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黒田官兵衛百物語 黒田家 名脇役

城持ち大名なのに優雅にお公家さんに歌を教えていた祖父・明石宗和の子孫が日本と台湾を救った 【軍師黒田官兵衛百物語3】

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母を亡くしたショックで「演歌」にはまる

黒田官兵衛の母方の祖父・明石宗和は、播磨国明石郡の枝吉城主で城持ちだった。
にも関わらず、隠月斉などとの号を名乗り、関白・近衛植家父子の歌道の師範だったという。武家にして、公家に歌を教えていたのだ。
 
その娘、やがて官兵衛の母となる岩姫も都育ちで歌を詠むという風雅なお姫さまとして育っている。
この風雅は官兵衛にも受け継がれ、実は官兵衛も多くの歌をのこしている。
『黒田家譜』では、官兵衛は14歳で母を亡くした。母の死を機に、官兵衛は和歌や連歌といった文学の世界に没頭するようになった。武将にとって和歌の素養は必要とはいえ、どっぷりはまるべきものではない。
17、18歳という、武士の子ならば馬や弓矢、読むものといえば兵書という時期に官兵衛は、現代風なら「プロの歌手」を目指そうとして、歌などの師匠である教育係りの僧侶から叱られている。つまり祖父と同様の道を進もうとしたのだが、東からは織田が、西からは毛利が迫ってくる状況で、それは許されることではなかった。
官兵衛自身の歌の話しについては、別の回で触れる予定だが、この官兵衛あこがれの「宗和爺さん」の子孫がのちに「日本」を救っている。
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官兵衛の祖父の子孫が日本と台湾を救う

明石本家は、秀吉の時代には絶えてしまった。しかし、枝流が福岡藩の黒田家に仕え、明治まで血を繫いだ。福岡藩士の次男として生まれた陸軍大佐・明石元二郎(1864~1919)は、日露戦争でロシア革命の支援工作を行い、日本を勝利に導いた立役者として知られている。
 
その後、朝鮮、台湾と植民地経営に携わったが、台湾総督を務めた台湾では、今でも、水力発電や鉄道網などインフラの整備を進めた人物として尊敬されている。
 
明石氏はふるさとの福岡でなくなるが、「余は死して護国の鬼となり、台民の鎮護たらざるべからず」
(私は死んで国を守る霊となり、台湾の民を守る)との遺言で、あくまで民を思う人生を全うした。
この遺言は言葉だけでなく、「本当に」台湾を守った。
第二次大戦後、中国大陸では蒋介石の国民党軍と共産党軍が戦い、国民党軍は台湾へと追いやられた。
台湾の対岸の金門島の戦いに敗れれば、国民党も台湾も終わりという瀬戸際に、日本の根本博・元中将が日本から密入国してかけつけて、参謀として圧倒的な多数の共産党軍を撃退した。
このことは、門田隆将『この命、義に捧ぐ』(PHP、今年10月に角川から文庫化)に詳しいが、戦後に渡海することが難しかった中で、台湾までの海路の案内をしたのが明石氏の息子だったのだ。
日露戦争では日本を守り、戦後は台湾を守った人物をさかのぼると軍師官兵衛につながる。
 
 
FrcoDon(福岡県在住)・記
 



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