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週刊武春 WWⅠ百年 ドイツ

アメリカの鉄鋼王カーネギーが第一次世界大戦を阻止しようとドイツ皇帝に献金・買収しようとしていた!

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久しぶりの第一次世界大戦ネタです。あの戦争の悲劇を予見した当時のアメリカの大富豪が、開戦直前にドイツ皇帝のウィルヘルム2世に「このお金あげるから、戦争は止めましょうよ」と働きかけていた事が明らかになりました。えーっと、これって、贈収賄が設立するのでしょうか。いや、私腹を肥やそうと行うのが贈賄だけど、これで自分の懐具合が豊かになる訳では無し。と言うか、戦争になれば大儲け出来るのですから、むしろ商法の背任罪になるのかな? 法律を勉強しなかったのが悔やまれます(苦笑)。

カーネギーホールで有名なアンドリュー・カーネギーが一大決心もアメリカ元大統領に一蹴され

さて、今回の記事を発掘したのは、英国のスコッツマン紙(2015年7月29日付)。その大富豪とは、あのアンドリュー・カーネギーだったそうです。鉄鋼王として大成功し、カーネギー・ホールを作った人として知られる元祖フィランソロフィー。ウィキペディア日本語版より生涯と写真を引用させて頂きます。

アンドリュー・カーネギー(1835年11月25日 - 1919年8月11日)は、スコットランド生まれのアメリカの実業家。崩れ行く橋を見て着想を得てカーネギー鉄鋼会社を創業し、成功を収めて「鋼鉄王」と称された。立志伝中の人物であり、ジョン・ロックフェラーに次ぐ史上2番目の富豪とされることが多い。事業で成功を収めた後、教育や文化の分野へ多くの寄付を行ったことから、2014年の今日でも慈善活動家としてよく知られている。1889年の『富の福音』はフィランソロピーを志す人々への啓蒙書となっている。

スコットランドのダンファームリンで生まれ、1848年には両親と共にアメリカに移住した。アメリカではまず織物工場で作業員として働き、後に同社オーナー専属の計算書記となった。間もなく電信配達夫となり、電信会社で昇進。1860年代には鉄道、寝台車、鉄橋、油井やぐらなどの事業を行った。最初の資産は、当時花形事業だった鉄道への投資で築いた。

1870年代にはピッツバーグでカーネギー鉄鋼会社を創業。1890年代には同社が世界最大で最も高収益な会社となった。事業で得た富でカーネギー・ホールなどを建てている。引退した従業員のための年金基金も創設した。1901年、J・P・モルガンに4億8000万ドルで同社を売却。エルバート・H・ゲイリーのフェデラル鉄鋼会社と合併してUSスチールとなった。

カーネギーは残りの人生を慈善活動に捧げ、図書館建設、世界平和、教育、科学研究などに多額の寄付をした。アッパーアイオワ大学のキャンパスに図書館を建設するため、下院議長デイビッド・B・ヘンダーソンに2万5千ドルを寄贈している‪。ニューヨーク・カーネギー財団、カーネギー国際平和基金、カーネギー研究所、カーネギーメロン大学、カーネギー博物館などの創設に資金を提供した。最も金をつぎ込んだのはアメリカ各地やイギリスおよびカナダなどでのカーネギー図書館、学校、大学の創設である。

当時の文書が発見され、明るみに出たのだそうです。何でもカーネギーは当時の金で数百万ポンド(今でも、それだけあれば一生遊んで暮らせます)を用意し、ドイツに外交使節を派遣して皇帝に戦争を思い留まらせようと画策したのですって。

スコットランド生まれのカーネギーにとって、英国はアメリカと並んで愛する国。だからこそ「それで平和が保たれるのなら」との思いだったのですが、相談を受けた元大統領のセオドア・ルーズベルトは「馬鹿げている」と一蹴したそうです。客観的に見ればルーズベルトの考える通りだったのですが、以後は塞ぎ込むようになったのだそうです。そればかりか、健康まで害してしまったのですって。

セオドア・ルーズベルト元大統領(Wikipediaより)

こうした経緯に興味を抱いたのがロンドンに本社のあるゲールフォースという制作会社。俳優のブライアン・コックスをナレーターに起用し、「アンドリュー・カーネギー:貧乏人から大金持ちへ、平和への力」というドキュメンタリーをプロデュースし、エジンバラの国際フィルムフェスティバルに出品後、あのBBCで放映するそうです。生い立ちからアメリカへの渡航、そして成功を遂げて大富豪になった様子を追いかけています。

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「本人は戦争を止められると大真面目に思い込んでいました」

製作の総指揮を執ったソニタ・ゲール氏によると、カーネギーは戦争を止められると大真面目に思い込んでいたそうです。実際に金をウィルヘルム2世に提示してもいます。で、ルーズベルトの予想通り、矢張り断られましたが、めげる事なくドイツに外交使節を派遣し、開戦直前まで話し合いを重ねたのですって。

「当時の世界一の大富豪であり、ほぼ思いのままの人生を歩んできましたが、開戦だけは諦めざるを得ませんでした。黙り込み、友人とも話さず、スコットランドからアメリカに戻った時には重度の鬱病にかかっていました。失意の中で死んでいったのです」(ゲール氏)。

これには、制作に関わったトム・ハンター卿も同意見。「ほぼ全ての財産を投じて第一次世界大戦を止めさせようとしていたのです」。

軍艦の建造に不可欠な鉄の製造に大きな影響力を持っていたので、戦争を止められる筈と言うのが本人の思い。実際、英国のエドワード7世にも謁見し、英独間の調停を申し出ようと試みました。

尽きにも見放されました。エドワード7世が崩御してしまったのです。「国王とウィルヘルム2世は従兄弟だから何とかなる」との前提も消え去ってしまいました。そして、ドイツは戦争へ向け動員体制を敷いてしまいました。

カーネギーの伝記をまとめた事のあるデビッド・ナッソー氏は「ルーズベルトはドイツに対し、英国と張り合おうと海軍力を増強していた事に間接的に疑念を表明していました。ただ、ウィルヘルム2世を現実的な人物と見なし、軍縮運動が起きない限りは増強し続けるだろうと考えていました。また、どんな代償を払ってでも平和を維持したいとは考えないだろうとも思っていたようです」と話しています。

ヴィルヘルム2世(Wikipediaより)

だからと言って、カーネギーの奔走を馬鹿にはしていません。「もし今生きていたら、自分の全財産とエネルギーとカリスマ性と知性を投じて、戦争を止めさせる国際的な平和運動をしていた事でしょう」(ナッソー氏)。本人は、各国の指導者が調停の会合を開けるようにと、オランダのハーグに1913年に平和宮を建設していたほどです。この建物は今なお存在します。あの有名な国際司法裁判所は、ここで審理されています。

平和宮(Wikipediaより)

そんなカーネギーは、1919年に他界。第一次世界大戦が終息後の死でした。臨終直前の日記には、次のように書かれていました。

「日々、体が弱りゆくようであるが、何時の日か戦争が国際的は平和法廷によって消え去るとの思いは今なお体に残っている。人殺しを緊急かつ最悪の犯罪として止めさせるその日、私は祝うだろう」

これはこれで、尊ぶべき理想ですし、人類が何時の日か達成せねばならない必須目標ですね。

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