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収容所が置かれた寺院

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週刊武春 アジア・中東

戦後のモンゴルで日本人元兵士が同胞を死に追いやった「暁に祈る事件」発覚から65年

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今から65年前の1949年3月19日と20日の両日にわたって朝日新聞が衝撃的なスクープを掲載しました。のちに「暁に祈る事件」と呼ばれるものです。

モンゴル・ウランバートルの日本人捕虜お収容所で、元日本軍の憲兵曹長が、同じ同胞である日本人の捕虜たちを、一晩中木に縛り付けるなどのリンチを繰り返し28名を死に追いやったという事件です。

新聞報道により、首謀者は国会で証人喚問され、刑事事件にまで発展しました。なぜ「暁に祈る」事件と呼ばれるかというと、縛られた者が気を失って、明け方、日の出に向かってうなだれている姿を称して「暁に祈る」と称されたというトンでもない歴史秘話です。

 

モンゴルのウランバートルの都市化の陰に日本人兵士たちの血と涙

ウランバートル郊外、ダンバダルジャアの丘に、モンゴルで亡くなった日本人抑留者の慰霊碑があります。

モンゴルに送られた日本軍将兵等の数については諸説ありますが、最近の研究では1万2326名、このうち、脱走者3名を除いて1万705名がソ連に再送還されたとされているので、差し引き1618名がモンゴルで亡くなった計算になります。

この慰霊碑は、モンゴルで強制労働に斃れた死者1600名余りの日本人の慰霊のため、2001年に日本政府が建設したものなのです。

モンゴル

モンゴルの草原にある慰霊碑

 

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1945年8月11日

日ソ不可侵条約を破棄してソ連軍が対日宣戦布告をした2日後のこの日、モンゴルはソ連に引きずられる形で対日宣戦布告し、中国東北部の満洲と、なぜか内モンゴルにも侵攻します(ウランバートルの軍事博物館には、このときの内モンゴル侵攻を描いた巨大な絵画が飾られています。相当、中国には恨みがあるようです…参考まで)。

モンゴルは、この時の論功行賞で、ソ連が捕虜とした日本陸軍将兵と民間人のうち、1万2千名あまりを労働力として受け取ったのでした。そして、1947年12月までの約2年間、モンゴルは、これらの日本人を酷使し、シベリア抑留者を超える13%の死亡率をもたらしたのです。

この間、日本人は、政府官庁街や大学などの建設に動員され、僅か2年で、ウランバートルを近代都市に作り替えました。「暁に祈る」事件は、まさにこうした時期に起きた悲劇だったのです。

 

シベリア抑留より死亡率の高かったウランバートルの抑留者

ウランバートルには、モンゴル国内40か所以上に設けられた収容所のうち半数近くが置かれ、収容者数は4000名を超えたとされています。

抑留者に対する給食と衛生は、基本的には、ソ連の基準が用いられていたが、結局それは書類の上でのことで、実際は、かなり過酷な生活を強いたようです。
モンゴル軍の戦利品の中には、日本陸軍の軍服も多数含まれていたにも拘らず、遂にこれらが日本人に支給されることはなく、敗戦当時の夏服のまま、零下30度にもなる凍土で、彼らは強制労働に駆り出されたのでした。

 

「暁に祈る」事件の経緯

「暁に祈る」というのは、1940年に公開された日本映画で、戦争ものではありますが、この事件とは直接の関係はありません。むしろ、映画の1シーンが、この事件の光景と重なったことからつけられた名前なのです。

この事件は、前述のように1949年3月に朝日新聞がすっぱ抜き、首謀者とされた吉村久佳こと池田重善・元憲兵曹長が国会で証人喚問され、刑事事件に発展しました。

事件のあらましはこうです。

ウランバートルに送られてきた池田・元憲兵曹長は、憲兵出身であることを隠して偽名を用い、士官候補生であるとして、約1000名の日本人抑留者の統括を命ぜられます。

前任者の陸軍大尉は、同胞に甘いと評され、更迭されたばかりでした。

収容所が置かれた寺院

収容所が置かれた寺院

池田・元憲兵曹長は、同胞に苛烈な態度で臨みます。モンゴル側から要求されたノルマに上乗せをしたノルマを課し、ノルマをこなせない同胞の食事を更に減らします。

少ない給養のため、日々、生き延びることに精一杯の環境で、池田に対する反感が高まると、自らに反抗的な部下を一晩中木に縛り付けるなどのリンチを繰り返し、28名を死に追いやったというのです。

このとき、縛られた者が気を失って、明け方、日の出に向かってうなだれている姿を称して「暁に祈る」と称されたのですが、実に胸の悪くなるエピソードです。

収容所跡

収容所跡

 

モンゴルの思惑

一方で、モンゴルにとっては、日本人を労働力として使う機会を得たことは天恵でもありました。

なぜなら、モンゴルは対日参戦したとはいえ、日本軍と戦うこともなく、その4日後には日本は降伏するのですから、戦勝国として偉そうなことを言える立場にないことは明らかです。

だから、ソ連が、「日本人、使わせてあげようか」と持ちかけたのに飛び乗ったのは、ある意味、無理からぬことでした。

ですから、モンゴルは、ソ連とは違って、抑留者に対する政治教育、思想教育などは全く行わず、純粋に労働力として酷使する結果を招いたという点は否定できません。

「暁に祈る」事件は、こうしたモンゴルの思惑と、その思惑を必要以上に恐れた一下士官の幻想によってもたらされた悲劇だったのかもしれません。

 

主犯には懲役3年の実刑判決

朝日新聞の報道を受け、池田・元憲兵曹長は、1949年4月から5月にかけて、国会での証人喚問に臨みますが、自ら行ったとされるリンチについては、一貫して不可抗力を主張しますが、同年7月起訴、1審、2審とも有罪判決を得た池田は最高裁に上告しますが、1958年5月24日に最高裁は上告棄却、懲役3年の実刑が確定します。

ここで、最高裁は、「国外において俘虜の管理に当り日本人が正当行為の範囲を逸脱して行つた逮捕監禁の所為については、わが科刑権及び、我が国が事実上、裁判権を行使できる状態になればこれを処罰することができる」と、法理論上、興味深い判示をしており、この判例は、刑集にも収録されています(最判昭和33年5月24日刑集12巻8号1535頁)。

 

戦いでつながるモンゴルは今は親日国

モンゴルは、別に日本人が憎くて彼らを強制労働に駆り出したわけではないと思います。

モンゴルは、伝統的に、日本とは戦争つながりの国です。

具体的には、13世紀の元寇に始まり、1939年のノモンハン事件という、モンゴルにとって二つの大戦争では、互いに領土を割譲することはありませんでした。その意味で、モンゴルにとって、日本は「好敵手」という位置づけです。今でも、モンゴル軍事博物館を構成する2つのウイングでは、片方がチンギス・ハン、もう片方がハルハ川戦争(ノモンハン事件)の展示で完結していて、その意味では、日本に対する親近感は強い国のようです。

それに引き替え、中華思想を上段に振りかざして、未だ南部(現在の、中国・内モンゴル自治区)を実効支配している中国の覇権主義が憎くて仕方がないという空気を感じることも少なくありませんでした。

私が訪れたとき、丁度、大相撲の初日で、市内のいたるところに設えられたゲル(パオ)のテレビバーでは、NHKの衛星放送を見ながら、お客がモンゴル人力士の活躍に一喜一憂する姿が印象的でした。

モンゴルビール「チンギス・ハン」と羊料理

モンゴルビール「チンギス・ハン」と羊料理

 



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