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世界史上初の首都空爆!ロンドン上空での飛行船と複葉機の空中戦の行方は?【第一次世界大戦100年VOL.21】

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第一次世界大戦直前に行われた、当時の飛行機によるドーバー海峡横断イベントでの出来事。高級紙であるタイムズの記者が、渡りきった飛行機を褒め称える記事を書き上げたところ、一瞥したデスクが原稿をゴミ箱にポイッ。

怒った記者に、こう怒鳴り返したそうです。

「お前は馬鹿か。空を飛んでドーバー海峡を渡って、ロンドンまで来るとなってみろ。空から攻撃されるって可能性も出てくるんだろうが。今まで我が国が営々と建造してきた軍艦が、全て役に立たなくなるんだぞ。その危険性を、何で原稿に盛り込まないんだ!?」

イノベーションには、それによって得をする面と損をする面の2つがある。両方を指摘してこそ、ニュース記事というもの。このエピソード、割に向こうの新聞業界では知られているのだそうです。

 

ドーバー海峡を空から越える 懸念は第一次世界大戦で現実に

そうしたタイムズのデスクの懸念は、第一次世界大戦で現実化してしまいました。飛行機ではありませんでしたが、飛行船が音も無く英国奥地まで侵入し、爆弾を投下するようになったからです。

その様子を伝えるのは、ミリタリー・ヒストリー・マンスリーのHP。

それによると、開戦の翌年の1915年初頭には、早くも爆撃が始められていました。当時のドイツ軍には、飛行船を操るベテランパイロットが養成されており、ドイツ北部から出撃していたのだそうです。

 

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33歳のドイツ人の航空士の運命は 

そんな一人が、当時33歳のハインリッヒ・マッシー。航空士として卓越した技量と冷静な判断力を持つ彼は、タイトニット姿の軍服で、颯爽と英国本土へと向かっていきました。

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L31型ツェッペリン(ミリタリーヒストリーHPより)

 

飛行船は、ご覧のような葉巻型。長さ200メートル、幅24メートル。L31(LZ31)と呼ばれていました。当時のドイツ海軍の戦艦より大きかったそうです。

ジュラルミンの骨組みと、鋼鉄製のワイアーに、動物の皮や木綿の布地や膠で出来た19個の袋に水素が詰められるという構造。ゴンドラが3つ、エンジンは6つ装着されていました。最大戦速で63マイル出たと言いますから、時速約100キロ。結構早く飛べたのですね。

 

乗組員は全部で約20人。全て志願者から成り立っていました。

ブリッジには指揮官と、上級将校、航空士、下士官などが乗り組み、昇降舵や方向舵を操つりながら、寒空(何しろ、夏でも上空は零下25度だったそうです)の中を敵地に向かったのでした。高度4000メートルを飛ぶ関係で、酸素マスクは必須。眠気覚ましに強いコーヒーも支給されていました。また、全員が分厚いウールの下着と、青の海軍軍服とレーザーのオーバーオールにコートまで羽織っていたとの事ですから、動きづらかったんだろうなぁ。なお、安全ヘルメットは革製だったそうです。それで弾丸が防げたのでしょうか?

飛行船の乗組員たち(Wikipediaより)

 

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イギリスへのダメージは大きいものの戦死率も40%の高確率

イギリスの徴兵募集のポスター(Wikipediaより)

 

敵の高射砲の弾丸が届かない為の措置ではあったものの、そんな高さはベテラン乗組員にとっても未体験。武器としての信頼性も低く、乗組員の半数は整備兵で、飛行中に絶えず故障する船の修理に大わらわだったそうです。

この年の9月23日と24日の出撃では、2隻のツェッペリンが対空砲火で撃墜されています。水素の塊なので、火が付いたらアウトだったようですね。随伴して爆撃していた飛行船からは、その墜落の様子が手に取るように見えたそうです。

この時の僚船の喪失は、仲間にとってショックだったようで、マッシーの部下も不眠症になってしまいましたし、本人も子を産んだばかりの若妻(ヘルザ)に手紙をしたためます。

「ペータースンは死んだ。ベッカーは捕虜となった。ヘルザ、戦況は悪化するばかりだ。娘を寝かしつけたら、善良なる天使が降り立ち、君の心を読み取ってくれるだろう。そして我が船を空でのあらゆる危険から守ってくれるよう取りはからってくれるに違いない」。

しかし、その1週間後、マッシーは…。

 

高射砲は8000分の1しか当たらない 恐怖に脅えるロンドン市民

英国側にとっても、無音の爆撃飛行船ツェッペリンが脅威であったのは確かでした。ロンドンでは、探照灯と国土防衛隊を見張り役に配置され、高射砲や迎撃機で対処しようとしたものの、効果が薄かったからです。

実際、8000発も撃った高射砲弾の内、命中が確認されたのは1発だけ。防衛隊員が敵飛行船を発見出来る確率は10%にも満たなかったそうです。その上、迎撃機がクセモノ。

BE2cと呼ばれる複葉機で、安定性こそあったものの、情けないほどスピードが出ない。何しろ、最速75マイルだったそうですから、ツェッペリンより少し早いぐらい。しかも、高度3000メートルまで上昇するのに30分以上かかっていたのだとか。

 

ウィキペディア日本語版より)

ちなみに、飛行機の大きさは、ツェッペリンの25分の1だったそうです。

 

複葉機VS飛行船の空中戦の結果

こうした中に現れたのがマッシー率いるL31でした。10月1日の午後9時、ロウズソトフトを爆撃した後、ロンドン南部を次の目標に定めます。しかし、午後10時45分に探照灯に捉えられます。

一旦は回頭し、エンジンを止めて空中に停止させ、探照灯の矛先を回避しようとします。レーダーの無い当時は、目視と音だけが敵を発見する手立てだったからです。

その策は実りませんでした。日を跨いで2日午前0時30分、再び探照灯に捉えられます。そして、鈍足のBE2cが飛行船に近づきました。搭乗していたのはワフスタン・テンペスト中尉。爆弾を投下し、高度を上げて振り切ろうとしたL31を追跡しました。そして、相手よりも上昇し、急降下しながら漆黒の中を機銃掃射します。

 

しかし、これは外れます。もう1度、今度は船尾の下部から狙います。「3度、船殻を狙った。また外れたかと思ったが、やがて火が船内から、まるで中国のランタンのように赤々と燃え上がるのが見えた」。

命中したら発火する新型の弾丸を機銃に使用していた事がテンペストにとっての殊勲となり、また、マッシーらの悲運となってしまったのでした。

火に包まれて船は墜落。危うくテンペストも巻き込まれるほどの勢いでした。ロンドン北部のポッターズ・バーに墜落。全員が戦死しました。多くは焼死し、1人だけ脱出したものの、やがて絶命してしまいました。

 

残骸周辺には、大勢の野次馬が集まりました。撃墜は喜ばれたものの、世界最初の首都への戦略爆撃であり、侵入を許したという点では英国の敗北と見なされたそうです。

イギリスの宣伝ポスター(Wikipediaより)

 

こうした、大戦を通じての飛行船乗組員の戦死率は40%にも昇りました。それにしても、遺されたマッシーの妻と娘さんは、その後どうなってしまったのでしょうか?

 

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