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週刊武春 豊臣家

秀吉政権下の「五奉行」が要らない子だった件 「やーい、やーい、お前ら西軍はブ・ギョ・ウ」

更新日:

豊臣秀吉政権の「五大老五奉行」をご存じの方は多いでしょう。

五大老は

  1. 徳川家康
  2. 前田利家
  3. 毛利輝元
  4. 宇喜多秀家
  5. 上杉景勝(小早川隆景)

五奉行は

  1. 石田三成
  2. 前田玄以
  3. 浅野長政
  4. 増田正盛
  5. 長束正家

一般的には五奉行制度は、秀吉が関白になった1585年(天正13)にできた(『甫庵太閤記』)とされています。実際には秀吉が病気になった1598年(慶長3)7月頃にできたとする歴史研究者もいます。

江戸時代にあてはめると、五大老は外様大名の大藩、五奉行は幕府で井伊直弼やら水野忠邦やら老中などになる行政機関のトップ(現代なら事務次官みたいなもの)です。

五奉行は、秀吉の意向を受けて、時に勝手に忖度(そんたく)して、豊臣政権を事実上運営していた力のある役職です。
当然、誇りに思っていてもおかしくないはずです。

ところが……

五大老「お前って奉行だよね」
五奉行「いやいや、むしろ君が奉行でしょ」
五大老「いや、オレ奉行とかいらんし」
みたいなことが行われていたのです。

えらくなると「奉行」なんて呼ばれたくない男心

どういうことでしょうか。端的に言うと、「奉行」には「だれかに仕える小間使い」的なニュアンスが含まれていたのです。
いちおう、どちらも秀吉に仕えている立場なのですが、やはりそれぞれ武のモノだけあって、「オレは侍!誰の言うこともきかねえ」みたいなバサラ感を漂わせたかったんですね。

1598年の三成らが家康ら五大老にあてた書状(『竹中氏雑留書』)では、家康たちのことを「五人の御奉行衆」と呼んでいます。そして、自分たち「五奉行」のことは「年寄」であるとアピール。

「奉行でなく年寄と読んでください」(絵・桂花)

「奉行でなく年寄と読んでください」(絵・桂花)

一方で、家康(とそのシンパたち)は積極的に三成たちのことを「奉行」「奉行」と書状でアピールしているのです。
黒田長政(官兵衛の息子)なんかは、関ヶ原の戦い後に、敗者となった西軍の大名のことを「奉行方之者」と呼んでいます。「やーい、やーい、お前ら西軍はブ・ギョ・ウ」って感じなわけです。

「わしは大老であって奉行じゃないから」絵・富永商太

「わしは大老であって奉行じゃないから」(絵・富永商太)

奉行の押し付け合い…遠山の金さん(江戸町奉行)かわいそす。

川和二十六・記

参考文献
山本博文『天下人の一級史料』(柏書房、2009)

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*このお話は、山本氏の著書をもとにしていますが、奉行の名称の研究そのものは、阿部勝則「豊臣五大老・五奉行についての一考察」『史苑』第49巻第2号と堀越祐一「豊臣「五大老」・「五奉行」つにての再検討」『日本歴史』第659号の2つの論文です。




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