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黒田官兵衛百物語 黒田家 名脇役

神主さんだった軍師が黒田官兵衛で参謀型軍師に進化!

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来年のNHK大河ドラマのタイトルが「軍師・官兵衛」だと云うことで「軍師」なる語が、これから一年ほどの間、脚光を浴びるコトになるだろうと思います。来年の流行語大賞では、ベスト10内に「軍師」がランクインするようなコトになるかもしれません。
その「軍師」なる語が、大河「軍師・官兵衛」の主人公・黒田官兵衛が活躍した戦国時代をおよそ400年遡り、源頼朝が平家政権打倒に第一矢を放った時の記録に関連して出て来ます。
鎌倉幕府の記録を綴った「東鑑」中に「武衛(源頼朝) 、住吉小太大夫昌長を軍師につけらる」とあるのがそれです。
治承四(1180)年8月17日。源頼朝は、平家でない者は人ではない、とさえ言うほどに、権勢を独占した平家政権打倒の一矢目としては、心細い数といえる90騎ほどの手勢で、伊豆の平家目代・つまり代官の平兼隆邸を襲い、その首級を上げることに成功します。
その挙兵に際して、住吉小太大夫昌長という人物を頼朝が軍師とした、と東鑑は記録するのです。

鎌倉時代以来の軍師とは占い師?

東鑑がそうして語る、この住吉小太大夫昌長という人は、頼朝挙兵の前年に筑前から伊豆へと流されて来ていた、筑前住吉宮神官の兄弟でした。つまり神主さんだった、ということです。
平兼隆邸襲撃の日取り8月17日は、頼朝 の命を受け、小太大夫昌長が占ったものでした。挙兵前日の16日には昌長が祭主を勤め戦勝祈願のお祭りがとり行われています。要するに昌長は、頼朝に従い、本職とする神官としての役割を努めていたのです。
そんな、神官としての勤めを粛々と行っていた昌長のことを、頼朝は、どうして軍師として従がわせたのか。軍師と言えば戦いにおける企画者であり、現代で言えば作戦参謀ではないか、と筆者・FrcoDonは長く疑問として持っていたのです。
この疑問を解いてくれたのが静岡大学名誉教授の小和田哲男氏でした。 小和田氏が、その著書『黒田如水~臣下百姓の罰恐るべし ~』(ミネルヴァ)中で軍師というものの性格・機能の変遷について簡単にふれてくれているのでした。
それによると古く軍師とは、戦における吉凶を占ったり、成功を祈願する者を指して言ったとのことです。まさに、頼朝の挙兵に従っていた小太大夫昌長が勤めた姿を軍師と言っていたのです。
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竹中半兵衛アニキとともに軍配型へジョブチェンジ!

これに対して現代でいう、作戦の企画立案を行う参謀としての意味合いを軍師という言葉が持つようになったのは戦国時代も半ばに入ってからのコトだそうです。小和田氏は前者を陰陽師型軍師、又は軍配型軍師と説明し、後者を参謀型軍師と言っています。
そして、軍師との語が、作戦の立案者・企画者としての参謀の意味合いを持つようになるのは、まさに「軍師・官兵衛 」たる黒田官兵衛と、その盟友であった竹中半兵衛重治の二人が豊臣秀吉の元、幕僚として作戦の立案・企画を行い活躍してからのことなのだそうです。
われらが黒田官兵衛こそが、竹中半兵衛と並んで、参謀型軍師としての始まりなのだ!という話しでした。
FrcoDon 記(福岡県在住)



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