日本初の歴史・戦国ポータルサイト

BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)

「あれ少ない?」タイムスクープハンターも唖然(霜月けい・絵)

スポンサーリンク

週刊武春 歴史漫画ウソホント 源平

ビッグデーターで見た源平一の谷の戦いの本当の動員兵力

更新日:

 

古今東西、戦争の物語での兵力は盛っているというのが定番。例えば最近の三国志映画「レッドクリフ」では曹操軍80万と表現されていた。人口80万人と言えば政令市の新潟市の全人口に相当するものだが、この人口が一日に消費する食糧はどのくらいか想像もつかない。戦場1か月の駐留なら、3か月の駐留なら……。現実的にこんな食糧を運搬備蓄できるとはとうてい思えないが、さてさて。
「さすが中国」と笑ってみるのではなく、我が国の中世前期(1184年)の一大合戦「源平一の谷の戦い」の兵力を検証してみよう。

平氏10万から源氏2千人まで様々な動員数

沢田ひろふみ氏の『遮那王義経 源平合戦』(講談社コミックス)の16巻では「その数およそ十万騎 そこから京の奪回を狙っている」と義経の異母兄・源範頼に語らせている。義経の驚くこと、驚くこと。

遮那王義経源平の合戦16 巻より

遮那王義経源平の合戦16
巻より

10万という数字はおそらく『平家物語』(伝承本)での平家10万、源氏6万に因っているのだろう。ところがこの動員数、『吾妻鏡』(鎌倉幕府公式歴史書)では平家数万、源氏7万6千、『玉葉』(九条兼実日記)では源氏2~3千、そして現代の合戦研究家の三木治氏は平家5~6千、源氏2~3千としており、あまりにも幅が広い。そこで当たらずといえども遠からずという数字を統計的に引きずり出してみた。

スポンサーリンク

源平合戦時の人口は700万人 そのうち16万人が神戸(一の谷)に集結?!

歴史人口学の権威、鬼頭宏氏によると日本の人口推移は、おおよそ鎌倉時代の初期で700万人、関ヶ原合戦時で1200万人、明治初期で3300万人、明治末期で5600万人となっている。すなわち鎌倉初期のさらに前の源平合戦の頃は明治末期の8分の1の人口しかなかった。

次に我が国の歴史上、戦役における兵力数を正確に世に出したのは、ぐんと700年も下って日露戦争(1904~05年)が最初である。あの司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」で有名な明治末期の戦争だ。
これによると日本軍のピーク時の兵力数は25万人となっている。徴兵制が敷かれたオールジャパン選抜軍である。源平両軍が仮に当時のオールジャパンだとすれば、人口比で単純計算して、25÷8=3万人が限界となる。

さらに選抜軍の出身地域を考えてみよう。平家は山陽道・南海道など14か国、源氏も関東・東海道など14か国、合計で28か国だが、これは当時の全日本国土(66か国)のおおよそ半分程度である。これを上の計算式に加味すれば、3÷2で、源平合わせてせいぜい1万5000人となるのだ。つまり両軍それぞれが何万人規模ではなくせいぜい何千人と見立てるのが妥当である。

「あれ少ない?」タイムスクープハンターも唖然(霜月けい・絵)

「あれ少ない?」タイムスクープハンターも唖然(霜月けい・絵)

スポンサーリンク

船の数から数えてみると

以上は人口や地域からの比例計算で割り出したものだが、今一つの手段としては、平家の軍船数から割り出すこともできる。まず船の大きさだが、実はこの時代まで船体を描いた絵がないため、書物から判断する。

一の谷合戦後、平家を追って四国に渡る義経軍は、
「船5艘に150騎」(平家物語)なので1船30人、140年後の太平記では九州から東上する足利尊氏が「水軍500船で5千人」なので、1船10人となる。ここでは中間をとって1船20人としよう。

貴族の日記「玉葉」には屋島に着いた一の谷の平家敗残兵は3千と書かれている。3000÷20=150が平家の軍船数となる。
合戦前、平家は海上より150船で3千人を神戸に上陸させ、さらに陸路でもそのぐらいの兵数を神戸に集結させたはずだ。「平家物語」には、一の谷で討ち取られた平家の首は2千となっているので、生き残りと合わせると5~6千人が平家軍総数となり、つじつまが合ってくる。

源氏軍はほとんどの諸本で平家軍の半数以下に書かれているので、範頼軍と義経軍合わせても3~4千人程度であったと考えられる。

すなわち両軍合わせてちょうど1万人かそれ以下となり、先の統計上の計算に近い結果となることがお分かりいただけただろう。歴史ファンから見ればさほど不思議なことではないようだが、軍記物の大きな数字はもともとこういうものなのだ。

150人が短期間に雪だるま式で60万人になったケースも

ちなみに、天皇家が二つに割れて争った7世紀の壬申の乱は、東西両軍で4万と言われている。当時の日本の総人口は鎌倉時代の700万人よりうんと少ない450万人程度。そこから、老人、子供、女性を除いて考えると、これはもう検証する必要がないほど盛った数字であることが分かる。

これくらいの「盛り」で驚いてはいけない。
源平合戦からおおよそ140年後の鎌倉幕府滅亡時のことである。新田義貞は僅か150騎で関東の地方の村で挙兵した。鎌倉街道を南に下って行く途中で、北条軍と戦を重ね勝利すると兵力は30万に、鎌倉を包囲する頃には60万になったと書かれている。
新聞、テレビ、電話、車などまったく無い時代にどうやって広報したのだろうか。いやいやこれはこれでよいのだろう、それだけ熱い気持ちで筆がすべったということにしておこう。

touaka神戸・記

スポンサーリンク

歴史マンガウソホント記事一覧はこちら

 

 




1位 西郷隆盛49年の生涯!


2位 ホントは熱い!徳川家康


3位 意外と優しい!? 織田信長さん


4位 直虎の後を継ぐ井伊直政とは?


5位 毛利元就の中国制覇物語


6位 伊達政宗さんは史実も最高!


7位 最上義光 名将の証明


8位 最期は切ない豊臣秀吉


9位 史実の井伊直虎とは?


10位 もしも戦国武将がサッカー日本代表だったら?


武将ジャパン・TOPページへ戻る



-週刊武春, 歴史漫画ウソホント, 源平
-, , , ,

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2017 AllRights Reserved.