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北斗の拳に脳内変換したらバッチリわかる!聖徳太子以前の日本古代史

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「飛鳥時代」って、具体的にいつのことだかご存知でしょうか?歴史の授業でも出てきますが、この時代区分というのは意外に難しいです。
 日本大百科全集(小学館)を見ると<一般には推古朝(593~628)前後から大化改新(645)までとするのが普通であるが、これをさらに天智朝(662~671)ごろまで下げて考える説も美術史家の間には行われており、さらに時代を下げて平城遷都(710)までを飛鳥時代とみる説もある> という具合です。

 この「飛鳥時代」に日韓(日本と新羅)が一触即発になっていた状況で、九州の豪族が新羅から豪華な馬具をもらっていたらしいというのがNHKのクローズアップ現代「明らかになる古代の日韓交流史」(12月2日放送)でした。

 その前史。つまり、そもそもなんで日本と新羅が緊張状態にあったのかという継体天皇のお話をきのう武将ジャパンにて書かせていただきました。

「古代の日韓交流史」NHKがクローズアップした時代の少し前になにが起きたかまとめた

 思いがけず大変な好評となったため続編として「本当は武闘派だった聖徳太子」という記事を予告していましたが、実は継体天皇と聖徳太子(推古朝)の間には、もうワンクッションの時代があったのです!

 いずれも継体の息子である安閑、宣化、欽明の3人の天皇の時代です。あんかん、せんか、きんめい…なんて古代史好き以外、聞いたことのない人たちかもしれませんが、古代の日韓関係(日本と韓国ではなく、日本列島と韓半島)では、とても重要な、まさしく歴史を動かした人物たちです。

 3人が在位した、531年(後述のように諸説あり)から571年までの40年間の歴史を知ると、きっと古代史が好きになると思います。しかし、意味の分からない名前が何人も次々にでるとわけが分からないと思います。

そこで名著「北斗の拳」に脳内変換していただきます。

父・継体天皇=リュウケン
ryuken 

長兄・安閑天皇=ラオウ
raou

次兄・宣化天皇=トキ
toki

末弟・欽明天皇=ケンシロウ
kenshirou

ヒロイン・石姫=ユリア
yuria

おまけ・蘇我稲目=バット
bat

*ジャギのことは忘れてください。(画は北斗の拳オフィシャルサイトよりお借りしました)

思いがけず皇位に就いた継体天皇の悩み

 3人のお父さんのリュウケンこと継体天皇は、一応、古い天皇の子孫ということになっていますが、断絶した皇統をつないだ事実上の新王朝の始祖といえます。

 北斗神拳を一子相伝(即位)した時にすでに58歳とかなり高齢だったリュウケン(継体)は、即位した時から自分の死後のことについて意識をしていました。というのも、自分が予想外の天皇位につけたのも、もとはというと、後継者争いが混沌しすぎて、最後には候補者が「誰もいなくなった」という歴史を若い頃から見聞していたからです。

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血のつながる兄弟、母の違う末弟

 リュウケン(継体)には三人の後継候補となる息子がいます。

 これがまた、文字で書いても複雑で分かりにくいので系図を見てください。

ankankinmei安閑から欽明まで系図

恵美嘉樹「安閑・宣化・欽明とニ朝並立論の検証」『古代天皇列伝』(学研)より

 58歳ですから、とっくの昔に結婚していました。奥さんは尾張氏(愛知県)の女性で、彼女が生んだのがラオウこと安閑とトキこと宣化天皇となる年子の兄弟です。即位したときはそれぞれ41、42歳くらいといい大人でした。

raou
toki

一方で、リュウケン(継体)は即位後すぐに若い皇女(仁賢天皇という人の娘)を皇后に迎えました。うらやましい、いや、王権を補強するために必要だったのでしょうね。で、生まれたのが飛鳥王朝の祖ケンシロウことのちの欽明天皇です。

kenshirou

 つまり、3兄弟といっても、兄二人と弟は40歳くらいの差があるのです。
 地方から来たリュウケン(継体)に、大和(奈良)の主要な豪族が反発し、なかなか大和盆地に都を置けなかったことは前回書きました。となると、彼ら豪族たちが向ける、息子のラオウとトキ(安閑・宣化)兄弟に対する視線も容易に想像できますね。

