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フェルディナント皇太子Wikipediaより

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第一次世界大戦の原因となったオーストリア皇太子と松平容保の意外な接点

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第一次世界大戦が起きた原因はオーストリア帝国の皇太子がサラエボで暗殺されたこと。日本に無縁のようですが『オーストリア皇太子の日本日記』という本があります。近現代軍事史研究家のtakosaburouさんがこの本とともに歴史を読み解いていきます。

【本文ここから】

今年は第一次世界大戦勃発100周年。

という事で、ワタクシメもそっち関連の興味深いエピソードの紹介に力を入れて行きたいなと思っております。

タナボタで繰り上がったオーストリア皇太子

第二次世界大戦ほど史書が出てないので、流れが漠然としか知られていない第一次世界大戦ですが、オーストリアのフランツ・フェルディナント皇太子がサラエボで暗殺(享年50)されたのがきっかけだったというのは世間の知る所でしょう。

フェルディナント皇太子Wikipediaより

フェルディナント皇太子Wikipediaより

で、関連のサイトや文献を当たっていた所、興味深い事を知りました。この方、29歳の時に来日しているのですね。へ〜って感じ。

プロフィールも興味深い。元々は皇帝フェルディナンド1世の弟(フランツ・カール大公)の血筋の生まれ。しかも大公の三男のお子さんとしての生まれでしたので、本来なら皇帝になれっこ無かった人です。

ところが、運命のいたずらが。フェルディナンド1世の後を継いだフランツ・ヨーゼフ1世の子供であるルドルフ皇太子が1889年に恋人と心中し、代わりの後継者を急遽リストアップしなければならなくなり、浮かび上がったのが御本人でした。

つまり、タナボタで皇太子になった訳です。

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皇帝と対立、「広い世界を見たい」→日本に

ところが、そうした経緯だったものですから、ヨーゼフ1世とは反りが合わなかった。そりゃそうでしょうね、皇帝にしたら、出来る事なら実の息子に継承させたかったろうし。

また、統治を巡る路線対立もありました。ヨーゼフ1世はハンガリーとの二重帝国体制を是としていたのに対し、皇太子はハンガリー嫌いで、むしろ南スラブも含めた連邦制国家にするべきではと思っていたからです。

そうした対立の中で、皇太子は「海外を見聞してみたい」と思うようになっていきました。1891年、ロシア皇帝と謁見しにペテルブルグを訪れたのがきっかけになったようです。「異質な国民、民衆、文化、民俗についての知見を獲得し、異国の芸術を鑑賞し、さらには、汲めども尽きない異郷の地の自然に肌で接したい」と思うようになった皇太子は、世界一周の見聞旅行に出かけます。そして、その訪問先の1つが日本だったのです。御本人は、その様子を後に本にまとめています(『オーストリア皇太子の日本日記』講談社学術文庫)。

当時のオーストリアは、アドリア海に領土を持っていましたし、海軍もありました。その為、船旅となりました(まぁ日本へ来るには、当時それ以外の方法は無かったし)。

オーストリア側にしたら、遠洋航海は良い訓練になるし、極東でのオーストリアの存在感を高めておくという狙いもあったのでしょう。そしてヨーゼフ1世にしたら「こいつの顔を暫く見なくて済むわぃ」との思いがあったに違いありません。皇太子自身の思いも含めれば一石二鳥ならぬ一石四鳥の諸国漫遊だった訳です。

一方の日本側にとっても、お出迎えは重要な意味合いを持っていました。当時は欧米列強との間に不平等条約があり、改正が急務となっていました。所謂「鹿鳴館時代」が、丁度この頃です。踊って文明化をアピールというのが結局痛い空振りに終わってしまい、「じゃあ、諸外国のエライ人に日本の発展ぶりを見て貰おう」と、今度はVIPお迎え作戦に転じます。その1人が、フェルディナント皇太子だった訳です。

