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「水馬鹿」と呼ばれた北楯利長~庄内平野に「北楯大堰」を築いた65歳の最上家家臣

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困難極まる治水事業を成功させた北楯利長

山形県最上川西に広がる庄内平野は、日本有数の米どころとして知られています。

ところが、です。今から四百年ほど前の庄内平野は、平地でありながら不毛の地でした。
それが現在のように生まれ変わったのは、すべて北楯利長(きただて としなが)という最上家の家臣が、困難極まる治水事業を成功させたからであります。

もともとこの地は、戦国時代末に大宝寺義氏が支配しておりました。
義氏は内政を軽視し、日々戦いに明け暮れ、その影響から地元の人々は生きていくだけで精一杯。大宝寺氏の滅亡後は、庄内の領有権をめぐり上杉家と最上家が死闘を繰り広げます。
更に、豊臣政権下に入ると、今度は重税に苦しめられました。
最上領の場合、四公六民か五公五民だったのが、豊臣政権下では全国一律二公一民とされたのです。

寒冷地であり、荒れ果てた庄内地方は一毛作しかできず、ただでさえ収穫高の少ない土地です。
とても生きてはいけない――そんな年貢率に苦しんだ領民は「庄内藤島一揆」を起こします。一揆は上杉家によって鎮圧されましたが、その過程で多くの民が命を落としました。

荒れていた庄内地方はさらに荒み、多くの働き手をも失うことになったのです。

 

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民に慈悲深き最上義光 目をかけられた利長は立ち上がる

庄内地方が安定したのは、関ヶ原の戦いのあと、最上義光が支配するようになってからでした。
内政手腕に長け、敵には容赦なくとも民には慈悲深い名君・義光のもとで、庄内の民はやっと安寧を見いだすことができたのです。

庄内の狩川城主となったのは、最上家臣の北楯利長(きただて としなが)でした。
石高は三百石程度とも、あるいは三千石とも言われています。彼のそれまでの功績はあまり伝わっていません。2500名はいたという最上家臣の中で、さして目立つ武功があったわけでもなかったのでしょう。

あるとき義光が狩川城に立ち寄った際、武具を点検したところ手入れが行き届き、銃弾等は多めに備えてありました。これ以来、義光は利長に目を掛けるようになりました。
また利長は庄内でとれた鮭や和リンゴを義光に贈呈しており、そのことを感謝した義光からの礼状も残されています。

利長は領内を視察していて、痛ましい光景を見ました。夏になると大地が干上がり、稲が枯れてしまうのです。
「水がないのはどうしたことか」
利長が尋ねると、民はこう答えました。
「水はどうしても引けないんで、雨や沢の水を使うしかないんです」
「川なら近くにあるようだが」
「それが川と地面の高低差があるんです。どうしても水を引けないんですよ」

そう、原因は地形にありました。
水源になる川はすべて土地より低いところにあって、水を引き込みようがないのです。
ここで普通の人ならば「そうか、仕方ない」と思うところでしょう。
ところが利長は違いました。

「つまり、ここに水を引くことさえできれば豊かな土地になるということか。そうすれば民の暮らしは潤い、殿もきっとお喜びになるだろう」

利長は庄内を豊かにするため、主君に忠誠を尽くすため、現地調査を始めます。
このとき利長は既に50歳過ぎ。「人間五十年」とも謡われた時代に、新たな人生の可能性を広げ始めたのです。

たわわに実る庄内平野の稲と、その向こうには鳥海山

 

執念の水源探しとプレゼンテーション

利長は何かに取り憑かれたように、熱心に水源を探し始めました。

人に出会えば「どこかに水源はないか?」と尋ねる利長。あまりのしつこさに呆れた住民たちが、利長のことを陰で「水馬鹿」と呼び始めたほどです。

しかし、調査すること数年。熱意と調査の結果、利長はついに月山から流れ出る立矢沢川に目を付けます。
「この流れを変えて堰を作ればよいのだ!」
利長は思いつきました。

とはいえ、簡単な工事ではありません。
利長とその家臣だけでは到底できない大規模な藩営事業になる見込みでした。そこで利長は大工から技術を学び、完璧な工事請願書を作成し、慶長16年(1611)夏、主君の義光に提出することにしたのです。

