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圧切伝説(霜月けい・絵)

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黒田官兵衛百物語 黒田家 名脇役

秀吉、信長を驚かせた毛利攻略の大戦略【軍師黒田官兵衛百物語その2】

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黒田官兵衛は、みずからの分析で、主君の小寺政職が信長に臣従するよう主張し、それが取り入れられた。(前回
そして、天正3年(1575)7月 官兵衛は主君の名代として「小寺」官兵衛を名乗り、はじめて岐阜城で織田信長と対面した。

軍師官兵衛200

絵・桂花

官兵衛がそこで出会ったのが一生の付き合いとなる木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)であった。中国地方の毛利氏十一カ国を攻略する上での大戦略を説くと、秀吉はこの作戦を信長に伝えた。

信長「お前のアイデアとオレの考えは全く一緒だ!」

興味津々の信長は官兵衛と岐阜城の広間で直接会い、わざわざ近くに招き、直に事の子細を質問した。

さて、その信長の興味をひいた官兵衛の大戦略とはどんなものだったのか。

毛利が征する中国へと進攻するためには、官兵衛が属する小寺氏が3分の1を領する播磨国(兵庫県)の攻略がまず第一となる。
畿内から播磨への道は山越えの経路もあるが、平野部をいく経路の中心に位置する小寺領(姫路城など)を差し出す。
この経路をとって織田のうち大将一人を差し向けてもらい、先鋒を小寺に任せて欲しい。

播磨自体は今の所、絶対的な大名がいないので、毛利に従おうかという勢力が多いが、織田軍が姫路に入城すれば、三木の別所氏以外は、ほとんど計略と交渉で味方につかせることができる。
別所は播磨において小寺と並ぶ大名であるが、これを討ち果たし、毛利との国境に近い佐用城と上月城の別所派を攻略すれば、いよいよ、毛利を討伐できる――という内容だった。

信長は官兵衛が説くところに「その方の言うところは、自分が考えていることと、まったく同じだ(その方申趣我等所存と少しも相違なし)」とうなり、秀吉を差し向ける、と約束した。また、毛利攻めでは、必ず、そなたを先方に使うし、最後には信長みずからが出陣して決着をつけるとし、「御太刀一腰」を官兵衛に与えたという。(『黒田家譜』)

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信長拝領の刀が今も福岡市に

この時、官兵衛が信長から拝領した刀とは「圧切(へしきり)長谷部国重」の銘で、福岡市博物館(金印でも有名)に国宝として伝わっている。

国宝「へし切り長谷部」(福岡市博物館蔵、同HPより)

国宝「へし切り長谷部」(福岡市博物館蔵、同HPより)

長谷部国重は建武期(1334~36)頃の山城国(京都)の刀工。「ヘシ切 国重ハ小寺政職ノ使トシテ孝高公信長ニ面会ノ時中国征 伐ノ献策ヲ賞シ与ヘラレタルモノ」と黒田家旧蔵の『黒田家御重宝故実』に記されている。

「圧切」の銘は、信長の勘気に触れた僧が膳棚の下に隠れたが、信長は膳棚ともども、僧を圧し切ってしまったという、とんでもない話からきている。

百物語3へ続く

絵・霜月けい

絵・霜月けい

(詳しくは「切れすぎだろ!古今東西トンデモ名刀 伝説ベスト7!【画像あり】

なお、その後、信長の先鋒として戦った戦いに英賀合戦があるが、すでに掲載すみなので、ぜひこちらも読んでいただきたい。

「軍師黒田官兵衛が毛利の大軍を撃退した「英賀合戦」の戦略と真の敵とは」

 FrcoDon・記(福岡県在住)

 

参考文献 

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『黒田家譜』、小和田哲男『黒田如水』(ミネルヴァ書房)、渡邊大門『黒田官兵衛 作られた軍師像』(講談社現代新書)




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