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ダグラスヘイグ

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イギリス 週刊武春 WWⅠ百年 WWⅠ

英国陸軍元帥ダグラス・へイグの戦時日記が世界記憶遺産に【第一次世界大戦100年Vol.13】

更新日:

 第一次世界大戦で、英国の陸軍元帥として指揮を執ったダグラス・へイグの戦時中の日記が、世界の重要文書に指定されました。スコットランドで発行されているスコッツマン紙が報じています(2014年5月4日付け)。

 

ダグラスヘイグ

ダグラスヘイグ

 

あのソンムの会戦の様子も書き残し

 

へイグがスコットランドのエジンバラ生まれという縁で報じたようですね。日記は手書きで、へイグが指揮し、英国にとっても重要な戦いとなったソンムの会戦やパッシェンデールの戦い(第三次イーペル会戦)などが書かれているそうです。

*ソンムの戦い(ソンムのたたかい、Battle of the Somme)とは、第一次世界大戦における最大の会戦である。1916年7月1日から同11月19日までフランス北部・ピカルディ地方を流れるソンム河畔の戦線において展開された。連合国側のイギリス軍・フランス軍が同盟国側のドイツ軍に対する大攻勢として開始し、最終的に両軍合わせて100万人以上の損害を出したが、連合国軍はわずかな土地を獲得したにとどまり、ドイツ側は被害を最少におさえた。(Wikipedia)

 

現在、スコットランドのエジンバラの国立図書館に収蔵されています。図書館では、他にもへイグ個人が残した手書きの命令書などを収蔵しており、これらがユネスコ主催の「世界記憶遺産」の英国分として追加登録されました。

同図書館の関係者は、戦時日記は「戦争に対する独自の考察や、英国の陸軍の歴史中で最も議論されている将軍の指揮の様子」が書かれていると話しています。

 

世界記憶遺産 長らく日本からは推薦が無く、事業そのものの国内における知名度も低かったが、福岡県田川市と福岡県立大学が共同で2010年(平成22年)3月、炭鉱記録画家・山本作兵衛が描き残した筑豊の炭鉱画など約700点の推薦書をユネスコに提出し、翌2011年5月25日、697点の作品が国内初の記憶遺産として登録された。 一方、日本政府は2012年3月までに日本ユネスコ国内委員会が推薦するとして、候補に『鳥獣戯画』や『源氏物語絵巻』などが挙がっていたが、2011年(平成23年)5月の記憶遺産選考委員会で国宝の『御堂関白記』と『慶長遣欧使節関係資料』について日本政府として初めての推薦が決まり(『慶長遣欧・・・』はスペインとの共同推薦)、2013年6月に登録された
。 2015年の登録に向けては、日本ユネスコ国内委員会は日本からの推薦として『東寺百合文書』とほか1件の回答を予定している。(Wikipediaより)

 

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あのスコッチウィスキー「へイグ」の息子

 

最も議論されている将軍と言われるのには理由があります。こうした戦いで多大の戦死者を出しているからです。1928年に死去し、国葬となっていますが、それから30年ほど経ってから「指揮に問題があったのではないか」とする批判が出るようになり、「ブッチャー・へイグ」という不名誉な名前まで付けられているからです(ウィキペディア英語版より)。

へイグは1861年、エジンバラのウィスキー醸造元の経営者の息子として生まれました。そう、あの有名なスコッチウィスキーのへイグなんですね。

 

ヘイグ

ヘイグ

若くして両親に先立たれてしまう不幸があったものの、地元のクリフトン大学に進学。その後、オックスフォードで政治経済学や古代史、フランス文学などを専攻しました。

 

スポーツに秀でた人でして、ポロ競技に出場するために兄弟でアメリカに渡ったり、オックスフォードでもポロに興じたりしていました。

 

ところが、病気に罹り学校は結局卒業できず終い。1884年にサンドトラストにある王立陸軍大学に入学し、軍歴を歩み始めます。インド勤務などを経て、1892年のスーダン戦争や1899年から1902年のボーア戦争に参加したりしています。この間、1901年には中佐にまで昇進していますから、順風満帆だったのでしょうね。後に外務大臣を務めたジョージ・カーゾン卿にも「クレバーな人物だ」と褒められているぐらいです。

 

もっとも、こうした海外勤務などが祟ってか、結婚は1905年になってから。44歳ですから、当時としては若くないですね。

 

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「第一次大戦最悪の将軍」という異名も

 

1914年に勃発した第一次世界大戦では53歳。英国派遣軍参謀総長として、立案に当たります。軍人として脂の乗りきった筈でしたが、兵器の運用等の劇的な発達と展開が、想定外として襲いかかります。

 

何しろ、ソンムの会戦では、初日の1916年7月1日だけで11万人の現地軍の内、6万人が死傷していたからです。それも数時間で。激闘は142日間も続き、終わった後は「ノー・モア・ソンム」と言われたそうです。しかし、その年の冬までに、更に40万人が戦死しました。

