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「またキャベツのスープかよ!」英国人の捕虜収容所体験記から 【第一次世界大戦100年Vol.9】

更新日:

近現代戦史研究家のtakosaburou氏による第一次世界大戦100年、第9弾です。突然はじまった世界大戦で、ドイツにたまたま遊びに行ったために捕虜になってしまったイギリス人のお話。ドイツ捕虜をあつく扱い、第九まで歌わせた日本とは、えらいちがう大変な生活だったようで。では、どうぞ。

 

 

 

世の中、運の無い人はいます。何の落ち度も無いのに、たまたまそこにいたというだけで事件や事故に巻き込まれてしまうケースって、新聞記事とかで良く見受けますよね。

 

今回は、その第一次世界大戦版とも言うべき話となりましょうか。

 

突然始まった戦争でドイツにいた5000人の英国人抑留

 

先の記事にも書きましたが、第一次世界大戦は「たまたま」起きてしまったとも言って良い戦争でした。特に、英国人からしたら、そうした感がありました。
何しろ英国の王室のルーツはドイツにありましたし、「親戚の国やないか」という意識があった所に、戦争勃発。
情勢を見誤った人が多くいた訳ですが、その中でもババを引いてしまったのが、当時ドイツに滞在していた英国人。即座に「敵性外国人」として抑留されてしまったのです。

その数、全部で5000人超。別段、人を殺した訳でも、物を盗んだ訳でも無いのに自由を奪われてしまったのですから、実に気の毒。しかも、それが4年も続いたのですから、いやはやって感じですね。

 

そうした人達に注目したのがcentenarynews.comというサイト。どうやら手記を残していた人がいたらしく、それを事細かく紹介しています。

 

第一次世界大戦に巻き込まれた英国人について報じたcentenarynewsのサイトより

 

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競馬場など歓楽街が一転、収容所に

こうした英国人が収容されたのが首都ベルリンのルーレーベン。
ちなみに、第二次世界大戦後にナチスの戦犯が収容されたシュパンダウ刑務所がご近所さんだったりします。そう書くと、如何にも陰気くさいイメージが持たれそうですが、当時のルーレーベンには競馬場やカジノがあったりする歓楽街でした。

そこに第一次世界大戦が勃発。娯楽どころの話では無くなり、街も様変わり。連れて来られたのが、国境が封鎖されて逃げ損ねた英国籍の人達だったという流れだったのです。時に1914年11月6日。

その約3ヶ月前にドイツ英国に対して宣戦布告すると、こうした人達が憲兵隊員によって逮捕され、収容先をどこにするかという問題が浮上します。その際に白羽の矢が立ったのが、このルーレーベン。競馬場が転用されたと記事にはあります。場所が広いというのが決め手になったのでしょうね。

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 長く忘れられていた収容所の存在

収容所の存在自体が、長らく忘れ去られていました。関連文献が5冊だけというのでは、グーグルを使っても見つけづらかった事でしょう。このサイトの記者さんが知ったのも偶然でした。

継父のワイアット・ローソンという人が、たまたま収容所の住人(『囚人』と書くのは気の毒なので、こう表記させて貰いますね)だったからでした。

 

逮捕されたのは17歳から55歳までの英国のパスポートを所持していた人でした。
聖職者や医師、寝たきりの病人や精神を患っている人については、流石に対象外となりましたが、その一方で英国陸軍や海軍の将校だった人は、退役していても、また高齢者であっても逮捕されていたそうです。

 

で、連れて行かれた先が、競馬場の成れの果てとも言うべきバラック小屋。27あった厩舎が、藁のベッドが6床ある部屋に転用されました。収容者の数が上回ってしまい、住人の中には干し草の置き場で寝起きせねばならないケースまであったそうです。

 

暖房は無く、照明設備も貧弱。選択設備は15基の盥で済ませろとされていたそうです。

しかも、毎朝6時半までにと言われていたとの事ですから、刑務所よりも酷い待遇だったのではないでしょうか。
なお、一応売店はあったそうですが、いきなり逮捕されてしまった人の大半が僅かな所持金しかなかったり、或いは素寒貧だったりしたので、使われる事は希だったそうです。

 

ちなみに、軍の病院が近くにあったので、病人はそこで治療を受けられたそうです。その一方で、料理は台所に取りに行き(しかも貧弱)、いちいちバラックに戻って食べていたとの事ですから、色んな意味で運用に問題があったようですね。

サイトに掲載されている当時の収容所の写真

記事に掲載されている当時の収容所の写真(同HPより

夏休みで遊びに来た大学生も 

さて、そんな収容所に入れられてしまった継父さんですが、当時は20歳の若者。ケンブリッジ大学に通っていたエリート学生でした。夏休みを過ごす先として当時文化施設が充実していると評判だったワイマールを選んでしまったのが運の尽き。
母方の祖父母がワイマールに大きな家を持っていた事もあったようです。

 

この時の体験が余程辛かったのか、記者の前では全くと言って良いほど当時の事を話したがりませんでした。ただ1度、80歳の時に「今でも当時の事を夢で見る。悪夢だよ」とだけ言ったそうです。

 

連れて来られた日は、寒かったそうです。小さなスーツケース1つだけを持ってくる事が許されてはいたものの、この時点で収容されていた人が約4000人。その余りの多さに、憲兵達もピリピリしながら対応していたとの事です。

