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週刊武春 前田家

丹下典膳や長月隼人がいかに優れた剣の使い手であろうと加賀藩に仕官できないたった一つの理由

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前田藩の江戸の下屋敷の門を叩く浪人の男。
「それがし長月隼人、ぜひとも金沢藩に仕官いたしたく……」
「なに!? 隼人だと! 帰れ! 帰れ!」
「いったい、拙者のなにがいけないと」
「名乗りが悪い」
「拙者、丹下典膳ともうす・・・」
「お前もだめ」ピシャ(戸が閉められる)

名前はかっこいいほうがいいですよね。DQNネームだって親は「かっこいい」と思ってつけたわけです。
ただ、加賀藩に仕官したい浪人は即刻「隼人」なんて名は変えた方がいいですよ。

 

こんにちは、恵美嘉樹です。恵美の「恵美姓」は、奈良時代に藤原氏の中でもエリート中のエリートだけが名乗れた姓でした。(そして、その恵美さんは調子に乗りすぎて反乱の罪をかぶせられて処刑されました、はい)
今回は、あまり立派な名前はときに障害になりますよ~というお話について、日本史の学術論文を、ゆるゆる口語訳していきます。

千葉拓真さん「加賀藩における京都情報と有識知の収集」『古文書研究』75号(2013年6月刊)です。

江戸時代になると、武士のみなさんもすっかり暇になってしまいました。
戦争禁止令が出た武士にとっての存在価値ってなんでしょうか?そんなのありません。

で、仕方がないので、やることは
「ジョブチェンジ!」
「クラスチェンジ!」
そうです。高級なセレブ公家みたいになろうとするのです。暇なので。

加賀藩5代の前田綱紀さんは、まさに暇人中の暇人。暇すぎて、金沢の城下町に文化をたくさん興して、いまや中興の祖です。
小さいときはおじいちゃんで3代利常が後見役で、この人は最後の戦国武将、別名「最後の鼻毛武将」と呼ばれたカブキモノです。(鼻毛を伸ばすのは、戦のときに鼻毛をそろえているやつがあるか!という武士としての意地だった)

イラスト・富永商太

 

戦国の教えをばっちり帝王教育されて才能あふれた殿様だったけど、もはやその武力を使う世の中ではない。 で、あふれる情熱を宝生流の能を京都から金沢に招いたり、百科事典を作ってみたりと、方向転換しました。

その一環として1681年、「有識方」という公家の文化を知る物知り博士である平田内匠家を召し抱えるのです。(ここからが論文の内容スタート)
平田内匠家は朝廷に使える官人(役人)で公家ではありません。でも朝廷を運営する実務担当の役人なので、朝廷や公家の情報に詳しい。

なぜ、こういう朝廷事情に詳しい役人を藩が雇わないといけないかというと、大名と公家との接触と交流がドンドンとふえていったからです。
どういう情報を求めたのかというと例えば

前田家が平田内匠職資へ、東山天皇(天和四年<1684>即位)即位式の絵図提出を命じ、平田は地下官人である出納豊後守にこれを用意させていたことがわかる。
平田内匠が「官家」(公家や門跡)に対する書札礼や応接儀礼などの先例を調査し、加賀藩へ報奥している。
禁裏や公家へ献上を行う場合の儀礼的な文書(目録など)の作成

あと大事なのは、公家の序列や名前、官職がのったリストだったようです。
そりゃそうですね。AKB48も、プロ野球でも、ファンになったからには、その構成員のデータを細かく覚えるのが必須だったわけです。もちろん、公家の官位が昇進したりしたらちゃんと加賀藩に報告して、データを最新のものに更新していくわけです。

さらには綱紀が百科事典を作るくらいですから、古文書の収集もしているわけで、そうした古文書の収集にも、持ち主である公家や坊さんにネットワークのある平田くんが活躍するわけです。