また、辛勝こそしたものの、パッシェンデールの戦いでは英国陸軍だけで25万人が戦死しています。余りの多さに呆然とさせられますね。

 パッシェンデールの戦い 第一次世界大戦の西部戦線における主要な戦いの一つ。1917年7月末から同年11月まで続いた。戦闘はイギリス、ANZAC、カナダ、南アフリカからなる連合国軍対ドイツ軍の間で戦われた。
連合国軍の目的は、ベルギーのウェスト=フランデレン州イーペル付近にあるパッシェンデール(en:Passendale)を制圧し、ドイツ軍戦線に突破口を開きベルギーの海岸線まで進出、Uボートの活動拠点を占拠することにあった。これだけの突破作戦が成功すれば、戦線の要である位置に決定的な通廊が穿たれることになり、フランス軍への圧迫も除去されると期待できた。
戦場となった地域の大部分は元は沼沢地であり、雨が無くともぬかるんでいた。イギリス軍による極めて大規模な準備砲撃はこの脆弱な地表を引き裂いてしまい、8月以降の大雨と相俟って当時発明されたばかりの戦車ですら通行不能な底無し沼を至る所に作り出し、無数の兵士を溺死させることになった。これに対しドイツ軍は良好に整備された塹壕と、連合国軍の準備砲撃にもよく耐える相互に連携したトーチカ群に拠って防衛戦を遂行できた。最終的にパッシェンデールはカナダ軍により占拠されたが、連合国軍の損害は約45万人に及んだ一方、ドイツ側の損害は26万人であった。(Wikipediaより)

こうした数字を踏まえ、historynet.comでは、へイグを「第一次世界大戦中で最悪の将軍」と酷評しています。ブッチャー・へイグ共々、この数字を見せられれば、そう評する向きが出て当然でしょうか。ちなみに、戦後は英雄と称えられたものの、一切の他の役職を英国政府は与えなかったそうです。

 

オンラインでも閲覧可能なんだって

 

さて、スコッツマンの記事に話を戻しますと、国立図書館ではオンラインでの閲覧が出来るようにしているのだそうです。

何でも、スコットランドでは、こうしたデジタル・アーカイブ化が進んでおり、アバディーン・バラン・レジスターと呼ばれる公文書施設(早くからスコットランド地方の全都市の記録を所蔵)があったり、スコティッシュ王立国家研究所で19世紀や20世紀のスコットランドでの知的障害児の介護の様子を研究したりしています。

今回の登録について、図書館のダリル・ミード氏は「当図書館の収蔵書物が重要文書としてユネスコに登録されるのは大変な名誉だ。我々の所蔵書は16世紀から20世紀までの膨大な広がりがあり、ここスコットランドで世界有数の図書館となっている」と半分自己PRも兼ねたコメントをしています。

ちなみに、閲覧は日記の一部分だけなのだそうです。この他にもヒッチコックのサイレント時代の映画や、ウィンストン・チャーチルの個人アーカイブなども遺産登録されているとの事です。

URLはこちら。さてさて、どんな内容なのでしょうか?

日記の1頁目(図書館のHPより)

 

fine day but cold and dull. –

'Reports from Foch's H.Q. state that meeting with
German delegates (which took place in train in the
Forest of Compiègne, not in Château as previously reported)
began at 2 a.m. and at 5 a.m. the Armistice
was signed. The Germans pointed out
that if the rolling stock & supplies of the Army
(which have to be handed over by the terms of the
Armistice) are given up, then Germans East of
the Rhine will starve. Report says Foch was
rather brutal to the German delegates, and replied
that that was their affair!

The Armistice came into force at 11 a.m.

'The state of the German Army is said to be
very bad, and the discipline seems to have
become so low that the orders of the officers are
not obeyed. Capt[ai]n von Helldorf who tried to get
back to Spa from Compiègne with the terms of the
Armistice by night was fired at deliberately by
the German troops [ ] and could not pass, while on
another they broke up the bridges so that he could
proceed.

At 11 a.m. I had a meeting in Cambrai with
the 5 Army Com[mande]rs' and Gen. Kavanagh Com[mandin]g Cavalry
Corps. I explained that for the moment my orders
are to advance onto a sector of the German frontier 32 miles wide

 

晴天だが寒く、だるい。
(フランス軍の)フォッシュ元帥の本部が、ドイツ代表団(シャトーだと報じられているが、コンピエーニュの森の特別列車に滞在している)との休戦会議を行うと宣言した。

休戦で必須とされている、ドイツ陸軍が保有する鉄道車両や貨物設備を全て渡すとの条件を吞めば、ライン川東方のドイツ人が飢えてしまう事になろうと、代表団は指摘している。報告書によると、フォッシュはドイツ代表団に対してかなり残酷な姿勢であり、それはそちらの問題だろう!と答えたと記している。

休戦は午前11時に発効する。

ドイツ陸軍が於かれている状況は極めて悪く、士気も低下してきており、将校からの命令に従わない兵士も出ている。フォン・へルドルフ少佐が休戦会議から戻ってきて入浴しようとしたら、ドイツ軍側から意図的に撃たれたそうだ。命中はしなかったが、砲撃によって橋が壊れ、直さねばならないと言う。

午前11時、カンブレーでの第5陸軍指揮官や騎兵師団のカバナフ将軍らと共に会議に参加。ドイツ側が陣取る32マイルの範囲に及ぶ地域に部隊を進軍させる旨を説明する。

という内容でした。

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