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戦国時代の教会に茶室は必須!キリスト教宣教師が日本文化を学んだ理由

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「楊枝を手にとると、まず、これを手のひらの半分ほどの長さに折る。これは、長い楊枝をそのまま使う事は無礼だとされる礼義作法からだ。
続けて菓子を食する前に歯に楊枝をあてるのに、左手を唇の上にあてその下でおこなう」

これは、茶席で茶菓子を頂くときの作法についてふれた戦国時代に記されたある書物からの抜粋した文章です。さて、いったい誰が書いた、なんという書物にある文章でしょう。

教会には茶室がないとね~

答えは、文法教科書「日本語文典」を著したことで知られている、当時来日してキリスト教の布教にあたっていたイエズス会の宣教師ジョアン・ロドリゲスが著した「日本教会史」中にみえるものです。

戦国時代の日本史をつづった、やはり宣教師のルイス・フロイスの著作「日本史」中には、織田信長の居城・安土城下の教会堂に「高価で見事に作られた茶の湯の場所を備え」たとあります。安土城下の教会堂に限らず、当時のイエズス会が建設した教会の多くに茶室が併設されていました。

イエズス会は、大名をはじめ各地の有力者との交わりに茶の湯の場が有効と考え利用していたのです。

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キリシタン大名大友宗麟に教わった茶の湯と日本文化

教会堂への茶室の導入は、天正7年(1579)七月にイエズス会布教地の監督を行なう巡察師として来日した、アレッサンドロ・ヴァリニャーノによって始められたものです。

ヴァリニャーノは、この年の8月に豊後国の臼杵(大分県)で布教のための会議を主催するのですが、その後、半年を臼杵で過ごしました。その間、豊後のキリシタン大名・大友宗麟と交わり、和歌・絵画・書・工芸など日本文化にふれる経験をします。

茶室での接待も受け、茶を支える深遠な思想について宗麟との交わりから知ることになるのです。

こうして形成された彼の日本観が、教会堂への茶室の建設につながっていきます。

『近世菓子製法集成』(東洋文庫)の編者・鈴木晋一氏は、同書の解説において、イエズス会が編纂し、慶長8年(1603)から9年の間に、長崎県島原で刊行されたと考えられる「日葡辞書」には、2800種ほどの食に関する語彙が並ぶが、そのうち、120語ほどが茶の湯に関する語彙だと指摘しています。

1600年(慶長5年)までに、西九州のいずれかのイエズス会修道院で書かれたと推測される「南蛮料理書」には、45種の料理が紹介されているのですが、その3分の2の数が菓子の製法として充てられ、「かすてら」「こんぺいとう」などの南蛮菓子が並ぶなかに「ういろうもち」「くじらもち」などが「但しすきやくわし」との但し書きを添えられて並んでいるとも鈴木氏は指摘しています。

「すきやくわし」とは、「数寄屋菓子」で、つまり茶菓子のことです。

教会堂に設らえられた茶室で使うために、茶菓子のレシピが添えられていたのです。

シノギをけずるように、領土の切り取りあいを行っていた戦国大名達が、情報の収集や接待の目的で茶ノ湯の場を利用していたことは、よく知らていることですが、宣教師たちの布教戦略に茶が使われていたということは、意外なことです。

かたことの日本語で差し出される茶を、接待を受ける大名達はどのような思いで味わっていたことでしょう。

FrcoDon・記

参考文献

鈴木晋一編『近世菓子製法集成』(東洋文庫)



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