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第一次世界大戦の塹壕は14万人の中国人が掘っていた!80年間封印された真実

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近現代戦史研究者のtakosaburouさんが執筆する今年勃発100年の「第一次世界大戦」秘話シリーズです。最近はなんでもメイドインチャイナですが、なんと100年前の最前線の塹壕が中国製だった!とのビックリ秘話です。もちろん、中国の工場で作っていたわけではなく、中国人が出張して現地で作っていたのです。

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第一次世界大戦で思い浮かぶのは、複葉機による空中戦か、あるいは西部戦線の塹壕で兵士が真冬に凍える様子とかでしょう。ま、後者の方が一般的でしょうね。

ところで、あの塹壕が「中国製」だったって話、知ってます?

 

実は中国人が掘っていた塹壕

てっきり、兵隊さん自身が上官の命令でエッチラオッチラと掘って掘って掘りまくって、あぁしんど〜ってな想像をしていただけに、実に意外。先入観って怖いですね。恐らく、これって余り知られていないかと思う。何しろ、掘られていたフランスなんかでも、21世紀になるまですっかり忘れ去られていたというのですから。

報じているウィキペディア英語版やww1factsというサイトの解説を紹介しますね。

話は1916年に遡ります。大戦勃発2年目ですね。戦死者が増えるに連れ、男手の不足が深刻化していた頃でもあります。

そうした中、英国陸軍のダグラス・へイグ元帥が人員不足を補う為に2万1000人の軍属を派遣して欲しいと要求します。しかし、そんな人手は無くなりつつあった英国政府は、一計を案じます。

当時、まだ中立を保っていた中国政府に話を振ったのです。中国側は、「戦闘行為に参加させない」との条件で、これに応じます。フランス政府も、同様の要請を行います。で、こちらの方が早かった。

募集に応じた中国人5万人が天津の港から船出したのは1916年5月。翌月にフランスのマルセイユに到着。英国も正式契約し、フランスとは別に中国人労働者を1917年1月に連れて来ます。労働部隊(Labour Corps )と名付け、中国で28年間働いていた鉄道技術者のトーマス・J・ボーンの指導を受けながら、陣地の作り方などを当時の英国の租借地だった威海衛で学んだ後、前線に赴きました。

応募に応じた中国人は、山東省出身者が多かったのですが、黄海を挟んだ遼寧省や吉林省、上海にほど近い江蘇省、湖北省や湖南省、安徽省や、果てはウイグルと接している甘粛省からも徴募していたそうですから、広範囲にわたっていたのですね。太平洋とカナダ経由で派遣されたそうで、3ヶ月かかったとの事です。

 

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 最前線で14万人の中国人が一生懸命掘る

かくして、総数が14万人となったそうですから、立派な後方支援部隊と言えましょう。10万人が英国軍に、4万人がフランス軍に従事しました。通訳は、当時留学していた中国人学生数百人が当たったそうです。

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こうして1917年末までにフランスやベルギーの前線に配置された中国人部隊は、英国軍の分だけで5万4000人に達しました。

掘るだけ掘ったら、膠着戦となってしまった事もあって、この年の3月に中国での募集は終了します。同年中に、請負仕事(塹壕堀りなど)も終了します。

それでも、当時の交通事情などもあって帰国は簡単にはいかず、休戦が結ばれた時点で9万6000人近くがフランスなどに滞在。戦争が終わったので、今度は塹壕の穴埋め作業などに従事しました。1919年5月時点で、まだ8万人がいたそうです。

従事していた中国人の年齢は20歳から35歳ぐらいまで。塹壕堀り以外にも弾薬庫作りや港での荷下ろし、防空壕作りや土嚢の砂詰め作業などまでやっていたそうで、後方支援の貴重な戦力となっていました。この他にも軍需工場や造船所で働いていた人もいたとの事です。

賃金は安く、指定された居住区域から出る事は許されず、派遣された先の人との交流も禁止。名前ではなく、番号で呼ばれていたそうですから、随分酷い扱いだったようですね。

 

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 80年近くの忘却 パリの中華街の原点なのに

しかも、80年近くも忘れられていたというのですから、気の毒な話です。戦後、5000人から7000人がフランスに残ったものの、大半は帰国してしまった事もあるようです。なお、残った中国人が、今日のパリの中華街を形成していきました。

そんな彼らの存在に脚光が当たったのは2002年。フランスのカレーに近いノイエル=シュル=メールという港町にある軍人墓地が改装される際に、注目されたのだそうです。

彼らは戦闘には加わらなかったものの、流れ弾に当たったりコレラに罹ったりして死ぬ人はいたようです。また、有名なスペイン風邪の流行が1918年からで、これにやられた人も少なくなかったのだとか。それやこれやで、前線で命を落とした人は2万人近くいたと、中国の学者は推定しています。それだけ亡くなったのなら、大きなお墓も要りますよね。この墓地だけでも2000人が埋葬されています。生前の功績を称える旨を漢字で墓石に彫っているそうですから、人目に付いたのでしょう。

ちなみに、当時の英連邦諸国では、こうした中国人の利用に警戒的で、本国政府に圧力をかけていました。居着かれる事を警戒したようですね。仕事も単純労働だけにせよと主張していました。実際、そうした作業に従事させる事が多かったようですが、一部の中国人は戦車の修理など、それなりの熟練作業に当たらせていたそうです。

そうした中国人の中には、弾が飛び交う中で部下を集めて作業をさせたとして功績章という勲章を貰った人が5人いました。また、戦後になって英国政府は従事した全員に戦時勲章を授けています。

 

ちなみに、こうした労働者を派遣したのは中国の他にエジプトやインド、マルタ、モーリシャス、セーシェル、英国領西インドなど。前線は結構多国籍だったのですね。その数は全部で30万人にもなったそうですから、都市が出来そうなぐらいだったようで。

 

住み心地最悪 蔓延する病気

さて、そうやって作られた塹壕ですが、使い心地は良くありませんでした。湿っているし、匂うし、弾が飛んでくるのですから、当然と言えば当然でしょう。伝染病として、コレラの他に塹壕足炎という病気もありました。水虫が悪化するなどして循環器系に障害を起こし、果ては足を切断する場合もあったそうですから、シャレになりませんね。

また、両軍の塹壕を挟んだ土地は「誰もいない土地」と称されるようになりました。塹壕から飛び出して向かえば撃たれるから、誰も出てこず、人気がなくなってしまったからです。その上、フランスもベルギーも湿気った土地柄で、雨が降ればあっという間に泥沼状態。塹壕の状態は…書くまでもないでしょう。この他、ネズミに囓られて病気になる兵士も多かったそうですから、こういう所に配置されたくはありませんね。

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最後になりますが、第一次世界大戦での兵隊の戦死率は10%。これは第二次世界大戦の倍に当たります。塹壕を掘り、ジメジメした場所に待機し、にもかかわらず死ぬ率が高かった。実に空しい話ですね。

南如水・記

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写真は各国版のWikipedia(第一次世界大戦)より

 




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