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黒田官兵衛百物語 黒田家 名脇役

快進撃の織田軍が一転、窮地へのきっかけ「加古川評定」【黒田官兵衛百物語9】 

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織田信長の下知を受け、西播磨(兵庫県西部)へと入ってきた7千の羽柴秀吉の兵を「軍師」として先導する黒田官兵衛。
 
秀吉軍が播磨へ入るのには、それまでに官兵衛がとった調略が見事に成功したようで、最大の勢力・三木城主の別所氏も含めて、播磨の各勢力からの抵抗はなく、一応は文句なく受け入れられる形となった。各勢力は織田方へ人質を出すことを求められるのだが、みずから唯一の男子を人質に出している官兵衛が交渉の先頭にたったために、説得力が高かったのは言うまでもない。
秀吉軍は、天正5年(1577)末に毛利方の美作国(みまさか、岡山県)との境に近い佐用・上月の二城をまたたく間に抜き、どうだと ばかりに播磨の野にその実力を見せつける。
 
年が明けた天正6年(1578)2月に、開かれたのが「加古川評定」だ。播磨の大小の武将を一堂に集め、織田方として対毛利同盟を固くしようというわけだ。

賤ヶ岳七本槍の一人の本拠地で

播磨五川のひとつ加古川(筆者撮影)

播磨五川のひとつ加古川(筆者撮影)

場所は播磨国を流れる、加古川の下流にあった糟屋武則の城館「加古川城」。糟屋氏は鎌倉・室町時代からの地頭職として生き延びてきた土豪だった。官兵衛の主君の小寺氏を越える西播磨最大の大名(43万石相当とも)だった別所氏に仕えていた糟屋氏だが、秀吉が播州へ入ってくると当代の武則は、すぐさまよしみを通じたのだそうな。あの賤ヶ岳の七本槍の一人に数えられることになる侍だ。
 
評定を開くのに、加古川城に各勢力のオサを集める工作は、官兵衛の役回りだった。この正月に、秀吉は信長への戦勝報告で安土城へ行っていたからだ。
官兵衛の仕事は、東播磨最大の別所氏の当主・長治の顔が評定の場にあるか否かが、成功の鍵を 握った。
 
天正6年2月23日、加古川評定の当日。糟屋の城館に別所氏として顔を見せたのは当主の長治ではなく叔父の賀相(よしちか)だった。
 
この賀相。『別所長治記』という後世の軍記物には「信長なんてヤツはペテン師だ、そんな主人に仕える織田の家臣どもは、どいつもこいつも軽薄でなってない」などと日頃から口にしていたとある人物だ。つまり毛利派である。
 
評定が終わって、三木城に戻った賀相は「別所殿はただ槍をふるっておられればよい、大将であるこのワシに従っておればよい、などと秀吉はぬかした。われら別所一族を馬鹿にしやがった!」とも賀相は言ったという。
 
ようするに評定は失敗に終わった。秀吉軍の播磨入りの際の中小豪族の無抵抗 は、味方を装う様子見だったのだ。最大の勢力である別所氏が、どうやら毛利に組すると見た地元の武将達は、自分達も別所氏に従うしかないとの思案をしつつ、評定の場を後にする。
加古川城跡に立つ称名寺(Wikipedia加古川城より)

加古川城跡に立つ称名寺(Wikipedia加古川城より)

 
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一向宗の影響力の強さ

官兵衛の知略をもってしても、播磨の諸勢力をまとめることが、できなかったのには入り組んだ原因が考えられるが、何よりも大きく作用したのは、播磨には一向宗門徒が多かったということだ。
 
官兵衛と秀吉の主・織田信長は、評定の4年前、天正2年9月に、伊勢長島の願証寺を中心に組まれた砦を、7、8万の兵力で攻めたて、二重三重の柵で囲ったうえに火を放ち、篭城する2万人の一向宗門徒を焼き殺している。そしてまさに今、一向宗の拠点・石山本願寺(のちの大坂城)を攻撃している。
官兵衛と秀吉の軍勢は、一向宗門徒にとっては宗門の憎むべき 敵であり、許すことができない仏敵だった。自分自身が、その門徒であるとないとに関わらず、地元の豪族達にとっては、領内に多く住む、一向宗門徒を無視することができなかった。実際に信長軍が入る前年の英賀合戦(官兵衛VS毛利)でも、近年は毛利だけでなく一向宗の影響を見るようになっている。(参考記事官兵衛が毛利の大軍を撃退した「英賀合戦」の戦略と真の敵とは
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背後には信長に追放された将軍も

 さらに、信長に追放された室町将軍足利義昭も積極的に別所氏離反に関わっていた節がある。この頃、義昭は毛利家に保護されて鞆の浦(ジブリの映画「ポニョ」の町のモデルで有名だ)に文字通り幕府(幕府とは本来、臨時の場所)を置いていた。2月の離反の翌月、義昭が自らの工作が成功したことを喜んでいる文書が「吉川家文書」に残る。
ともかく、評定の失敗は、やがて丹波、大坂、摂津、播磨での四方面作戦を織田軍に強いる結果をよぶ。官兵衛にとっては、人生最大の窮地をむかえる導火線となる。
 
FrcoDon・記
*加古川評定は、小瀬甫庵『太閤記』や『別所長治記』という江戸時代の軍記物での逸話が多いため、史学的には別所氏離反の原因は特定されていないが、織田方への不満と毛利・一向宗・将軍からの調略をうけたなど複合的な要因であろう。

 

参考
 
 
 



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