 継体が即位後20年もたってから、ようやく大和盆地に入れた理由の一つには、大和の豪族たちも「仁賢天皇の孫もいるのか。じゃあ、いいか」と納得できるケンシロウ(欽明)が17歳に成長して、将来の天皇になれる目算が立ったためかもしれません。

「息子を守りたい」継体がとった「皇太子制」と「生前の前方後円墳」

 さて、ここでみなさんにも想像していただきたいのですが、自分が継体の立場なら、上の兄弟と下の弟のどっちがかわいいですか?
 どっちもかわいいですよね。

 なにも相続対策をせずに死んでしまうと、立場の弱い上の兄弟たちは、大和の豪族たちのクーデーターによって排除される可能性が高かったのです。

 というのも、当時、天皇の地位は天皇家だけで決めることはできませんでした。天皇の死後に、豪族たちが推挙してはじめて即位できるという仕組みだったからです。さすが和の国、談合主義…。

 リュウケン(継体)は82歳(2頁目で後述するように85歳だったようですがややこしくなるので日本書紀に従って)で崩御するのですが、死の前に、起死回生の手を二つ打ちます。

 ひとつは、「皇太子」(当時は「大兄」)という地位を作り、皇位継承者を死ぬ前に決めました。ラオウ(安閑)を勾大兄としました。

raou

 もうひとつは、自分の墓(今城塚古墳=大阪府高槻市)を生前に造営しました。

恵美嘉樹ほか『古代天皇列伝』(学研)より

恵美「継体天皇と新王朝の成立」『古代天皇列伝』より

 普通は墓は死後に作られるものです。生前に用意する墓を「寿陵(じゅりょう)」といいますが、その場合は、立地、埋葬施設、儀式の方法まで本人の強い意志が込められます。

 畿内(大和や河内)という伝統的な天皇陵の場所ではなく、当時は「畿外」の摂津(大阪北部)に置いたのは、大和での政治基盤の弱いラオウ(安閑)を守るためだったのではないでしょうか。

 摂津を流れる淀川は、リュウケン(継体)が当初から宮を置いた勢力圏内だからです。

 また、古墳のすその葬祭儀式のための空間に、大量の埴輪が計画に基づき配置されていたことが考古学の調査から判明しています。これは、ラオウ(安閑)を荘厳な葬儀の喪主にして、自分の後継者であるということを世に知らしめるための工夫といえます。

ラオウ・トキvsケンシロウではなくラオウvsトキ・ケンシロウだった!

 では、ラオウ、トキ、ケンシロウ(安閑、宣化、欽明天皇)へと政権は穏やかに移譲されたのかというと、やっぱりそううまくはいきませんでした。

 どうも、クーデタがあった情況がうかがえるのです。

 日本書紀が準拠している『百済本記』という資料(現存していません)には、リュウケン(継体)とともに、ラオウ(皇太子)が同時に死んだとあるのです(正史の『日本書紀』でも安閑天皇は即位からわずか一年数か月で死亡しますが)。

 『百済本記』というのは、のちに滅亡する百済から日本へ亡命してきた人たちが飛鳥時代にまとめた歴史書です。滅亡前の百済と日本との外交記録などがかなり正確に残されていたようで、日本書紀の編集者は、信頼性の高い資料として信頼を置き、かなり利用したようです。

 一体、誰と誰が皇位を争ったのか。

 従来は、ラオウ・トキ兄弟が共同戦線を張って、母の違うケンシロウと争ったとされてきています。

 その最大の理由は、二人の母が同じで、ケンシロウとは母が違うからということなのです。

 一見、納得できそうですが、同母兄弟が仲が悪いなんてことは、歴史上でも隣の家を見ても自明なこと。母が同じだから協力するなんてことは理屈にはなりません。
 恵美嘉樹が勝手に言っているだけだろう?ですって。ちゃんとそういっている歴史学者もいます。例えば、『謎の大王 継体天皇』(文春新書)の著者、堺女子短大准教授の水谷千秋さんも、「安閑天皇」VS「宣化・欽明天皇」連合という対立があったとしています。