義光はその計画書を見て驚き、利長の熱意を感じました。
しかしこの規模となると、藩主の一存で決定できることではありません。重臣たちを呼び集めて評定を開きました。

長谷堂城の戦いの活躍で名高い志村光安、義光の三男の清水義親らは計画に断固反対しました。庄内各地から人も金も集めなければなりませんから、なかなか大変なわけでして、仕方のない部分もあったのでしょう。

一方、庄内で治水に取り組んできた新関久正は利長の計画を強く推進します。

議論は決着がつきそうにありません。義光は一旦議論を終わらせ、利長を呼び出し、直接意見を聞いてみることにしました。そこで利長は熱心にプレゼンテーションを行ったのです。
義光はその熱意だけではなく、計画そのものの完成度の高さに感心しました。そこで義光は、さらにプロの意見を聞くことにしました。大工頭の若狭を派遣し、現地を視察させたのです。

若狭は利長の立ち会いのもと十日ほど測量を行い、計画が妥当であると診断しました。
慎重な義光も納得し、ついに翌年春より着工するという決断を下します。

工事の責任者はもちろん、利長。
慶長17年(1612)春、雪解けを待ってついに工事が始まりました。

 

およそ6000人を動員して、大工事が始まった

大堰の工事に動員されたのはおよそ6000人でした。
人夫は徴発とはいえ、給金と食事が出るため喜ぶ者もいたそうです。

険しい傾斜地が現場。掘ったと思ったら崩れてくるような難工事であり、事故に巻き込まれて16人も生き埋めになったこともありました。
利長はこの事故に深く心をいためました。

こんな話もあります。
あるとき、地面を掘っていた人夫が大慌てで利長の元にやってきました。土の中から金銀財宝を入れた壺が出てきたというのです。利長はこう言いました。

「これはきっと埋蔵金だろう。そなたらの心がけがよいからこのような功徳があったのだな。取っておきなさい」

これを聞いた人夫たちは大喜びで作業を再開しました。
実はこれは埋蔵金ではなく、利長が事前に埋めておいたプレゼントでした。

懸命に工事を行う利長たちに、山形の義光も心を寄せていました。利長と工事の進捗をやりとりし、その様子をとても喜んでいました。
高齢であり病がちであった義光は現場に行けないことを詫び、利長に「川風が冷たいだろうから」と褒美に頭巾を贈りました。
利長の肖像画や銅像は必ず頭巾を身につけていますが、この義光からのものをかぶっているという設定なのでしょう。義光は江戸にのぼったら幕府の首脳に必ずこの功績を伝えると約束しました。

事故のあと、工事は順調に進みました。
秋頃になり最終段階にさしかかったところ、最上川の流れに当たります。なんとしても埋めなければ完成しないのに、急流は埋めたと思ったらすぐ流れてゆきます。

これは川の神が怒っているからに違いない。神をしずめるため、利長は秘蔵の青貝摺の馬の鞍を、流れに投げ込みます。
すると急流は穏やかになり、工事を進めることができました。

この場所には現在、「青鞍の淵」という石碑が建てられています。

雪が降り積もった鳥海山は出羽富士とも称されるほどの美しさ

 

米どころ庄内平野が始まった

慶長17年(1612)秋、およそ10キロにわたる大堰が完成しました。
荒野が肥沃な大地に生まれ変わり――。周辺の地域では新田開発が進み、石高はおよそ工事前の十倍になったのです。人々も集まり、新たな村も開拓されました。

義光はこの堰を「庄内末世の重宝」と激賞。北楯利長は65歳にして、大事業を成し遂げたのです。

最上家の改易後、庄内藩をおさめた酒井家はさらに米どころとして開発を続けました。
そしてその最初の大きな一歩は、北楯利長によって刻まれたのです。

安永7年(1778)には水神社が建てられ、利長が水神として祀られました。この大堰は現在も使用されています。

利長は水神として、「北楯神社」から今日も緑豊かな庄内平野を見守っているのです。

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記:最上義光プロジェクトhttp://samidare.jp/mogapro/
最上義光の知名度アップを目指し、オンラインで情報発信を続けているサイトです。

雪深き鳥海山への道

 



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