日本初の歴史・戦国ポータルサイト

BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)

スポンサーリンク



週刊武春 WWⅠ百年 アメリカ WWⅠ

アメリカ軍の捕虜用に手錠抜けを教えた人気マジシャンの一生【第一次世界大戦100年Vol.15】

更新日:

 

昔から、「芸は身を助く」という諺があります。英語ではArt brings bread。「芸がパンをもたらす」ぐらいの意味になりましょうか。

で、これを地で行く事実は小説よりも奇なりな話が第一次世界大戦中にあったのです。wildabouthoudini.comというサイトが語る、その驚きの中身とは!?

 

一世を風靡したマジシャン 戦場に

手錠王

当時、アメリカにハリー・フーディーニという奇術師がいました。1874年、ハンガリーのブダベストのユダヤ系の家族の4番目の子供として生まれましたが、4歳の時に両親がアメリカに移民。以後、アメリカ人として育ちます。住み着いた先のウィスコンシン州のアップルトンという街で、次第に体操やアクロバットに興味を持ち、遂には「エーリッヒ、空の王子」と自称するほどのサーカス芸を身につけていきます。そして8歳の時に奇術師のドクター・リンに魅せられ、マジシャンになる事を夢見るようになっていきます。

父親の失業を機に、ミルウォーキーに引っ越しましたが、生活は困窮を極め、本人も小学校3年で退学。以後は働いて家計を助けようとしますが、それでも貧乏から脱出できず、12歳で家出。ニューヨークで建設工事業に就いた事で、人生の転機を迎えます。生活が安定し、アマチュアの体操クラブに入会。その図抜けた身体能力が注目されるようになったのです。各種の競技で優勝を総ナメ。ボクシングから自転車から走りから水泳から何でもござれで、終まいには五輪出場のトライアウトまで受けていたぐらいでした。やがて、当時有名だったフランスのマジシャンのロバート・フーディンの自叙伝を読んで、フーディーニと名乗るようになります。

 

スポンサーリンク

「どんな所からでも脱出!」が売り

ミルク缶抜けのマジック

そして、実際にマジシャンとして活躍するようになるのですが、その際の売りが「どんな所からでも脱出してやる!」。家族と再び暮らすようになったフーディーニは、実の兄弟で脱出マジックのパフォーマンスで大喝采。1893年のコロンビア博覧会や、ニューヨークのコニーアイランドなどで興行するまでに至りました。なお、コニーアイランドでのパフォーマンスの際に知り合ったショウガールのベアトリス・ラーナーと3週間余りの交際を経て電撃結婚しています。そして、今度は夫婦でパフォーマンスを演じていきます。興行先もアメリカだけでなく、カナダでも行うほどの人気。奥さんもマジシャンとしての才能があった事が、成功への階段を昇らせていったようですね。

 

生涯の持ちネタ「手錠抜け」で大ブレイク

そうこうする内に、1899年に生涯の持ちネタを取得します。手錠抜けがそれです。ミネソタのセントポールのビアホールの興行で、ボードビルの大家だったマーティン・ベックという人から注目されたのです。ベックは、「色々と芸幅が広いようだけど、いっそ手錠抜けと鞄からの脱出の2つに芸を絞ってみたらどうか」とアドバイスしたのです。

バックは自分の主催するサーカスにフーディーニ夫妻を加え、西部で興行します。その際の前宣伝に使ったのが、地元の警察署からの手錠を外しての脱走劇。これに見事に成功します。受ける警察署も警察署ですね。面目丸つぶれ(苦笑)。ともあれ、地元紙が大々的に書いてくれた事もあって、一大ブレイク。今度は大西洋を渡ってロンドンで興行するまでになりました。ちなみに、この時はロンドン警視庁から手錠を外して脱走したというのを売りにしていたシロニックというパフォーマーから挑戦状を叩きつけられますが、無事勝利を収めます。

ちなみに、今なお大衆紙として有名なデイリー・ミラー紙が特注の手錠を制作し、90分以内で外してみろと煽り立てましたが、これも難なく達成。その余りの凄腕見たさに、全英での興行は人が入りきらないほどだったそうです。そして、英国だけでなく、全欧で大人気。手錠抜けのパフォーマンスを、果てはシベリアの監獄ででもやってのけたそうですから、ここまで来ると悪ノリな感じすらしますね。

 

「兵隊に手錠抜けを教えたいんですけど」「えっ?」

やがて、映画が発明されると、これにもキッチリと乗ります。自分の芸を撮影して貰い、パリで興行させて大ヒット。今日で言うメディアミックスですね。先見の明のある人だったのでしょう。

さて、そんなフーディーニが第一次世界大戦に遭遇したのは1914年。芸歴の全盛期を迎えようとしている頃でした。人気に慢心する事も無く、ミルクの缶から脱出するなどの新境地にも挑んでいた彼にとって、戦争の勃発は欧州という大マーケットを失う痛手となりましたが、転んでもタダでは起きなかった。何と、参戦に傾きつつあったアメリカ政府に「軍人が捕虜になっても脱走できるように、手錠抜けの技を教えたいんですけど」と提案したのです。戦時国債の売り出しにも協力するなど、愛国者としての訴えだったのか、それとも時局に便乗してのビジネスパーソンとしての申し出だったのかは不明ですが、アメリカ軍にしたらビックリ仰天だった事でしょう。

実際、lookingforpearls.blogspot.jpというサイトの記事によると、軍の方でもゴーサインを出して、1917年にフーディーニが教壇(と言って良いのかどうか分かりませんけど)で方法を伝授したそうです。御本人にしたら、タネをばらしてしまう訳ですから、やはり愛国者としての協力だったのかも。

ちなみに、フーディーニの教えを実行して成功した兵士がいたかどうかは、歴史の記録に残っていません。

脱出成功した捕虜がいたかは不明

戦後はハリウッドにも進出し、幾つかの短編映画にも出演します。パラマウントの配給による、アクションをふんだんに盛り込んだ作品は大ヒットとなりました。もっとも、スタントマンを使う場面もあったようですが、本人はあくまで自分がやったと言い張っていたようです。

その後は、ニューヨークに戻って自ら映画会社を立ち上げて、2本の作品に出演。欧州でもヒットさせますが、ちょっと手を広げすぎたのか、特撮の研究会社を設立し、これが大赤字になり、結局は撤退してしまいます。

そして、予期せぬ死を迎えてしまいます。1926年、カナダでの興行中、「お腹を強く叩かれてもへっちゃら」というパフォーマンスを準備中、地元の大学生が本気で叩いたところ、急性虫垂炎となってしまい、そのまま帰らぬ人となってしまったのです。最後に残した言葉は「戦うのに疲れたよ」だったそうです。享年52。

ちなみに、アメリカでは記念博物館があるなど、今なおマジシャンの世界では伝説の人。記念館では、やはり脱出劇のパフォーマンスをやっているぐらいです。

ただ、これを受けて、アメリカの4軍で捕虜になった際の脱走マニュアルとしてフーディーニの教えが生かされているかどうかは…すんません、調べましたけど分かりませんでしたわ。



スポンサーリンク

スポンサーリンク

takosaburou・記

 

意外と優しい!? 織田信長さん



生誕450周年!伊達政宗さんの生涯



毛利元就はナゼ一代で中国地方の覇者となれた?


井伊直虎の生涯46年をスッキリ解説!



武将ジャパン・TOPページへ戻る



スポンサーリンク

-週刊武春, WWⅠ百年, アメリカ, WWⅠ

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2017 AllRights Reserved.