ただ、このミッションは脂汗を伴っていたはずです。皇太子の来日2年前に、ロシア皇太子を招いたは良かったものの、周遊先の大津でよりによって警官に切りつけられるという一大不祥事(所謂『大津事件』)が発生していたからです。その為、1893年8月3日に長崎に着いた皇太子一行が、瀬戸内の風景を楽しみながら横浜入りし「おしのびで各地を訪れたい」と望んでいたのを巧みに退け、陸路を大パレードするが如き旅行にしつらえてしまいました。恐らく、「大警備が必要だ!」と思ったのでしょうね。

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訪問先の1つが日光東照宮

さて、「必ずしも口に合うわけではなかったが、中国の料理よりは美味」と、和食にトライしつつ、皇太子一行は各地を見学します。熊本、下関、宮島などを経た後、京都、大阪、奈良、そして大津に向かいます。「大津は、滋賀県および近江地方の中心都市で、かつては五畿七道のひとつ、東山道に属していた。だが、この都市の名が広く知られたのは、ありがたくない事件があったからである」(同書138ページ)。琵琶湖の景観にうっとりしつつ、警備の物々しさに驚きつつ、家屋を見ると「ここはシュタルンベルグ湖畔(ドイツ南部)ではないかと、つい思ってしまう」(139ページ)と感じてしまうほど気に入った様子でしたから、日本側もホッとした事でしょう。
Biwa Lake from Hachiman mountain - 無料写真検索fotoq
photo by Takashi(aes256)

さて、東京で明治天皇と謁見し、大歓待を受けた皇太子は、意外な所を訪れます。「日本人には聖なる地、日光に到着した」(同書190ページ)のです。

何故、日光だったかは書籍の中で触れていません。ただ、この方、マメに物調べをする方だったらしく「『日光を見ずして、結構というなかれ』と日本人は良く口にする」(191ページ)と、今日でも有名な言葉をサラリと旅行記に挿入してるぐらいですから、好奇心があったのかも。また、既に当時から夏になればアメリカ人や英国人が訪れる観光名所になっていた事もあり「じゃあ行って見ようか」となったのかもしれません。

一行が到着したのは8月21日。華厳の滝の見学などを楽しみにしていたのだそうですが、生憎の雨に祟られた旅になってしまいました。

仏像に萌え、家康にご対面

そうした中で、訪れたのが日光東照宮。これ、よくよく考えれば微妙なチョイスではありますよね。何しろ、薩長の新勢力が打倒した旧幕府の開祖(徳川家康)を祀っているのですから。しかも、ホンの四半世紀前。明治政府側にしたら「うーん」と思っていたはず。「しゃーないな。条約改正絡んでるし」てな感じだったのでしょうか。

一行は、まず輪王寺に立ち寄ります。今日、重要文化財に指定されている三仏堂の美しさに目を奪われたからです。「僧侶の顔には、こんな早朝の訪問者に戸惑っている様子がありありと浮かんでいたが、そのうち観念したふうで、三仏堂の鍵を開けてくれた」(同書193ページ)とありますから、アポ無しだったのでしょうか。千手観音と阿弥陀如来、馬頭観音に感嘆したそうですから、押しの一手も効果有り?
Nikkō: Rinnō-ji - Sanbutsudō - Three Buddhas - 無料写真検索fotoq
三仏堂 photo by wallyg

そして、東照宮の本殿へ。「この拝殿の後方に行くと、本殿があった。が、黄金色の扉はかたく閉じられていた。ところが、この正面扉の前に立つと、なんと、国内を無邪気に遊覧する一般旅行者にはおよそ思いもおよばない大特権が与えられたのである」(197〜198ページ)。それまで一度も無かった、外国人向けの拝殿が許可されたのでした。

家康の座像に感激した皇太子は、こう書き残しています。「家康は、一個の人間としては、日本の歴史におよそ三百年の道筋をつけるという大事業を果たした。が、ここでは神として奇蹟をおこなったのである。つまり、家康は自分が祀られることによって、人びとをつよく鼓舞し、この至高ともいうべき芸術を達成させたといってよい」(199〜200ページ)。その足で、亡骸が収められた奥社へも、「苔むす二百余の石段をのぼった」(200ページ)そうですから、よほどの思い入れがあったのでしょうね。
Nikkō: Tōshō-gū - Okusha Karamon - 無料写真検索fotoq
東照宮奥社 photo by wallyg

