日本初の歴史・戦国ポータルサイト

BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)

スポンサーリンク

週刊武春 WWⅠ百年 WWⅠ

元祖美魔女「マタ・ハリ」の機密ファイルをMI5がオンライン公開【第一次世界大戦100年VOL.17】

更新日:

5月26日に清朝最後の王族である愛新覚羅顕琦さんが亡くなられましたが、彼女の姉は「東洋のマタ・ハリ」と呼ばれた川島芳子さん。では、本家の「マタ・ハリ」はというと、第一次世界大戦と関係ありな女スパイだったのです。近現代戦史研究家の南如水さんの寄稿です。

 

ワタクシメのような五十路を回ったオッサン世代にとって、クリステルと言えば滝川さんではなく、シルビアさんを彷彿しますよね。

 

惜しむべき事に、先年早世なさいましたが、訃報を扱った報道機関は母国オランダより日本の方が多かったとか。やまとおのこ、義理堅し。

 

…ってナニを書いているかと言いますと、彼女の代表作として挙げられるエマにエル夫人とは別に、「魔性の女スパイ」という作品があります。同じオランダ生まれで、第一次世界大戦では女スパイとして活躍するも、最後は刑場の露と消えたマタ・ハリの生涯を描いた作品です。

 

そのマタ・ハリに対する英国のMI5の訊問記録などを、第一次世界大戦100周年という事でオンライン公開しています。英国のナショナル・アーカイブスが4月10日付けで発表しています。

 

西洋のマタ・ハリは元祖美熟女

マタ・ハリは1876年、オランダのアムステルダム生まれ。4人姉弟の長女でした。本名はマルガレータ・ヘールトロイダ・ツェレ。後に名乗るマタ・ハリというのは、インドネシア語で「太陽」と言うような意味です。

 

その生涯は薄幸でした。15歳の時に母親が亡くなり、裕福だった家も父親が破産して離散。幼稚園の教諭を夢見るも、これも叶わず、やがて新聞広告で結婚相手を募集していた男性と添い遂げようとします。相手は20歳も上のインドネシア駐留が決まったオランダ軍将校で、赴任に当たって相手を探していた模様です。

 

相手は当時の上流階級に属し、貧乏生活から脱したものの、幸せは続きませんでした。2児を儲けたものの、昇進が遅く、現地生活でたまるフラストレーションを酒で晴らそうとする夫との間にすきま風が吹くようになり、果ては現地女性と浮気をするようになったからです。

 

結局、離婚で幕切れ。1903年にパリに移り住み、ジャワ島から来たダンサーという触れ込みでステージに立つようになります。踊りの基礎はインドネシアにいた頃の数ヶ月間に地元のダンス教室で習ったそうです。

 

なお、2人の息子さんの内、1人は2歳で、もう1人は1919年に21歳で亡くなっています。

 

スポンサーリンク

ダンサーとしての名声も戦火に呑み込まれ

 

このパリ時代が、恐らく生涯で唯一の幸福な時代だったかと推察されます。コンテンポラリー・ダンサーのイサドラ・ダンカンやルース・デニスといった人達が展開していたモダン・ダンス運動の黎明期で、アジアやエジプトの踊りにインスピレーションを得ようとしていたダンサーの注目を浴びるようになったからです。本格的なデビューは1905年3月15日。パリにあるギメ東洋美術館で夜に踊ったのですが、その服装やエロティックなダンスが注目を浴びたそうです。

 

マタ・ハリ1

 

なるほど、さもありなんですね。ちなみに、ここまでの大胆ポーズを撮らせる女性は当時少なかったそうで、そういう意味でも注目されていた模様です。

 

その後、当時リヨンで幅を利かせていた財界人のエミール・エティエンヌ・ギメの囲われ者となります。ギメは上記の美術館を作った人でもありますから、そうした縁があったのでしょう。こうした奔放とも言える生き方を、当時の女性も支持していたそうですから、この頃が生涯の絶頂期だったのかもしれませんね。

 

もっとも、そういう運命なのか、再び暗雲が漂い始めます。今みたいにグーグルで瞬時に検索といった事が出来ず「良く知らないエキゾチックな国から来た踊り子」という売りが出来たのは最初の数年間だけ。批評家が彼女の踊りが人気を得ているのは安っぽい露出癖のせいであり、踊りの基礎が出来てないと見破り始めたのです。公演それ自体は盛況だったものの、次第に文化研究所などからはダンサーとして見なされなくなっていきました。

 

そうこうする内に、第一次世界大戦が勃発。ダンサーとしての公演も、1915年3月で最後となってしまいました。

 

スポンサーリンク

軍の高官や政治家と関係したばっかりに…41歳で処刑

 

彼女がスパイになった経緯は、今なお明らかではありません。ただ、戦前から大勢の軍の高官や政治家、そして社会的に影響力を持つ多くの男性とベッドを共にしていた事が原因になっていた可能性があります。それまではエキゾチックなボヘミアン扱いだったのが、戦火が近づくに連れ「尻軽女」と見なされ、男を誘惑する悪女と思われるようになったのです。

 

そして開戦。彼女は祖国とフランス、スペインや英国を往き来します。戦火を逃れる為だとされていますが、それが怪しまれるようになります。1916年、英国のファルマス港に上陸したところを官憲に逮捕されロンドンに連行。そこで尋問を受けます。担当官はバジル・トムソン卿。ロンドン警視庁の防諜担当官で、つまり彼女にはスパイ容疑がかけられていたのです。後の1922年にトムソン卿が残した回顧録によると、マタ・ハリは自分がフランス情報部に雇われていると話していたそうです。その後、英国側は彼女を釈放しますが、理由は不明です。実際に雇っていたかどうかが今なお分かっておらず、言い分を聴いて同盟国に配慮したのか、あるいは当時の超有名人だった彼女を拘束し続ける事で外交問題に発展するのを恐れたのかもしれません。

