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週刊武春 明治・大正・昭和時代 WWⅡ

12月8日真珠湾攻撃!本土のアメフトの競技場では「将軍は早く帰って」の緊急放送!

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1941年の12月8日は真珠湾攻撃の日。ルーズベルト大統領が事前に知っていたかどうかという、いわゆる「陰謀論」は言い出せばキリがないので割愛。どうでもエエ事ですが、ワタクシメのライフワークであります一応。すんません、誰も聴いてませんね(涙笑)。

ともかく多くのアメリカ人にしたら寝耳に水だったのは疑い無い所。何しろ、きな臭くなっていたものの、一応は平和だった日常生活がガラリと大転換してしまったのですから。

 で、そうなるとです、それまでの行事が急遽中断したり、続行はされたものの、世間の関心が戦争の方に向きっぱなしになったりという悲喜劇が起きていた訳です。つまり、世間の注目という「エエところを全部ジャップが持っていきやがった!」とお怒りな人とか組織とかが生まれていた訳です。

その時、東海岸はお昼時、そしてアメフトで大盛り上がり

 さて、真珠湾奇襲はハワイ時間の1941年12月7日午前7時55分に始まりました。諸説ありますが、現在のアメリカ側では、この時間をもって開始したとなっています。時差がある分、各地で様々な展開となります。日本では8日午前3時10分。ではルーズベルト大統領など政権の要人がいたであろう東海岸は何時だったのか?

 答えは7日午後12時55分。要するにお昼時だったのですね。もっとも、世間の注目はと言うと、恐らくその直前まで、あるイベントに向いていた筈です。

 ナショナル・フットボール・リーグ(NFL)の試合です。ちょうどこの日、3試合が行われていたのです。

 70年以上の歳月を経た今、当時の様子をサラリと報じているのはNFL殿堂のHP。

試合はというと、

ニューヨークのポロ・スタジアムでブルックリン・ドジャーズとニューヨーク・ジャイアンツ

ワシントンのグリフィス・スタジアムでワシントン・レッドスキンズとフィラデルフィア・イーグルス

そしてシカゴのコミスキー・パークでシカゴ・ベアーズとシカゴ・カーディナルズ

が、それぞれ行っていました。

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 スタジオで放送「将軍さんは急いでお帰り下さい~」

そこへ現れたる南雲機動部隊!(ハワイだけどね) 当時、場内ではアナウンサーが実況中継を流すというサービスを行っていたそうですが、中断されたのは言うまでもありません。「場内でご観戦中の軍人の皆様、お手数ですが直ちに所属部隊にご連絡下さい!」とのアナウンスが流れまくり。詰めかけた観客は「えっ、何、何が起きたんだ?」と、騒然となってしまったのでした。

当日の様子を生々しく回想するのは、アメフトファンのヘイゼル・ヘイトさん。1991年にアメリカのUSAトゥデー紙の取材に、こう答えています。

 その日も、御本人は何時もの試合でそうするように、お気に入りの席に座って観戦する積もりでした。そこにけたたましく、かつ不吉なアナウンスが。

 「××将軍に●●将軍、どうか職場まで御連絡を…××提督に××提督、どうか職場まで御連絡を」

 ちなみに、試合開始は午後2時からだったそうで、要するに球場を開門して観客を入れていた頃のアナウンスだったのですね。軍人さんのファンにしたら、ちょっと寒い中を早めに行って、選手の練習している所に声をかけてコミュニケーションを図ろう。それでもって、場内の売り子にホットコーヒーとハンバーガーでも頼んで、くつろぎながら、さぁ試合観戦…となる筈、だった、の、ですが(と強調)。

 こういう世間の一大事の常に漏れず、まず第一報を知らされるのは将軍とか提督のエライさん。下っ端の兵隊さんが知らされるのはずっと後というのはお約束。ただし、この時だけは、ちーとばかり残酷過ぎる展開でした。試合開始数分前に海軍省が「真珠湾攻撃さる!」という知らせを正式に受けたのですから。無論、携帯電話も無い時代。そこから大騒ぎの始まりとあいなりました。そう、下っ端さんも連絡してねという展開。

 …救いとなったかどうかアレですけど、どうやら議員センセイが知らされたのも、試合開始数分前だった模様。ちなみに、球場内の記者席の電光掲示板には奇襲の第一報が表示されていたそうです。