天皇の直轄地を次々に増やしていく拳王

raou

 長兄ラオウこと安閑天皇は、天皇の直轄地である屯倉(みやけ)を全国各地に作り、経済的な基盤を強化して、中央の豪族たちと対峙する姿勢を見せました。まさに北斗の拳のように。
 さらに地方の有力な豪族を自分の息のかかったものに据え代えようとしました。例えば、『日本書紀』には武蔵国造(むさしこくぞう)の乱が載っています。
 もともと武蔵国の豪族のトップを占める国造(「国造」という呼称はまだありませんでした)の地位を、ラオウの力で奪ってしまったことを示唆する内容です。

武蔵国造イメージ(ウイグル獄長)

武蔵国造イメージ(ウイグル獄長)

 新たに国造となった男は、ラオウに4か所の屯倉を贈呈しています。『日本書紀』に残るだけでもラオウが設置した屯倉の数は全国で26にも上っており、武蔵のケースのような事例が全国でたくさん起きたと考えられます。

困った豪族たちがトキを担ぎ上げる

toki

 当然、追い落とされた地方の豪族からは不満の声が上がります。この声を背景に中央の豪族が、次兄トキ(宣化天皇)を担ぎ上げてクーデタを起こしたというのが筋書きのようです。

トキはユリアをケンシロウと結婚させ、絆バッチリ

 トキ(宣化)は、娘のユリアこと「石姫(いわひめ)」を、中央豪族たちのホープである末弟ケンシロウ(欽明)に嫁がせます。

kenshirou

yuria
 ここにトキとケンシロウが手を結び、「北斗の拳」『百済本記』の通りに、ラオウは倒されるのです!

 ラオウの死後、536年に即位したトキ(宣化)はバットこと蘇我稲目(そがのいなめ)を大臣(おおおみ)に抜擢します。蘇我氏の歴史の表舞台への登場です。突然、歴史上に現れた蘇我氏はこのクーデター計画で重要な働きをしたと考えられます。

bat
 ラオウ時代には空白だった大臣を任命したのは、重要な政策判断は、天皇と群臣の合議によるという昔ながらの政治体制へ戻ったことを意味します。

 4年後にトキは死去し、ケンシロウ(欽明)がシナリオ通りに即位します。皇后にはトキの娘ユリア(石姫)が選ばれています。トキ・ケンシロウ連合は揺るぎない絆で結ばれていたのです。
 その後、ケンシロウの治世は、32年間の長期安定政権となります。

 これでめでたし、めでたしと、日本史の教科書なら終わるのですが、朝鮮半島との外交をみると、ケンシロウの治世はとてもめでたしとはいかないのです。実はここからが前回の続きであり本題です。

朝鮮半島を完全に喪失した欽明天皇

 さて、ここからは、ややこしい人物たちがいなくなるので、北斗の拳モードは終了します。

 欽明天皇の即位で国内は安定しましたが、朝鮮半島の情勢はむしろ「風雲急を告げる」状況でした。
 前回書いたように、欽明天皇の父、継体天皇が親加羅から親百済路線へとかじを切ったことで、加羅諸国は百済と新羅の草刈り場となっていったのです。

 この頃の加羅は内陸の「大加耶国」を盟主とする北部連合と、海側の「金官国」を中心とする南部連盟に分かれていました。西の百済から圧迫された大加耶国は東の新羅と婚姻関係を結ぶことにしました。新羅はこれを機に、一気に金官国など南部にも攻め込んでいきます。

恵美前掲書

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 加羅諸国の中でもいまだに日本と友好関係にあった金官国から救援要請を受けた継体天皇は6万ものヤマト軍を派遣しましたが、九州で新羅と通じた筑紫磐井に阻まれました(前回の「磐井の乱」)。この進軍の遅れで結局、金官国は532年に新羅へ投降し、滅亡しました。

