ルシタニア号

攻撃を受けるルシタニア号/wikipediaより引用

世界史

被害者数1,198人でタイタニック級の犠牲だったルシタニア号の悲劇

ルシタニア号」をご存知でしょうか?

あのタイタニック三姉妹建造のきっかけとなった船であり、その末路は三姉妹以上の存在感を示す結果ともなります。

そう、アメリカの第一次世界大戦参戦を招いたのです。

世界史の授業でも取りあげられているぐらいですよね。

1906年6月7日に進水し、1915年5月7日に撃沈された、ルシタニア号の沈没事件を追ってみましょう。

 


国威発揚の流れで生まれたルシタニア号

このルシタニア号、当時の国際情勢を反映して生まれた船でした。

「国同士の見栄張り」という文脈があったのです。いや、「国威発揚」と言い直すべきなのか…。

旅客機が登場する前の時代、国家間での人員の高速大量輸送手段は船でした。

そして、欧州で産業革命が起き、かつナショナリズムが各国で沸き上がると、色んな国で「ウチはこれだけ凄いんだぞ」という国威発揚モードとなっていきます。

その象徴とも言えるのが豪華客船です。

蒸気機関という当時の最新鋭テクノロジーを駆使し、山のように大きな船が高速で動く様は、建造した国の名声となりました。

そうなると、当然の事ながら「七つの海を支配している」と自負する英国が、まずこの分野で目立とうとします。

対抗馬となったのがドイツ。

こちらは「科学とテクノロジーの国」としてのプライドがあります。

かくして、客船の大きさとスピードで競い合うという展開となっていったのでした。

 


英独で競うブルーリボン賞

その目安となったのが「ブルーリボン賞」でした。

同じ名前の賞が邦画界にあってややこしいのですが、早い話が大西洋を高速で横切った客船に与えられる賞。

1位となった客船には青のリボンをトップマストに掲げて良く、これが名称の由来となります。

ちなみに、西回り航路と、東回り航路での2つの賞がありました。

主としてアメリカ・ドイツ・英国3ヶ国での競争となり、賞が設けられた1830年代は2週間だったのが次第に短期間となり、1892年には1週間を切ります。

で、この頃から英国とドイツの競争となっていきます。

そんな中で誕生したのがルシタニア号でした。

ルシタニア号の進水式/wikipediaより引用

 


ウィルヘルムを凌駕せよ

当時、意識された相手が「カイザー・ウィルヘルム2世」号です。

名前からお分かりのように、ドイツの北ドイツ・ロイド社が1903年に建造した船。

当時のドイツ皇帝だったヴィルヘルム2世から名前を借用しただけあって、総トン数1万9631トンというデカさだけでなく、1,888人乗りで、23.5ノットまで出せました。

ルシタニア号は、これら全てのスペックを上回るべく建造されます。

総トン数は3万1550トン。

2198人乗りで、最高速度は26.7ノットまで出せました。

実際、1907年9月に、就航後1ヶ月足らずで、ブルーリボンをカイザー・ウィルヘルム2世号から奪っています(速度は西回りで23.99ノット。東回りで23.61ノット)。

建造に当たっては、当時の英国政府から、戦時には軍に徴用するとの含みを持たされた資金援助があったそうです。英国政府にしてみれば、ドイツの皇帝の名前を付けた船に勝ちたいという見栄もあったのでしょう。

そして勝った。

一方、ドイツ側にしたら、恥をかかされたという思いもあったはず。

そうこうする内に、第一次世界大戦を迎えたのでした。

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