 落ちこぼれ記者の成れの果てとは言え、こうした展開がどんな感じだったかぐらいは、手に取るように分かります。けたたましくなる固定電話の向こうから、本社の同僚等が絶叫。

「もうそっちはどうでもエエから、本社に戻って来て号外作り手伝ってくれや! 試合の取材? あぁもう、そんなもん通信社の記事使うがな通信社の記事を! 分かるやろうが! こんなんなってもたら、載せるスペースがあったかって、せいぜい4〜5行じゃ」

てな感じだっただろうと。

そんな地位にすら無い一般ピープルだったヘイトさんは、他の善良な2万7000人の観客同様。「えっ、一体全体どうしたのよ」と呆然。「何しろさ、そこら中の席が全て空いてしまったのよ。凄い事が起きたってのだけは分かったけど、中身について知ったのは試合後だったわね」。

なお、試合の方はつつがなく?終わり、レッドスキンズが20対14でイーグルスを下しましたとさ。

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プレーオフを決めた選手たち翌日の新聞見て呆然!

イーグルスファンの軍人さん、ご愁傷様でした(涙笑)。ところが、それ以上に悲惨?だった人がいます。出場選手達です。以下、「スポーツ今昔」(Sports Then and Now)というサイトの話を読むと、気の毒過ぎて泣けてくる。

 何と、チームによっては、この日がシーズンの決着を付ける重要な日。つまり、プレーオフがかかった決戦日だった所もあったのです。本来なら「NFLプレーオフに××(チーム名)進出」てな見出しで、それなりに報じられる、筈、だった、の、ですが(と再び強調)。

 「それなりに」と断ったのには理由があります。今ほどの人気が、当時は無かったからです(有名なスーパーボウルは、1967年からの開始)。テレビは殆ど普及してなかったので、中継と言えばラジオ。それ以外の人は、直に見る以外ありませんでした。でも、だからこそ、選手にしたら目立ちたいって思いがあった事でしょう。

 さて、当時の6チームの順位はどうだったのか。まず、地区優勝しプレーオフ出場が決まっていたのは、ニューヨーク・ジャイアンツ。そして、もう1つの枠を賭けて戦っていたのが、シカゴ・ベアーズとシカゴ・カーディナルズ。

 えー、つまり察しのよろしい方ばかりでしょうし、書くのもアレなんですが、ヘイトさんが応援しようとしていたレッドスキンズ対イーグルス戦だけが「来季こそ!」以外のモチベーションが見当たらない試合。であるならば、余計に、双方のファンの熱き声援こそが必要なはず、だった、の、ですが(と三たび強調)。ヘイトさんによると、ガラ〜ンとなってしまったのですから選手の心中いかばかりか。

 ともあれ、普通に考えて1番気の毒そうなのが、シカゴの試合ですよね。

双方にとって譲れない展開な所なのに、ファンだって、「ここで気合い入れて応援せずして、ファンと名乗れるかい!」と必死のパッチ(©矢野燿大)で応援したかった筈。あぁそれなのに!アナウンス入りまくり。「軍人の皆様、配属先に御連絡を」との不吉な叫びが、ここシカゴのコミスキー・パークにも鳴り響いたのです。

「エエ所やのにのぅ」と、渋々席を立ち、公衆電話で順番待ちする兵隊さん。列の前の人が「何ですって!? はい、直ちに!!」と叫ぶなり、電話を切って疾走した事は想像に余りあります。

ちなみに、試合は34対24でベアーズがカーディナルズを破っています。ベアーズファンの軍人さん、ご愁傷様です。

なお、ウィキペディアの英語版によると、チャンピオンシップ決定戦は12月21日に開催。真珠湾奇襲の2週間後(現地時間)に行われました。試合は37対9で、ベアーズの勝ち。ファンにとって快哉を叫ぶべき試合だったのでしょうけど、観客数は1万3341人。当時のタイトル試合では最低だったそうです。そりゃ、それどころじゃないって言うのが世相の本音でしょうしね。やっぱ、南雲忠一と山本五十六が憎い?

