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黒田官兵衛百物語 黒田家 名脇役

若き「軍師」黒田官兵衛の戦術さえる青山・土器山の戦い

更新日:

 

若き官兵衛の戦いから分析する武将としての才覚

黒田官兵衛の初陣については、「黒田家譜」に「十七歳にて、始て播州の地戦に軍立して、高名をあらハさる」とあるのみで17才のときだったとは知っても、戦いの中身については不明だ。
後に、「希代の軍師」と呼ばれることになる官兵衛の戦いの中身を、後代の私達が知るのは、官兵衛22歳の永禄十二年(1569)5月に室町幕府開府以来の名族・赤松氏の枝流である赤松政秀を姫路を貫流する夢前川の西岸・青山に迎え撃った「青山・土器山(かわらけやま)の合戦」が初めとなる。
赤松氏の枝流である政秀と宗家の義祐の間での内紛から引き起こされた、この戦。義祐に 属し、官兵衛が家老を勤めていた小寺氏の所領へと、西播州の居城・竜野城から赤松政秀が3000の手勢を率い進攻する。
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官兵衛と信長の共通点?

 迎え撃つ姫路城を守る、官兵衛の手勢はわずかに300。10倍の數の敵を迎えるのに篭城も考えられたが、この時、官兵衛が取った手は、城を出て西に1里の青山の山間に伏兵を配し、一挙に奇襲をかけ撃破するというものだった。
この点、今川義元が擁する大軍を、少ない兵で桶狭間に迎え撃った織田信長の天才的な判断と似ているといえるかもしれない。
そうして、不意に仕掛けられた野戦に、虚を突かれた赤松軍は混乱。竜野城へと敗走する。
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勝利に沸く敵の油断をつく官兵衛

翌月、赤松勢3000が再び姫路へ侵入。今度は青山・小丸山に布陣した。
 対する官兵衛は150騎で、夢前川を挟んだ 東の土器山(かわらけやま)に布陣。ところが、赤松勢の夜襲を受け壊滅寸前まで追い込まれてしまう。この時、官兵衛は主力の侍数名を失うのだが、父の職隆の来援を知ると、生き残った手勢を合わせて、ひと時の勝利に酔う小丸山の赤松本営を急襲した。
壊滅寸前にまで追い込んだ敵が、寸時を待たずに襲ってくるとは思いもよらぬ赤松軍の油断を突き潰走させたのだ。
これも織田方の砦を撃破して戦勝ムードとなっていた今川軍に突っ込んでいった信長と似ていると指摘することもできるだろう。
後に秀吉の臣となり、「干し殺し」と呼ばれるた別所氏の三木城の包囲攻め、備中高松城の水攻めなど、攻城上の大がかりな戦術・戦法、戦略を廻らすといった知謀との将としての印象とはまた違い、官兵衛が、信長や、古くは源義経などが天性のものとして持ち合わせていた、白兵戦において戦機を捉える、野獣の感覚をも持ち合わせた武人であることを「青山・土器山(かわらけや ま)の合戦」は教えてくれる。
FrcoDon・記(福岡在住)
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