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週刊武春 織田家 寺社・風習

戦乱で途絶えていた伊勢神宮の式年遷宮 復活させたのは織田信長だった!?

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比叡山焼き打ちや一向宗虐殺など、織田信長といえば神仏をあがめない不遜な人物というイメージがある。ところが、実際の信長は、決して既存の宗教を軽んじていたのではない「宗教的な常識人」でもあった。

そんな逸話の一つが、2013年の秋に行われた20年に一度の伊勢神宮の「式年遷宮」(建て替え)からも浮かぶ。
飛鳥時代の7世紀から原則20年ごとに行われた伊勢神宮の式年遷宮だが、朝廷の力が落ちた中世になると、遷宮のための多額の費用と時間を捻出できなくなった。各地で力をつけていった戦国武将たちは「自国」の経営には夢中だが、日本国全体を統括する伊勢神宮には関心を持たなかったのだ。

伊勢神宮の式年遷宮を復興させたのも信長さん

信長が、伊勢神宮に目を付けたのは、たんに尾張の隣の伊勢国への進出を狙っていたのでは?と思うかもしれない。

しかし、それが本当の理由ならば、伊勢国でナンバー1の神社(一の宮)は、伊勢神宮ではなく椿大神社(鈴鹿市)という神社があるので、こちらを抑えれば事足りる。

信長は、これまでの戦国武将をこえる視野と戦略を持っていたというべきであろう。

信長が計画した式年遷宮は、天正13年(1585年)のことだった。

あれあれ、信長は1582年に本能寺の変で死んでいる。そう、現在の式年遷宮も、材料となる樹木の選定、付属する調度品や神宝などの作成、もちろん建物自体の建造を何年も前から始めている。
結局、信長が式年遷宮に立ち会うことはできなかったが、信長が復興に着手し、秀吉が遷宮の節目で実行し、そして家康が継続させ、今に至るのだ。
戦国三傑が一つのプロジェクトを継続して行った稀有な例といえるだろう。

 

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式年遷宮できない期間はプレハブでしのぐ

ちなみに、遷宮が行われていない100年以上もの間、ほったらかしかだったかというと、さすがにそうではなかった。義経と弁慶でおなじみの「勧進帳」(寺社の復興のための募金活動、義経のときは東大寺大仏殿復興のため)という「募金」システムが日本にはあった。
戦国時代も、尼や僧たちが全国をまわって勧進してお金を集めたのだ。しかし、戦国の世の庶民は貧しい。現代ならば1円玉やペットボトルのふたを集めるので精いっぱいという程度しか資金は集まらなかった。
正式な遷宮にはとても資金が足りず、とりあえず内宮正面の宇治橋(上の写真)と、内宮と外宮については仮殿遷宮という方法が用いられた。いってみれば「プレハブ」を作ってご神体を移し、その間に、本殿をちょっとずつ修理したのだ。

このときの伊勢神宮の禰宜(神職)の荒木田守武という人が句を詠んでいる。

元日や神代のことも思はるる

「元日のおつとめをしていると、昔はどれだけ壮麗だったのかと思ってしまう。今はちとさびしい……」という心情が込められている。

この人は1549年に亡くなっているので、江戸時代にお伊勢参りで、伊勢が一大観光地になって大にぎわいとなるとは想像もしていなかったことだろう。あの世で、信長の手をとって感謝しているかもしれないが。

恵美嘉樹・記

 

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参考文献
千種清美「伊勢を愛した人びと」『ひととき』2011年12月号、12年1月号

 




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