展パンフより)

支倉常長(仙台市博物館特別展パンフより)

日本ではつい最近まで知られていなかったこの事実ですが、海の遙か向こうのスペインでは当時から知られており、彼らは400年も前に「命と人生、大帝国スペインとの対等な通商条約締結」という夢を賭けて自分達の町に辿り着いたサムライ達が自分達の祖先の一人である事を、今でもとても誇りに思っています。

先の震災の折りには「コリア・デル・リオに避難したい人がいれば市民権を与えます」との広報があり、グアデルキビール川の川岸に建つ支倉常長像には、日本のために献花や祈りを捧げる市民が後を絶たなかったそうです。

 

慶長遣欧使節団の苦難が400年後に実を結ぶ

当時だけを見れば、慶長遣欧使節は失敗でした。

条約は結べず、脱落者も多く出て、帰国した者も、彼らの果たした太平洋・大西洋連続横断、スペイン王及び教皇への謁見、ローマ市民権拝領などの様々な偉業や見聞きした広い世界の事を誰にも知られないまま、隠れるようにしてその後の人生を生きて行かなくてはなりませんでした。

支倉らがヨーロッパから持ち帰った様々な品物は、長い間仙台評定所(藩の裁判所ですね)切支丹改所の物置に他の様々な犯罪の証拠品などと共に仕舞い込まれて忘れられており、彼らの功績が日の目を見るのは明治維新後、仙台で開かれた宮城県博覧会にて「慶長遣欧使節関係資料」を東北巡幸中の明治天皇が天覧する時までを待たねばなりません。

常長が持ち帰ったという金のロザリオが政宗の墓から出てきている(仙台市博蔵)瑞鳳殿HPより

常長が持ち帰ったという金のロザリオが政宗の墓から出てきている(仙台市博蔵)瑞鳳殿HPより

しかし、400年経った今、彼らが残していった行跡が一万キロの距離を越えて再び日本とスペインの両国を結びつけています。

長い時を経て、海を渡ったサムライ達の夢が今、実現しているのです。



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鈴木晶・記(宮城県在住)

 

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