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タンディーさん

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第一次世界大戦で英国の紳士狙撃兵が撃つのをやめた相手はヒトラーだった?

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歴史のイフというのは、このBUSHOO!JAPANでも好まれる題材ですね。
実際、ワタクシメも、ケネディ大統領を暗殺したオズワルド(実行犯かどうか怪しい所はありますが)の弾丸が、もしそれていたら、その後の歴史はどうなっていたのかを考えて見た事があります。ひょっとしたら、ベトナム戦争は起きなかったかもしれないし、その代わりに米中間の対立は今も続いていたかもしれない。

さて、そうした歴史のイフの第一次世界大戦版とも言える話を、BBCが紹介しています。当時の英国陸軍に、勇敢な兵士がいたのですが、狙うだけ狙っておいて、結局引き金を引かなかったドイツ軍兵士が、後に歴史を変えてしまったのです。

命を永らえたドイツ軍兵士とは、そう、あのヒトラーなんです。

Wikipediaより

 戦後直ぐに最高の勲章授与。20年後のミュンヘン会談で、「実は…」

一方、引き金を引かなかった英国兵士の名前はヘンリー・タンディー。最も手柄を立てた二等兵として、英国では有名な存在です。何しろ、1918年9月には「第5次イープルの戦いで最も明らかな勇気と勲功を立てた」として、ビクトリア十字勲章を授与されていたぐらい。この勲章、よほどの事が無い限り貰えないんですわ。

タンディーさん

タンディーさん

ところが、その20年後の1938年。史上悪名高きミュンヘン会談での席上での事。ヒトラーは、来訪した英国の首相、ネビル・チェンバレンに向かって、今日なお論争となっているほのめかしをしたそうです。

「俺、もうちょっとでタンディーに殺されるところだったんだぜ」(意訳)。

当時のタンディー二等兵は、勇敢ながら騎士道精神の持ち主でもありました。相手が、武器を持たずに負傷していた場合は、撃たなかったのですって。で、ヒトラーは会談場所となったババリアのベルグホーフにある保養所で「俺もその1人だったんだよ」と主張したのです

ヒトラーらしく、仕掛けも周到でした。保養所の壁に、1914年のメーネンの戦いを描いた絵が飾られていました。その絵の中の、負傷した仲間を運ぶ英国兵が、タンディーである事にチェンバレンは気づいたのです。

「この兵士は、直ぐ近くで俺に銃口を向けたんだ。あぁ、もうこれで生きてドイツを見る事は出来ないなぁと覚悟したんだ」と言ったそうです。

そして「英国兵が我々に向けていた悪魔の如き正確な射撃から、神の恩寵で救われたって訳なんだ」。

…と、ここまで書くと「壁の絵って、それに感激したヒトラーが描いたの?」と思われる向きもあろうかと。違います。
イタリアの戦争画家、フォルティノ・マタニアが、戦後の1923年にタンディーの勇猛振りを油絵にしたというのが真相。本物はグリーン・ハワード美術館に所蔵されており、ヒトラーは、複製を飾ってチェンバレンに見せていた訳です。

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所蔵の博物館には、ナチス高官から礼状が

果たして真相は如何に?という感じですが、それらしい節は一応あります。

上記の美術館に、ヒトラーの副官であるフリッツ・ウェイデマン大尉から礼状が届いているからです。
「総統閣下は自分の戦時中の体験につながる出来事に、知らず知らずの間にご興味を抱かれておられます。この絵をお見せした際にも、明らかに心を動かされていた御様子でした」と、中に書いてあったからです。

ではなぜ、この絵の存在を知ったのか?

ヒトラーの側近にオットー・シュウェンド博士という人物がいたのですが、この人が第一次世界大戦後に友人となった元英国兵から、この図柄の絵はがきを貰ったのがきっかけのようです。恐らく、それをヒトラーに見せたというのが、話の流れでしょう。

ヒトラーの別荘の絵

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ヒトラーの眉唾か 80マイル先から狙撃?

