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佐用城があった丘陵

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黒田官兵衛百物語 黒田家 名脇役

竹中半兵衛との出会い 佐用城(福原城)攻め【軍師・黒田官兵衛百物語6】

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西播磨(兵庫県西部)の大名である小寺家は黒田官兵衛の尽力で、織田信長に従うことになった。

これに危機を覚えた毛利方が海から急襲した天正5年(1577)5月の英賀合戦で、官兵衛が「軍師」ぶりを発揮して撃退。織田軍が来る前に官兵衛が小寺家のみの小勢力で勝利した影響は大きかった。
どっちつかずだった西播磨の諸勢力がなだれをうって織田方についたのだった。

毛利との直接対決を決断した織田信長は、この年の10月、羽柴秀吉を将として兵7千を西播磨へと進攻させた。

5年に亘る織田軍の毛利との攻防のはじまりだ。

狙いは、備前・美作(みまさか、岡山県)のラインを突破すること。美作国境付近にある上月城が遠征作戦の最初の目標だ。そのために11月26日、まずは上月城から4キロに位置する佐用城(福原城)を秀吉・官兵衛たちが攻めることになった。

佐用城があった丘陵

佐用城があった丘陵

sayoujoukanbei佐用城主郭部分

佐用城の主郭部分

先遣隊を任された官兵衛は孫子の兵法「囲師必闕」に習い三方から塞ぎながら、一方に敵の逃げ道を作る作戦で臨んだ。この戦いで、秀吉の「軍師」として名高い竹中半兵衛とともに作戦を行っている。

黒田家譜は「孝高(官兵衛)の謀(はかりごと)にて三方を囲み 一方を攻め給う これ孫子が 所謂 囲師必闕という軍法なり」と語っている 。

夜半から攻撃を開始し、三方から苛烈に攻め上げた。すると、明け方近くには、開いていた一方から逃亡する城兵がではじめる。終いには、城主・福原助就も飛び出して来て打ち取られてしまった。

主郭に鎮座する福原氏を祀る「福原霊社」

主郭に鎮座する福原氏を祀る「福原霊社」

織田軍の将僚・秀吉の軍師としての官兵衛デビュー戦は孫子で勝利を飾った。そして秀吉軍は次ぎの目的地、上月城へと向かう。

 

なお、毛利方として佐用城の支援(後詰)に来たのが、宇喜多直家(のちの五大老・秀家の父)である。秀吉軍と激突した直家は首619もとられるという大敗北を喫した。2年後に宇喜多は秀吉に寝返るのだが、二兵衛(官兵衛と竹中半兵衛)のペアの活躍の影響もあっただろう。

百物語7へつづく
FrcoDon・記・写真

佐用城址/兵庫県用郡佐用町佐用

参考
佐用町役場HP

黒田家譜

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渡邊大門『黒田官兵衛 作られた軍師像』(講談社現代新書)




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