当時のオーストリア・ハンガリー帝国と言えば、政情が不安定。そもそも、そうした統治体系になったのも、元は普墺戦争に負けたせい。軍事的な権威はドイツの後塵を拝する格好になっていました。また、時系列的には後になりますが、ヨーゼフ1世の妻、エリザベートが1898年に暗殺されるなど、治安的にも良くありませんでした。

…思うに、そうした中でタナボタ式に皇太子になったフェルディナンドは、織田信長、豊臣秀吉を相手に巧みな外交で生き延び、最期に笑った家康に何かを学ぼうとしたのではないかと、ワタクシメは想像しております。

東照宮の宮司は会津のラスト藩主松平容保!

さて、一行を出迎えたのは、後世の我々から見れば意外な人でした。

「豪華な紫色の衣をまとった宮司」でした。「聞くと、以前は北部日本の大大名だったという。先の戊辰戦争で敗者となり、領地を没収されたが、のちに赦免され、いわば旧身分に見合う身分として伯爵に叙せられ、同時にこの神社の宮司に任命されたのだそうだ」(201〜202ページ)。

ハイ、察しの良い読者の皆様はお気づきでしょう。そう、あの松平容保だったのですね。容保は戊申戦争後に蟄居を命じられますが、それが解かれた明治13年(1880年)に宮司となります。ちなみに亡くなったのは明治26年、つまりフェルディナンド皇太子が東照宮を訪れた年の12月5日。恐らく、生前最期の外国の要人お出迎えだったかと推察されます。

明治11年9月に撮影。左から元桑名藩主、会津藩主、一橋家、尾張藩主

明治11年9月に撮影。左から元桑名藩主、会津藩主、一橋家、尾張藩主

当時の東照宮の社務日誌には、受け入れ数日前から周到に準備がされ、当日は「後続随行員拝殿ヨリ幣殿御内御開扉拝後御装飾ヲ拝見。了テ宝物拝覧所、夫ヨリ奥宮ヘ参詣、下山後上社務所ヘ」との記録(233ページ)が残っているそうですから、お出迎えのルート設定は容保の差配だったのかもしれませんね。

まぁ薩長に大砲を撃ち込まれた事を思えば、楽なミッションだったかも?

ちなみに、記録は「殿下還御後、当宮殿ノ如キ木造ノ構造精密ヲ尽クシ候ニハ感ジ入リ候テ、万国第一ノ美観ト評シ候よし」と続くそうですから、皇太子に満足してもらった様子。まずは大成功だったのでしょう。

それにしても、縁は異なものですね。容保とオーストリア皇太子がね〜って感じが。

さて、その後一行は日本を後にしてからは太平洋を渡りアメリカへ。イエローストーンやシカゴを見学した後でフランスに。流石に船旅に飽きたのか、後は陸路でウィーンに戻ります。旅行中に収集した資料が3万点を超していましたが、それらを整理して国民に一般公開するなどのサービスをしました。既に同国では日本の装飾品に関する関心が高かったのですが、持ち帰った品々が火に油を注ぐ格好となり、フランスとは別の「ジャポニズム」となっていったそうです。

…そうして広めた見聞が、結局は花開かず、それどころが死が大戦争の引き金になったというのですから、惜しい話だし、皮肉なものですね。もしサラエボに行かず、生きながらえていたら、どうなっていたでしょうか。

ヨーゼフ1世は1916年に86歳で没しますから、恐らくその頃に即位し、皇帝となっていたでしょう。そして、家康の江戸幕府を参考に、軍事連邦制国家を作り上げていたのかも…。ま、全ては歴史のイフになってしまいますか。

それにしても、容保と皇太子が、どんな会話をしたのかが気になって仕方無いっ!

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