哀れ、「オレ様の日」が設定されていた選手も

 そうした気の毒な選手の筆頭にいたのが、ニューヨーク・ジャイアンツのフルバックを務めていたタフィー・レイズでしょう。先の殿堂のページによると、球団側は長年の活躍を称え、この7日を顕彰デーにしていたのです。

 本名はアルフォンス・エミール・レーマン。1912年生まれでしたので、選手としては当時円熟期。1936年にジョージ・ワシントン大学の選手としてカレッジ・オールスターでMVPに輝いています。休暇中だったジャイアンツのオーナーの息子さんが、たまたまワシントン大学とアラバマ大学戦の試合を見ていて「凄い選手がいるよ! ジャイアンツで是非とも取って」と懇願したという逸話があります。アメリカン・ドリームを体現したようなエピソードですね。実際。同年のドラフト2巡目でジャイアンツに入団しています。

 入団1年目から大活躍。何しろ、この年だけで830ヤードを駆け抜け、ルーキーとして唯一、オール・リーグ・チームに選ばれていたほどでした。ディフェンスに優れていた選手だったそうで、ジャイアンツが毎年のように優勝争いが出来たのもレーマンの存在があればこそ。実際、1938年には優勝しています(ちなみに、殿堂には彼の活躍ぶりを紹介したページがあるぐらい。データはそこから引用させて貰いました)。

 で、この日は「タフィー・レーマンズ・デー」を設定。銀のトレーと時計と1500ドルの戦時国債を贈呈し、ファンともども盛り上がるはず、だった、の、ですが(と四たび強調)。

 ちなみに、こちらにはウィリアム・ドノバン大佐が観戦していました。戦後、CIAを創設したアメリカ情報機関の父とも言える存在ですが、勿論、呼び出しを受けています(ウィキペディア英語版より)。

 思いっきりケチがついた格好ですね。それが祟って、1941年の優勝をシカゴ・ベアーズにさらわれていったのかもしれませんな。

 タフィー自身は1943年に引退しますが、2年前の日をどう思いながらフィールドを後にしたのでしょうか?

フィールドから戦場に1000人が出征

 と、口惜しさを噛みしめる間も無く、時代が選手達を押し流していきます。先のスポーツ今昔によると、第二次世界大戦中に戦地に旅立っていった選手は約1000人いたそうです。サイトの方ではリスト化しています。

 その全部を紹介する訳にはいきませんが、12月7日のポスト・シーズン進出を賭けたシカゴ戦の両チームの選手の「その後」を、サイトでは紹介しています。

 奇しき縁というか、何人かは太平洋戦線に配属されているのですね。カーディナルズのマーシャル・ゴールドバーグは翌年もチームで活躍しましたが、43年に1試合だけ出場後に応召。南太平洋に、海軍軍人として任務に就いています(ウィキペディアの英語版によると、大尉にまでなったそうです)。選手生命を絶たれるような大怪我もせず、46年に復帰し、優勝に貢献。48年に引退しています。

 沖縄戦に参加したのが、ベアーズのヒュー・ガラニュー。翌年の優勝に貢献後、海兵隊に入隊。少佐にまで昇進し、航空警戒部隊の一員として戦ったそうです。45年にベアーズに復帰し、優勝に貢献しています。

 戦死してしまった人も、当然います。ベアーズのヤング・ベッシー。1940年に入団し、ディフェンシブ・プレイヤーとして活躍。41年には5回のタッチダウンを決めています。

 翌42年に海軍に入隊。大尉に昇進しますが、1945年1月のフィリピンのリンガエン湾での戦いで命を落とします。

 

なお、戦死したのは両球団の選手だけではありません。ジャイアンツのジャック・ラマスとグリーンベイ・パッカーズのハワード・スマイリー・ジョンソンは、それぞれ硫黄島での戦いで散華しています。なお、硫黄島で亡くなったのは選手だけではありませんでした。カーディナルズでコーチをしていたジャック・チェブゲニーも、その人です。

 中には、遂に花開く事無く亡くなっていった人もいます。ニール・キニックが典型と言えましょう。1940年のドラフト2巡目でブルックリン・ドジャーズに指名されたものの、これを蹴ってアイオワ大学のロースクールに進み、真珠湾奇襲の3日前に海軍に応召。戦闘機のパイロットとして訓練中の43年に事故死しています。

 こうして命を落とした選手は23人。coldhardfootballfacts.comというサイトで哀悼されています。それぞれ、世を去る時にはどんな思いだったのでしょうか? 戦争は、やはりしてはいけませんね。

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 南如水・




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