 

ところが、開けて1916年、今度はスペインから火の手が上がります。マドリードのドイツ駐在武官事務所がベルリン宛てに無線暗号を送信しました。内容は、ドイツにとって有益なH-21とのコードネームを与えられたスパイに関するもの。これをフランス側は傍受し、解読します。そして、他の情報と照らし合わせたところ、H-21がマタ・ハリだと断定。1917年2月にパリのホテル・エリーゼ・パレスに投宿中の彼女を逮捕します。

 

罪名はスパイ。少なくとも5万人の兵士を死に追いやったと非難されましたが、肝腎の証拠を英仏両国とも突きつける事はありませんでした。秘密インクが押収されたというのが、証拠らしい証拠でしたが、大勢の男性と浮き名を流していたのですから、そういう道具を持っていたとしても不思議ではありませんよね。彼女自身も、パリのオランダ大使館に何度も手紙をしたため、自分は無実だと主張していたぐらいです。

 

ところが、当時の有名な弁護士であるエドゥアルド・クラネットの奮闘も空しく、反証とするべき材料が乏しかった事もあってスパイでないと立証できず、死刑判決が下ります。1917年10月15日に銃殺。刑場の露と消えたのでした。享年41。

 

「本当にスパイだったの?」残された謎

 

読者の皆様の中には、「本当に彼女はスパイだったのか?」と疑問視なさる方もおありでしょう。実際、死後長く論争になっていました。

 

一応の解決があったのは、1970年代。当時の西ドイツがスパイだった証拠を示す文書があったと発表したからでした。それによると、マタ・ハリは1915年にドイツのセクション3という組織のBチーフを務めるワルター・ニコライの指揮下に入り、スパイ活動のノウハウを学んだ後、マドリードのドイツ大使館に勤務しているアーノルド・カーレ少佐の命令を受けてスパイとして活動します。なお、H-21というコードネームは部下のホフマン大尉が与えたそうです。

 

また、1916年12月、当時のフランス戦時省第2局がマタ・ハリにベルギー人スパイ6人の名前を知らせた記録があったそうです。内、5人はドイツのスパイであるとのニセ情報を掴ませました。そして残る1人にはドイツとフランスの二重スパイの嫌疑があるとの情報を彼女に持たせました。で、彼女がパリからマドリードに旅行中に、このスパイだけがドイツ側に処刑され、残りは任務を続行していたそうです。第2局では、これを以てマタ・ハリがドイツと連絡を取り合っていた証拠だとしています。リーク情報を出して、スパイを炙り出すというのは当時からやっていた訳ですね(以上ウィキペディア英語版などより)。

 

以上でお分かりのように、事ほど左様に謎めいている訳ですが、それに光を当てそうだというので注目されているのが、今回のオンライン化。ナショナル・アーカイブスではMI5の150もの極秘文書を世に出したからです。

 

彼女だけでなく、当時スパイの嫌疑をかけられた人を対象にしています。参照番号はKV2だそうです。アーカイブの記録専門家であるステファン・ツイッギ博士は「今回のコレクションの閲覧は、第一次世界大戦中に治安当局が果たした役割の重要性を示すものだ。開戦100周年を記念したプログラムの一環として、これをオンライン化し、世界中の人が当時の戦争の知られざる一面を発見して欲しい」と話しています。

 

ちなみに、マタ・ハリの参照番号はKV 2/1KV 2/2。「悪名高き女スパイでありエンターテイナーだった」とあります。訊問記録だけでなく、当時の逮捕報道なども合わせて公開しています。見たかったのですが、残念!有料だわ。3.3ポンドだって(涙)。両方合わせて120ページにも渡る記録だそうです。アメリカのaninews.inというサイトではデータを購入したらしく、内容について少しだけ触れています。

 

それによると、MI5側では彼女の男性遍歴を問いただした際、肩をすくめ、こう答えていたそうです。

 

「出会った将校全てを愛しているが、どちらかと言えば金持ちの銀行家よりも貧しい将校の方が好きだったわね」

 

…その言葉の影に、破綻した結婚生活という昔があったかどうかは差だけではありません。

 

MI5は、彼女が全て白状してはいないし、仲間の名前も言ってないと報告書を作成していたそうです。

 

なお、今回のaninews.inの報道から、彼女が処刑の際に目隠しを拒否し、投げキスをしていた事が明らかになっています。これは「間諜X27」というタイトルでマレーネ・デートリッヒが演じた際、自分に向けられた銃剣を鏡代わりにして口紅を引き直す画面を彷彿させられました。

 

死後、何度となく映画化された彼女ですが、こうした新資料を踏まえて、新たなマタ・ハリ像が構築されていくのでしょうか?

 

スポンサーリンク

南如水・記




1位 西郷隆盛49年の生涯!


2位 ホントは熱い!徳川家康


3位 意外と優しい!? 織田信長さん


4位 直虎の後を継ぐ井伊直政とは?


5位 毛利元就の中国制覇物語


6位 伊達政宗さんは史実も最高!


7位 最上義光 名将の証明


8位 最期は切ない豊臣秀吉


9位 史実の井伊直虎とは?


10位 もしも戦国武将がサッカー日本代表だったら?


武将ジャパン・TOPページへ戻る



-週刊武春, WWⅠ百年, WWⅠ
-

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2017 AllRights Reserved.