「隼人だめ!ぜったい!」

なぜ「隼人だめ!ぜったい!」なのか、に進みましょう。
飛鳥時代に大化の改新後に、八省百官が置かれたと日本書紀にあります。

8省は、中務省・式部省・治部省・民部省・兵部省・刑部省・大蔵省・宮内省。
百官は、八百屋と同じで、少なくとも日本においては「たくさん」の意味で、省の下の役職という感じ。その中に、隼人(はやと)もあります。兵部省(軍事部門)の下にあって、九州から徴兵された隼人たちの軍団を仕切る隊長といったところです。
こういう名称の制度がずっと戦国時代にまで続いていたわけではなく、中世の武士たちにとって、「かっこいい」となったんで、ルネサンス的にあらためて採用されたわけです。

ところが、ややこしいことに、治部といえば、石田三成ですが、こちらは従五位下治部少輔というちゃんとした官職なんですよね。刑部の大谷吉継も従五位下刑部少輔。秀吉がかわいい部下に与えてくれた役職です。
もとへ、かっこいい名前をつけたくて、隼人だの百官の名前を付けるのが武士の間でブームになると、今度は関東では「もっとかっこいいっぽいの作ろうず」となって、東百官という架空のDQNネームを作り出します。
典膳、兵馬、丹下、伊織、数馬、頼母などなど。。
小説や漫画で出てくる名前多数です。

なぜ、百官の名前を持つ彼らが加賀藩に仕官できないかというと、加賀藩が、平田内匠のような古いしきたりを知っている人を登用した理由と共通しているのです。

論文をよみすすめていきましょう。

江戸時代中期になり、加賀藩はドンドンと、朝廷・公家の世界へとのめり込みます。
朝廷の実務担当の役人だった平田内匠家を引き抜いたのは、前半に紹介したとおりです。古いしきたりや朝廷とのつきあいのノウハウ(有識故実)を知るのが目的です。
朝廷や公家の付き合いの増加は、ぶっちゃけ戦争がなくなって暇になり、嫁を公家からもらったり、官位を求めるしか「向上心」を満たすものがなくなったというのが最大の理由と思いますが、加賀藩の場合、前田家がいちおう菅原道真を子孫としていますので、菅原系の公家と「親戚(同姓)」として、付き合いが広 がっていったこともあります。
平田が持ってきた朝廷シークレットファイルは、

「官家不審問答」(天皇家や朝廷官職等に関する用語の解説書)
「日本記聞書」(日本書紀等に関する注釈書)
「勅宣之写」(勅書などを写したもの)
「百官抄略要覧私稿」(朝廷官職に関する解説書)

などのラインナップとなっています。

こうした朝廷の情報を知っていくうちに、「百官」を使った名前というのは、どうやら簡単に使っていい名前じゃないのかも、と思い至るようになるわけです。

それと同時に、百官には序列があるから、藩の中の序列にも使えばいいではないかとなるのも自然です。
「国事雑抄」正徳三年(1713年)十二月三日条という史料には、身分のあまり高くない平侍の浅香孫六郎という藩士が、百官の一つである「隼人」に改名 しようとしたところ、なんと5代藩主の前田綱紀や家老の奥村伊予守らがわざわざ「だめ!ぜったい!」と”激おこプンプン丸”し、阻止しました。
そして、もう下っ端の藩士に、百官と同じ名乗りは許さないと厳命したのです。

心が狭いなぁと思いますが、固定化された身分を守るのが最優先の社会では、名前という価値が今より高かったのは間違いないでしょう。
じゃあ、どれくらいなら隼人を名乗っていいのかというと、論文で紹介しているのは、4300石というかなりハイクラスな家です。

千葉さんは「他藩の事例にはなおも検討が必要」としています。百官名をつかった名前は時代小説の中では浪人や下っ端同心まで頻繁にでますが、実は、意外と少なかったのかもしれませんね。今後の研究の横展開が楽しみです。

ちなみに冒頭の丹下典膳と長月隼人は下の小説「薄桜記」と「八丁堀剣客同心」シリーズの主役の名前(もちろん架空)です。



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