で、話がややこしいのは、ここから。絵を見たヒトラーは、タンディーに1918年に遭遇したと主張しているものの、この絵の舞台となった戦いは1914年だったからです。

タンディーの伝記を書いたデビッド・ジョンソン博士も、懐疑的な1人。タンディーは1918年には負傷して治療中。運ぶどころか、運ばれる側だったのだそうです。

距離も離れていました。1918年9月17日、ヒトラーの部隊はフランスのマルコアンに展開中だったのですが、負傷したタンディーは、そこから80マイルも離れた場所にいたからです。

この距離からの狙撃なんて、ゴルゴ13でも不可能でしょう。

博士によると「記憶の混同という訳でも無さそう」。と言うのも、当時から既にタンディーは有名な存在であり、利用したのではないかと見ているのだそうです。

「ビクトリア十字勲章や陸軍の下士官に与えられるディスティンギッシュト・コンダクト・メダルなどを数週間以内に相次いで授与されるような勇敢な兵士の攻撃からも生き残ったという事にして、神がかりな「選ばれし者」という自己認識のあるヒトラーに、より大きな使命のために免れたという物語で飾り立てたかったのでは」(ジョンソン博士)。

 イギリス首相はあせって自ら電話確認

ともあれ、よほど印象に残るか、ビックリしたのかは知りませんが、チェンバレンは帰国後にタンディーに自ら電話をかけて真相を確認しようとします。故小渕首相みたいですね(笑)。

ところが、本人は外出中で、甥っ子が応対したのだというエピソードが残っています。

真相はヤブの中? もっとも、これにもジョンソン博士は懐疑的。「首相はとても忙しく、そんな暇など無かった筈です。タンディーを探し出す時間があったなんて、考えられない」。

首相自身は日記をつけており、身内にもミュンヘン会談に関する長文の手紙を書き添えていますが、電話をかけたという下りは両方とも見当たらないそうです。

決定的なのは、タンディーが自宅に電話を据え付けていなかった事が、当時の電話局の記録文書から明らかになっています。

謀略?に都市伝説が加わったという感じでしょうか。もっとも、1938年の所属していた元連隊の記念行事で、この話が公にされると、面白いというのであっという間に広がりました。どうやらチェンバレンが連隊の関係者に話したらしいですね。

この日 ドイツ兵を狙撃しながら撃たなかったのは事実

どうした訳か、タンディー本人は、この話についてコメントしませんでした。どうも、9月28日にドイツ兵を狙いながら、撃たなかった事は確からしい。ただ、それがヒトラーだったかどうかは、本人にも確信が持てなかったようなのですね。

後の1939年8月に自宅近くで発行されているコベントリー・ヘラルド紙の取材に応じた本人は「ナチス関係者によると、自分はアドルフ・ヒトラーに会っているそうだ。そうかもしれないけど、思い出せないんだよね」とだけ答えています。恐らく、負傷した身ながら、ドイツ兵に銃口を向けていたのでしょうね。

そのコベントリーと言えば、第二次世界大戦中にドイツ空軍の猛爆を受けた地。罹災後、自宅に爆弾を落とされた本人の元に、あるジャーナリストが取材に訪れた際、こう話したそうです。

「奴が何者か、当時分かっていりゃあなぁ」("If only I had known what he would turn out to be,")。迷わず撃ち殺していたのにって所でしょうか? 「ヒトラーに殺されたり、傷つけられた人全てに謝りたい。どうか神よ、お許しを」とも言っていたそうです。

…本人のせいでも無いでしょうに。傷心の彼に、新聞はこう書き立てたそうです。

「彼は、これを止める事も出来たはずだ。彼は歴史のコースを変える事だって出来たのに」("He could have stopped this. He could have changed the course of history")。

知らんがな、そんなもんって気が。後年の本人は、新聞不信に陥っていたと、ジョンソン博士は話しています。さもありなんですね。ペンの暴力はいけませんな。御本人は1977年に天に召されますが、臨終の席上、どんな思いでいたのでしょうか?

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