 当時の日本にとっては、唯一外国に開かれた江戸時代の「長崎の出島」のような存在を失ったのです。

百済が開いた「任那復興会議」の表と裏の事情

 539年に即位した欽明天皇は友好国の百済に金官国を中心とした南加羅「任那(みまな)」を復興するよう要請します。

 これを受けて、百済は「新羅に奪われた金官国など南部の加羅」に限った「任那復興会議」を541年、544年と百済で開催しました。ヤルタ会談みたいな感じだったのでしょうか。

 ところが、本気で金官国の復興を願う欽明天皇の期待と、百済の意図は大きくずれていたのです。百済が会議を開いた真の狙いは、百済側に付いた加羅の諸国を新羅へこれ以上、寝返らせないためのポーズだったのです。

 あわれ、ケンシロウいや欽明天皇の願い「任那復興」は果たされる見通しはゼロ。

 しかし、新羅の強さは武力ではなく、加羅の諸国の王たちを貴族として優遇する政策だったので、降伏していく国が相次ぎ、加羅南部はあっという間に新羅に吸収されてしまいました。新羅と百済でコウモリ外交を続けていた大加耶国などの北部連合も562年に、新羅に降伏し、加羅は完全に滅亡しました。

欽明天皇の遺言が聖徳太子ら飛鳥王朝を縛る

 欽明天皇は、新興の蘇我氏を登用して、国内の基盤を盤石のものとしましたが、外交面をみると、朝鮮半島の橋頭堡を完全に失った「敗北」の治世でもあったのです。

 欽明天皇は死の間際、後継者の息子を枕元に呼び寄せ、「新羅を討ち、任那を再建しろ」と言ってこの世を去ります。この遺言は、その後の飛鳥時代の天皇たち、そして聖徳太子にまでずっと引き継がれていくのです。
 そして聖徳太子(推古天皇)の時代になって、例のNHKクローズアップ現代でクローズアップされた福岡県で出土した新羅由来の黄金の馬具につながるのです。

共同通信HPより

共同通信HPより

 ようやく、本来予告していた「本当は武闘派だった聖徳太子」に話が移るのですが、さすがに読む方も、書くほうも疲れてきたと思うので、続きを書きました。ぜひシェアをお願いします。

続きは「ドラえもんに脳内変換するとタイムマシーンを使った並みにわかる古代の崇仏論争【聖徳太子まであと一歩】
 
恵美嘉樹(歴史作家)・記

著書に『古代天皇列伝―日本の黎明を統べる系譜』 (歴史群像シリーズ)(共著)=本記事のベース、『最新 日本古代史の謎』など。

恵美嘉樹のツイッターでは歴史・考古学・神社の全国各地のニュースをキュレートしてます。

 

 

いちおう、この古代シリーズの歴史(おさらい)です。

1 NHKがクローズアップ現代(12月2日)で「明らかになる古代の『日韓交流史』」を放送。聖徳太子の時代に日本と新羅が緊張状態にあったという内容だった

2 そもそもなんで緊張状態になったのか?というエントリーを「古代の日韓交流史」NHKがクローズアップした時代の少し前になにが起きたかまとめた」を書く(継体天皇の時代)

3 「北斗の拳に脳内変換したらバッチリわかる!聖徳太子以前の日本古代史」を書く(継体天皇の次ぎの3代)

4 「ドラえもんに脳内変換すれば古代の【崇仏論争】が劇的に面白くなる!」

5 「和を以て尊しとなす」の聖徳太子が武闘派で戦争好きだった件当は武闘派だった聖徳太子

 *古代史に詳しい方は「二朝並立はどうなったの?」と思っているかもしれません。
 そんな中上級者の古代ファンのみなさんには次のページに、「釣られたのはあの著名な歴史学者! 二朝並立なんてなかった」を書いています。(参考文献も次ページに)

 

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