 

何しろ、そうした環境だったものですから、塀の外でクリーニング士や消防士や郵便局員や現金出納業務に就いていた人が重宝されるようになっていきます。最終的には、そうした人達がまとめ役として、ドイツ当局との交渉係になっていきます。

 

中でも、素晴らしい働きをしたのが、ジョゼフ・パウエルという人物。
娑婆では映画会社のマネジャーをしていたそうですが、この人が精力的に環境改善に努めていきます。頭の切れる人だったようで、当時中立国だったアメリカ大使に収容所を視察して欲しいと根回し。

聞き入れた大使が訪れ、その劣悪さに戦慄してくれたお陰で、所長だったグラーフ・フォン・シュワーリンと言う人物が、これに応える形で対応していきます。しかし、この人がいなくなるとバロン・フォン・タウベという人物が所内を仕切ります。お天気屋かつ短気な人物として、住人達には不評でした。

 

日記に見る食事のまずさ

 

さて、こうした収容所内の様子を日記に残していた人がいました。バートンという下の名前しか分かっていませんが、その人による当時は次のような感じでした。

 

「1月8日。キング・エドワード7世財団から救援物資が5品届く。これが初めて。雨が凄くて、グラウンドの状況は戦慄するべき状態だ。」

「1月9日。新鮮な食料品がサクソニーの倉庫から届くが、パンが売店から消え失せた。」

 

「1月27日。皇帝の誕生日。国旗掲揚場のロープを何者かが切断。犯人が見つかるまで、郵便のやり取りは禁止に。」

 

「1月29日。またキャベツのスープ。この1週間で3度目だ。釈放された住人と一緒に外に出したはずの郵便物が見つかる。内外のやりとりは10日間ストップとの事。」

 

「2月1日。凍り付きそうな寒さ。パン一塊だけという日が、もう3日。価格も売店で2倍となった。息子と孫の消息を知る。」

 

……と言った感じで書き記されていきます。ドイツだけでなく、侵攻したベルギーで捕まった英国人が、収容所に追加されていったり、病人が続出していく様子も紹介しています。
こうした窮状を知った英国の首相が、同年2月末に住人1人につき4マルクが使えるよう、ドイツ政府に金を支払う決定を下しています。また、ドイツ側も親族などの仕送りの受け取りを認めています。

 

ここぞとばかりに、勉強をする人も

 

また、この人とは別にアボットと言う人が日記を書き残していますが、中身を読むと状況をポジティブに利用していた模様。

 

「2月13日。今日から語学の勉強だ。4時間をロシア語に、1時間をドイツ語に、1時間半をフランス語に費やそう。これで一日が潰れるぞ」。

 

実際、所内には学校がありました。その名も「ルーレーベン収容所学校」。朝8時から食事休憩を挟んで午後6〜7時まで講義が1週間ぶっ続けでおこなわれていました。科目はと言うと、英国・ドイツ・イタリアの各文学の他に、化学や生物学、物理学、機械の扱い方や数学まであったそうです。

なお、日曜に1時間だけでしたが音楽の授業もあったと記録には残されています。

 

後には、ラグビーやゴルフなどのスポーツも許されるようになるなど、それなりに充実はしていきました。ただし、そこには自由だけがありませんでした。

 

1916年になると、公式に自治が許されます。敵国の首都に、バーチャルな英国の植民地が出来てしまった格好となりました。数日遅れながら、英国のタイムズ紙も届くようになったので、帰りたくとも帰れない祖国の現状を知る事が出来るようになります。

 

飢えとインフルエンザが襲う

 

こういう展開が続けば良かったのでしょうが、そうはいきませんでした。1917年は平穏に過ぎたのですが、翌年(つまり最期の年)正月に、インフルエンザが大流行したのです。また、この頃には連合国軍による封鎖で各種の物資が欠乏するようになり、飢えに苦しむようになります。

長すぎる夏休み ようやく終わる 

しかし、苦しいのは塀の外でも一緒。海軍基地だったキールで11月に反乱が起きます。

これが各地に飛び火し、ベルリンでも騒乱状態に。9日には共和制が宣言され、翌日にはウィルヘルム2世がオランダに亡命します。

こうなると、看守らも報復を恐れて軍服を脱いで逃亡。所内の住人は、遂に自由を得たのでした。11月21日に帰国の旅券が交付され、翌日から帰国ラッシュとなっていきます。帰国時には時のジョージ5世から祝福メッセージが届けられるというサプライズも用意されていたそうです。

 

その後は、元住人同士の連絡会が結成され、同窓会なども行われたりしました。これが1976年まで続いたのだそうです。

 

さて。収容所は戦後どうなってしまったのか。お役御免となったので、競馬場として再び使われるようにはなったものの、戦後のドイツの大不況もあって昔のような日々は戻ってきませんでした。アップアップしながらの経営が続いた後、第二次世界大戦に突入。1960年代初期に取り壊され、汚水処理場として再開発されたので、当時の面影は何1つ残っていないとの事。ま、わざわざ再訪して悪夢を振り返りたがる人もいなかったでしょうけど。

 

それにしても、この継父さんにしたら、長すぎる夏休みだった事でしょうね。ちゃんと復学できたんだろうか?

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